明日は今のところ予定は入れていない。神坂雪佳展と本日の音楽会のチラシや資料をファイルに入れ、図録を本棚にしまいこむ作業をこなさないといけない。本棚から本がまたまたあふれだしそうになってきた。
増えるのは文庫・新書が主であっても、年間50冊を超えるので、コロナ禍の丸3年で150冊は溜まってしまう。これに大型の図録や、退職者会や各種講座の資料を加えると、やはり私の部屋は紙であふれてしまう。写真や、自分で作る資料はデータ化できるが、機関会議の資料はスキャナーでデータ化するには時間がかかる。少なくとも古い資料は廃棄するしかないようだ。私の死後、妻や子に後片付けの面倒を欠けるのも申し訳ない。
こんなことを考えていると、眠れなくなってしまいそうである。
久しぶりに室内楽をコンサート会場ではなく、サロン形式の狭い空間で楽しんだ。ピアノとヴァイオリン、チェロのデュエットとトリオ。「神奈川フィルハーモニー団員によるアール・ド・ヴィーヴルかながわ」の演奏。
デュエットは「サロメ」(北井康一作曲)と「ヴァイオリンソナタK.454」(モーツアルト)。休憩後のトリオは「お江戸日本橋」(北井康一編曲)と「ピアノトリオK.548」(モーツアルト)。
この音楽界は実は、私の中・高の同窓生である北井康一氏の「横浜市西区薬剤師会会長就任記念」と銘打って行われた。「コロナ禍でも、生の音楽を届けたい!」という氏の思いが詰まっている。音楽にまつわるさまざまな活躍を続けている氏に敬意を評さなくてはならない。
高校卒業後は付き合いがほとんどなかった。原因は私が同窓生とは同じ市役所に採用された5人ほどを除いてほとんど行き来をしていなかったからであるが、1990年代頃に同窓会に初めて顔を出した時に再会したのではないだろうか。違っていたらゴメンナサイである。
私は北井氏とは違って、クラシック音楽の能力も熱意も、また音楽で広範囲で活躍したいという意欲もセンスも甲斐性もない。高校を卒業して3年目にはヴァイオリンをやめてしまった。すべてのジャンルの音楽そのものからも遠ざかった。楽典の教科書も廃棄した。ただし聴くことだけは木綿糸1本程度に細々と続けた。特に30代後半から50歳前までは、あまりの忙しさの中で、わずかな時間を割いて聴くことすらままならなくなり、退職したら存分に聴きたいと念じて、たくさんのCDをは購入してきた。大編成の管弦楽から次第に室内楽に好みが変わってきて、今に至っている。
普段は室内楽を音楽会場で聴くときは、何十メートルも離れたところに座って、数百人の聴衆の一人として聴く。本日のように十数人の中の一人として目と鼻の先でヴァイオリンの音を聴くのはとても嬉しいものである。
チェロなどは指板を押さえるときの指の音が聞こえるような位置で聴く音楽は、何ものにも代えがたい至福の時である。不思議なもので、もう50年以上ヴァイオリンも弓も持ったことはないが、自然と右手が弓の上下の動きを追っていた。左指は到底無理であったが。
今回はヴァイオリンもチェロも聴きごたえ十分であったが、私はピアノの演奏者の隅々まで行き届いた丁寧な演奏に脱帽した。とても優れた演奏であったと思う。
いい時間を過ごすことが出来て、北井氏に感謝である。
神坂雪佳(1866-1942)の作品に初めて接した。印象としては、図案家・デザイナーとしての作品が優れていると感じた。
陶器の図案が魅力的であった。
神坂雪佳の図案による河村蜻山が作成した「四季草花絵替扇面向付十口」(大正年間)は魅力的である。この器などに盛り付けられた料理を味わってみたいし、手にもってじっくりと眺めてみたいものである。
これらは色合いは派手ではなく、深みのある色合いが心を落ち着けてくれそうである。
絵画作品もデザイン性が前面に押し出されているので、鑑賞する人の気持ちにぴったりはまるものとそうでないものがあり、作品ごとにこのみがかなり分かれそうな気がした。
私が気に入ったものは、「四季草花図屏風」(大正末~昭和初期)、「四季草花図」(大正期)、「立葵図」(大正末~昭和初期)の3点。
花弁や葉に類型化され過ぎたような感じもしないではないが、あふれるような色彩と、構図の巧みさが魅力的であると感じた。
さらに描かれていない空間の処理などは光琳の特徴と思うが、雪佳の場合は描かれた空間の充実によりエネルギーが込められていると感じた。植物が密生した空間の処理が巧みである。
悪く言えば、「白梅図」は描かれていない空間に広がりを想像できなかった。「杜若図屏風」は描かれた空間が広すぎると感じた。
有名な作品といわれる「金魚玉図」は、「琳派に見られる大胆な構図様式とユーモアも確かに受け継いで」いる、と解説されていた。「釣り忍をあしらい、表装は葦簀に見立てる」などについては、とても面白いと感じた。肝心の金魚玉の度肝を抜く表現は、デザインとしては面白いのだろうが、奇をてらい過ぎていると思われた。
金魚もこんな風には写されたくなかったと同情する。