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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ショパン「ノクターン」を聴きながら

2023年10月05日 21時21分59秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 明日は昼前から所用で出かける。少し腕の上げ下ろしに痛みを感じていたが、7時を過ぎたころから急速に痛みは消えた。どういう加減であろうか。不思議である。

 昨日に続いて夕食後は、ショパンのノクターンを聴いている。
 ショパンのノクターン、いつも2枚組のCDの内1枚目は最後まで聴いているのだが、2枚目(第13番以降)になると聞き流してしまうことが多い。本を読んだり、作業をしたりしてしまう。そのためにあまり曲に馴染みがない。そんな中でも第14番は印象に残っている。今回は全体をじっくり聞いている。
 不思議なものであるが、自分の好きな曲を聴いた夜は寝つきがいい。というかそう信じている。私の場合は、そのような曲がもともと好きなこともあるので、一概に断定は出来ないが、脳がそのような仕組みになってしまったようである。

 明日は帰宅が遅くなると思われる。ワクチン接種後なので控えめにしたほうが良さそうだ。


ショパン「ノクターン」

2023年10月04日 20時08分23秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日は読書の気力もあまり湧いて来ないので、ショパンのノクターンをヴラディーミル・アシュケナージの演奏で聴くことにした。1977年の録音。
 全体で21曲。さまざまな曲集の中で私は一番聴く機会が多い。長くはない生涯でノクターンは若い時から晩年まで作り続けている。
 この曲集もやはり雨の日に聴きたくなる曲である。アシュケナージの演奏、なかなかいい。
 


読了「九相図をよむ」

2023年09月29日 20時36分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 3枚目に、《浄相の持続》(松井冬子、松井冬子展図録より)があります。

      

 本日読んだのは「九相図をよむ」(山本聡美、角川文庫)の第8章「現代によみがえる九相図」、おわりに、補遣「朽ちてゆく死体の図像誌 戦の時代の九相図」、文庫本あとがきなどで、これで全体を読み終えた。

 第8章「現代によみがえる九相図」では、河鍋暁斎、山口晃、松井冬子の作品を取り上げている。私にはこの第8章が、新たな九相図の展開を述べようとする作者のスタートラインとするような意気込みを感じた。

 河鍋暁斎(1831-89)の「卒塔婆小町下絵画巻」を取り上げている。
明治期に西洋画という新たな絵画技法が到来したことによって、日本の伝統的な作画技法が相対化された。‥暁斎は、九相図という画題を、西洋絵画技法の基礎に位置づけられる裸体デッサンに対置し得るものとして捉えていたのではないだろうか。‥文明開化に熱狂する社会への批判精神や虚しさが共有されていたのだろう。‥しかしながら、暁斎が没した後、九相図という主題は日本絵画の表舞台から急速に忘れ去られていく。

 山口晃(1969-)では「九相圖」(2003)を取り上げている。
山口の九相圖は近代初頭の東京で、文明開化のモチーフと九相図とを抱き合わせで描いた暁斎がにも重なって見える。都市を開発し繁栄を追及する営みの先に、終焉の思想を折り込むべき時代が到来しているとに、彼らの作品は眼を向けさせる。‥

 松井冬子(1974-)の連作としての九相図はこれまでに五作品が出来上がっている。最初の「浄相の持続」(2004)をここでは取り上げている。
 「《浄相の持続》という題名によって示されているように、松井冬子は九相図本来の意味を意図的に反転させる。切り拓かれた腹からこぼれる内臓が、周囲の草花を圧倒する鮮やかさで女の肉体を彩る。伝統的な九相図が依拠していた「表面をいかに飾ったとしても皮膚の内側には不浄なものが充満している」との教義を逆転させ、皮膚の内側を、生命の本質、清浄なもののありかとして描き尽くす。《浄相の持続》で自らの内臓や子宮、そこに息づく胎児をさらす女性は、強い意志を帯びた眼差しで見るものを圧倒する。腹は彼女自身の意志によって開かれたように見え、画家はこの作品について「この女は男に対するコンプレックスあるいは憎悪によって自ら腹を切り裂き、赤児のいる子宮を見せびらかす」と解説する。

 補遺の「朽ちてゆく死体の図像誌」の最後で著者は次のように記している。
平清盛と後白河上皇、内乱において袂を分かった両者の娘たち(建春門院と宜陽門院)は、虚実のあわいで、不浄の身をさらしまた見ずらか九相観を実践する女院というイメージを獲得し、無常の世のただ中で戦没者の冥福と世の安寧を祈る依り代となった。その背後には、王権に寄り添いながら不安定な時代を支えた宗教者達の姿があった。‥身体の不浄を描いた図像が無常というもう一つの思想と交差することで、中世日本では、豊かな九相図の美術と文学が開花した。

