「語る歴史、聞く歴史 -オーラル・ヒストリーの現場から」(岩波新書、大門正克)を昨晩読了。
「語ること、聞くことの〈現場〉は、現在を生きる私たちにとっても、歴史のなかの人びとにとっても大切なものである。語ること聞くことの〈現場〉を通して歴史の中に生気を吹き込み、歴史を生き生きとしたものとして検証するとともに、〈現場〉を通して歴史と現在の接点を考えたく思っている。「語る歴史、聞く歴史」には、歴史や歴史学のあり方を問い直す可能性が含まれていると思っている。」
「私なりに体験を聞く歴史が成り立つ条件を整理すれば以下の四点になる。①語り手と聞き手の信頼関係のあり様、②聞き取りが成り立った条件、場についての自覚、③先入観を捨てて語り手の語りに耳をすます、④語りの意味を考え、聴き取りを叙述してかたちにする。」
「話に耳を傾けているなかで、語り手の沈黙にも意味があるのではないか、と思うようになった。‥沈黙にはさまざまな思いがあるだろう。話の内容の整理や逡巡、決断のあとに、沈黙を破る声が出てくる。聞き取りで語り手が沈黙すると、私はできるだけ呼吸を合わせ、語り手が離し始めるのをまつようになった。聞くということには、相手に尋ねるaskと相手の話に耳をすますlistenの二つがあることを理解した‥。」
「過去の事象を過去の時間のなかだけで叙述すれば、その方が理解しやすかったのかもしれないが、現に語り手はくりかえし過去に戻った。歴史は時間の経過にそって整理できる面を持ちながら、人びとのなかではたえず過去を振り返るかたちで現在がある。語り手と聴き手の相互行為を呪術師ながら通史を描くことには困難もあったが、私には歴史叙述の新しい可能性があるように思えた。」
4か所から引用した。2番目の引用で、③先入観を捨てて語り手の語りに耳をすます、というところの「先入観」には引っ掛るものを感じた。聴き手の「目的」「方法」「聞いたものを誰に向かって発信するか」など語り手と話し手の最低限の了解事項は前提である。また語り手と聞き手が同じ集団に属して「集団の歴史」を語る場合もある。その結果としての「叙述」をどのように評価するのか、過去のさまざまな「語り」の記述をどのように評価するのか、筆者の関心はこの歴史学的な定式化には触れていない。これは集団内の「語る歴史、聞く歴史」の実践への指針とはならない。
3番目の「沈黙」の取り扱いは、優れた指摘だと感じる。人は多くの場合、沈黙を前にしてせっかちに語り手を促してしまう。現に私も人と会話している間に、相手の沈黙にイライラしたり、逆に私の沈黙をせかされるように相手が喋り出してイライラしたりする。現役のときも、退職の今も、過去を振り返る語りのときに「沈黙」の意味の大さをあらためて大切にしたいものである。
4番目もまた優れた指摘だと感じた。人の歴史は時間軸だけで評価したり、語られてしまってはいけないものでもある。過去のA、Bという事象は、そのさらに前のC、D、Eという過去によってもたらされたものである。AはCとDにおおきく起因し、BはCとEにおおきく影響されている場合、人がAとBを語る時、Cは繰り返し語られなければ語り手は次には進めないものである。
またAとBには現実的には時間差はなくとも、語り手のなかでは、時間差が存在している場合もある。聞き手はそこにも注目しなくてはならない。それはやはり、語り手の気持ちに沿って聞くことをやめてはいけない。
私たちの世代はもう、歴史的事実となった過去を背負っている。そしてそれぞれの集団の中でその過去を叙述して残していくべき義務もいくらかある、そんな地平にいる。
この書の指摘、まだ未整理だと思われるところもあるが、私の周りの人の語りを聞くことに生かしてみたい。