goo blog サービス終了のお知らせ 

Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

微熱

2015年01月03日 20時16分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩の夜中から時々寒気がしたり、節々が何となくだるい。熱が出ているのかと心配したが、発熱はしていなかった。

 お昼前に急に「箱根駅伝を見たい」と言い出され、家から横浜駅の東口傍の青木通交差点まで2人で半分走りながら応援に行った。これでここ数年必ず見ている。本日は思いつくのも遅く、トップの青山学院大学の選手を見るには少々遅れて着いた。しかし、2位以下最後まで見届けた。

 みなとみらい地区にあるワードポーターズに用事があるというので、そのまま歩いた。帰りも横浜駅まで歩いて、2人共約1万5千歩。家に着いて昨日の初もうでの記事を書き上げたところでダウン。微かに寒気と震えが続いた。布団乾燥機で布団を急きょ温めて就寝した。鼻やのど、胃腸には異常はない。
 夕食後に熱を測ると37℃という微熱。といっても普段の体温が35℃代半ばの私には熱がある方である。この程度でダウンというのは妻の手前恥ずかしいのだが、久しぶりの風邪様の症状なので、本日は夜更かしはひかえることにした。鶴見神社と大森駅傍の鹿嶋神社についてのブログは明日に延期して就寝することにした。

旧神奈川宿大綱金刀比羅神社と洲崎神社

2015年01月03日 17時51分09秒 | 読書
 例年妻に連れられて詣でる神社はまず家の近くのこのふたつの神社である。今回は大綱金刀比羅神社から訪れた。

            

 本覚寺と三宝寺の傍に一里塚跡の碑があり、そのすぐ横がこの神社の鳥居である。この一里塚は日本橋を起点に7つ目の一里塚跡である。大天狗伝説というのがどういうものか不勉強なのでわからないが、境内には大天狗の像もある。
 元は裏の崖の上に位置して山岳信仰に関係する飯綱社ともいわれたらしい。しかし海上交通の目印となっていたらしく、琴平社を合祀してから大綱金刀比羅神社といわれるようになったという。
 しかし何よりも裏の急な崖から滴る水と小さな洞窟の奥に水天宮があり、水源として大事にされ祀られている。この水を祀るために下に移動してきたのかもしれない。
 神奈川宿の保土ヶ谷宿寄りにあり、洲崎神社より高台にあるので海上からは良く見えたと思われる位置にある。ただし、今は無いが洲崎神社の近くの権現社の方が目印にはなったと私には思われる。権現社が江戸時代後期に無くなったことと合わせて、研究課題はいろいろありそうだ。ここら辺のことは突き詰めると解らなくなることもある。
 横浜村の突端にある弁天社からもよく遠望できたと思われるし、洲崎神社にある船着場まで野毛や弁天社の方向から吉田新田の産物の運搬に大きな役割を果たした船乗りの信仰の名残りを見ることもできるかもしれない。
 しかし今は近くに予備校もたくさんあり、合格祈願の絵馬が多数かかっている。今はここからは空にそびえる高速道路やマンション群により関内方面・旧横浜村方面は見えない。みなとみらい地区の高層ビル群の頂きだけが見える。

            

 次に訪れたのは幕府直轄と云われた洲崎神社。受講した講座での話ではこの神奈川宿の洲崎神社の海に向かう参道の先に船着場があり、千石船は無理でも500石船程度の船が沖合に停泊できたという。
 吉田新田やその後背地からの荷、あるいは八王子街道からの絹製品などがここで大きな船に積み替えられたのかもしれない。
 開港後は開港地と東海道を結ぶ重要な渡船場ともなり、また一時は軍事上の要衝にもなったらしい。
 今は海はすっかり埋め立てられ、その面影は全くない。この傍の浄蓮寺はイギリス領事館跡、甚行寺はフランス公使館跡、本覚寺はアメリカ大使館跡などが連なっている。甚行寺はひっそりとして幕末の動乱の時の面影はない。
洲崎神社はかなり広域に氏子が広がり、反町から三ツ沢地区にかけて毎年6月ごろに神輿が練り歩いたり、お祭りが催される。新年の初もうでにも大勢の人がやってくる。
 狛犬などはなかなか迫力のある顔が並んでいる。頼朝由来の社ということで、海の武人の信仰が厚かった名残なのかもしれないと勝手に想像している。