 この本を読み、久しぶりに松井冬子の図録を見返し、そして平家物語の最後の部分を読み返したくなった。
 


テート美術館展 その4

2023年09月28日 21時44分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 テート美術館展、いくつもの作品に惹かれたが、ラファエル前派で有名なジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)の《露に濡れたハリエニシダ》(1889-90)もその1枚。ラファエル前派ではバーン・ジョーンズの《愛と巡礼者》(1896-97)が展示されていた。この作品も素敵だが、題材の作為性が私にはちょっと敬遠してしまう。
 ミレイのこの作品について図録の解説では「ラファエル前派の時代よりもはるかに自由なスタイルで描かれたこの作品では、‥秋の露を通して輝く朝の太陽を捉えられている。‥ミレイは露をコンスタブルの有名な白い顔料の斑点で表現した。」と記されている。
 2014年の「ラファエル前派展 テート美術館の至宝」では展示されていなかった。当時のラファエル前派展で展示された風景画ともおもむきはおおきく違う。しかしミレイ自身が描いた《オフィーリア》の川の向こう側の景色とは似通っている。
 作品は上下に明暗が明確に分かれている。画面の上下に繋がる縦の線とが画面をさらに四分割している。近景と遠景が横一線で明確に分離させられているが、靄ないし霧の表現の効果で違和感を緩和している。横・縦十字に分轄された不思議な構図だが、実に良く計算されて作品に仕立てられていると感じた。
 私は手前中央の枯れた葉が特に気に入った。これがとてもいいアクセントになっている。これがないと作品の印象はメリハリの効かない別の作品になるように思う。



 ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)の《スウィング》(1925)にも惹かれた。というよりも私の場合、カンディンスキーの作品と聞くだけでもう気に入ってしまうのである。
 作品が作られた1925年は、ロシアに戻ったカンディンスキーが芸術表現に対する政治的統制の強化を逃れて再び出国しバウハウスで教鞭を取った時期である。
 音楽的なリズムを引きずっているような形態、線の重なりと色彩の乱舞は、自由な律動を支えてくれる。落ち着いた色調で選択された色彩の配置、形態の組み合わせで生ずる安定感のある構図。
 或る人は椅子に座った肖像画を下絵にしているといい、ある人は住宅を描いたというらしい。どうしても人は抽象画の根拠に具象を求めないと落ち着かないらしい。
 しかしカンディンスキーの作品はそれを離れてはじめて律動ないし、リズム感が浮かんでくるように私は思う。
 形態から自由になって浮遊していくことを象徴するような円形、魅力はいっぱいある。そして体を動かすことの苦手な私もなんとなく手足が勝手に動いてしまう。
 しかしむやみに絵画と音楽の融合などということへ結びつけるのは私は避けている。


明日の予定を思い出す

2023年09月27日 22時57分59秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 テート美術館展で気に入った作品のうちジョン・エヴァレット・ミレイの1枚をスキャナーで取り込んで、補正を施しているうちに眠気が襲ってきた。もう1枚を取り込む予定であったが、本日の作業はこれまでとした。もう一枚はワシリー・カンディンスキー。さらにモノクロの造形写真の作品を選びたいのだが、こちらはどれにするか結論が出ていない。
 この分ではその4は明日には間に合わないかもしれない。本日の作業はこれにて終了。

 そして明日10時からオンラインの美術鑑賞講座もあった。昨日資料を打ち出したばかりで忘れているとは情けない。いつもの時間に起きなくてはいけなかった。

 


