ブラームスのチェロソナタの第2番(堤剛、サヴァリッシュ)を聴きながら、友人に長いメールを2本も送った。受け取った友人の迷惑も省みず、書きたいことをただずらずらと書いてしまった。
そろそろ退職者会ニュースの3月号の作成を開始しなくてはいけないと思いつつ、なかなか手をつけられない。いろいろなことが起きて、どういう割付にするか、想定すらできていない。困ったものである。今週中にはおおよその形を自分の頭の中で思い描きたいものである。
もう本日は23時を大きく回ってしまった。本日はこれにて業務終了。
ブラームスのチェロソナタの第2番(堤剛、サヴァリッシュ)を聴きながら、友人に長いメールを2本も送った。受け取った友人の迷惑も省みず、書きたいことをただずらずらと書いてしまった。
そろそろ退職者会ニュースの3月号の作成を開始しなくてはいけないと思いつつ、なかなか手をつけられない。いろいろなことが起きて、どういう割付にするか、想定すらできていない。困ったものである。今週中にはおおよその形を自分の頭の中で思い描きたいものである。
もう本日は23時を大きく回ってしまった。本日はこれにて業務終了。
「奥の細道」を書き写しているうちにようやく文字に慣れてきたのか、読書する気力が湧いてきた。
「この父ありて 娘たちの歳月」(梯久美子、文藝春秋)を読み終えた。9名の女性の生き方について、「父」との関係から読み解く作品である。費やされた頁数で見ると、茨木のり子、石垣りん、石牟礼道子、辺見じゅん、萩原葉子という順になる。作者の力点も彼女たちにあるのかもしれない。
私は石垣りん、茨木のり子、石牟礼道子の生涯と父との関係についておおいに学ばせてもらえたと思っている。
特に石牟礼道子の椿の海の記」から父の亀太郎、祖父の松太郎、祖母のモカを含めた「家」のあり様に触れた個所と道子の生き方への相関への言及は惹かれた。
「あとがきにかえて」で、作者は
「子が親を書くには、「近い目」と「遠い目」の両方が必要である。前者は日常をともにした肉親の親密な目であり、後者は社会の一員としての親を一定の距離をとって見る目である。本書の女性はみな「書く女」である。彼女たちが父について書いた文章には、「近い目」による具体的で魅力的なエピソードが数多くあるが、一方で、父の人生全体を一歩引いた地点から見渡す「遠い目」も存在する。そこから浮かび上がるのは、あるひとつの時代を生きた、一人の男性としての父親の姿である。」
「成熟した目と手をもつ彼女たちが父を書くことは、歴史が生身の人間を通過していくときに残す傷について書くことでもあった。この九人は、父という存在を通して、ひとつの時代精神を描きだした人たちだった‥。」
と記している。
さて、父としての私は娘にどのような時代精神を見せているのだろうか。私が父親や母親を見る以上に、見られる自分はどんな像を娘に結ばせているのであろうか。見られる自分にはとても自信はない。
午前中からの会議は途中で退席させてもらって、家族3人で横浜駅近くで予約氏をしていた店に入り昼食会。先ほど帰宅。会員に葬儀の概要のメールを送信しているうちに17時を過ぎてしまった。
だが1番の問題は、私の喪服である。ズボンが穿けなくなっている。ズボンは辛うじて穿けたもののかなりきつい。これ以上はひろげられないと3年前に言われていたそうである。しかも上着がきつすぎて無理であった。スタッフの一人としてはこれではまずい。
残念であるが、新規購入するしかないという決断をせざるを得ない。冬はセーターなどを着ればなんとか寒さはしのげるので、夏物を購入したい。しかし今の時期、夏服は販売していない可能性がある。明日中に用品店で相談である。
先ほどまできつい喪服と格闘して疲れてしまった。
これより、3日間できなかった「奥の細道」の書き写し、第31段「羽黒山」の後半を行いたい。久しぶりなので手が震えるかもしれない。