テート美術館展から その3の補足

2023年09月25日 12時24分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 今朝になってから、昨晩取り上げたジェイコブ・モーアの《大洪水》を見ながら、旧約聖書の「ノアの洪水」の部分第6章~10章を読み返した。同時に再度図録を拡大鏡で見直した。
 聖書では箱舟に乗ったのは、ノアと妻、3人の子とその妻の計8人となっている。
 拡大鏡で図録を見ると確かに舟の上にいる5人のほかに、右側と艫に半身だけの人物がいる。また舟の先に浮かんでいるのも一人の人物に見えないことは無い。そうすると創世記の記述のとおりの8人になる。
 ここまでは作品が創世記の記述にのっとっていることはわかる。しかし舟の上の5人も項垂れ、疲労困憊、絶望の極みのような姿勢である。半身海の中の2人、浮かんでいる1人にも世紀は感じられない。
 多くの人は、アララト山の頂上に着地した箱舟から鳩を放ち、オリーブの枝を持ち帰った鳩をさらに7日後に放って、収容した動物とともにノアの一家は舟を離れる。こうして神はノアと契約を結ぶ。アダムとイヴに述べたことと同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ。‥雲の中にわたしの虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。‥」
 この雲の中の虹がこの作品の中心の太陽によって生ずる直前を描いたのだろうか。それにしては登場人物は死に体である。希望を感じることは無い。また収容し放たれた動物などは省略されたにしろ、情景はどう見ても難破船と遭難者である。洪水や暴風や津波という自然の災禍をまともにくらった瀕死の人間が描かれているとしか思えない。
 私には、さまざまな自然の災禍に打ちのめされ、瀕死の体験を経つつも、生きつづけざるを得ない人間の弱さもしぶとさも感じる。絶対神と自然崇拝の間を揺れ動く神の概念、言葉と思想を得て人間が生んだ神という概念に逆に翻弄されてしまう矛盾、そんなことを作者は気がついているのではないか。
 あたかも1787年の作、2年後はフランス革命の年である。神の呪縛が融けていく時代が始まっている。
 


テート美術館展から その3

2023年09月24日 22時18分38秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 2021年2月に、三菱一号館美術館にてやはり「コンスタブル展 テート美術館所蔵」が開催された。その時も今回も、ジョン・コンスタブル(原画、1776-1837)・デイヴィッド・ルーカス(彫版、1802-1881)の版画が展示された。ほぼ同じ作品が今回も鑑賞できたのはとてもうれしかった。
 私の印象では今回展示されたものの方が、コントラストが強いように感じたが、どうもそれは私の早合点かもしれない。
 しかし版画にすると実際のコンスタブルの油絵作品と比べると陰影が強調され、雲などは動きが激しい一瞬を捉えている。とても動的で劇的な作品に様変わりしているように見受けられた。油絵からはこんなに激しい衝動は感じられないので、今回、ちょっと驚いた。光の捉え方が劇的で、影も長い。太陽光線の強さを感じるとともに、自然の猛威も感じた。
 雲というものは、常に動きを内包している。しかも光がそれをより強調する。風も温度も湿度も想像させる力を持っている。それによって時間や物語を鑑賞者に想像させるてやまない。



 ジェイコブ・モーア(1740-1793)の作品はこの《大洪水》(1787)1点である。
 私はいつものように題名は後から見る癖のまま、画面だけを見て、ふと川瀬巴水の、江戸の名残を残すしもた屋の並ぶ町並みを照らす月、を何となく思い浮かべた。巴水のどの作品かは思い出さなかったが、このモアの作品の月ないし太陽と思われる光の左右の山並みと、巴水の木造家屋とが、同一のような錯覚を持った。
 そして俯き加減で、今にも沈みそうな小さな舟に乗って苦闘しているような5名の人物がやっと目に付いた。人物には希望はなく、絶望に押しつぶされそうである。そんな感想もあり、太陽よりも月が似つかわしいと感じた。
 そんな感想を持ってから《大洪水》という題名を見て、かなり戸惑った。もしもノアの箱舟関連の作品としたら、希望が感じられないことに、違和感を持った。
 図録の解説には、「モーアは、このような大惨禍に直面しても希望があることを表現している。中心から放たれる光は前景にいる人々を照らし、全てが失われたわけではないことをほのめかす。」
 この解説は要領を得ない解説に思えた。画家モーアは、神とノアの物語についてもっと別の物語を感じとっていたのではないか、と私は思うことにしている。あまりに身勝手で専制的で、人の命をこともなげに奪い、自らの責任に頬かむりをし続ける旧約聖書の神に物申したい私である。不信心の極みの私は、ここに描かれている打ちひしがれた5人の人物の物語を、旧約聖書の物語に触れるたびに中学生の時からもう60年近くも想像しつづけている。


ブラームス「ヴァイオリン・ソナタ」

2023年09月22日 23時27分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日は夕方からの雨が降り続き、大雨・注意報につい先ほど洪水注意報が追加となった。しかし雨のピークは過ぎたようだ。横浜市域の北部を強い雨の区域が連続して通過していた。
 本日は気温を低くするためにクーラーが必要、というのではなく、湿気対策として数時間昼間にクーラーの電源をいれたに等しい。現在も外は23℃を切っている。しかし除湿のために27℃に設定してクーラーをつけた。
 新しい予報では、明日は明け方以降は降らないらしい。

 本日の夜は、ブラームスの「ヴァイオリンソナタ」3曲。ヴァイオリンを徳永二男、ピアノは伊藤恵の取り合わせで。
 第1番は特に秋、それも雨の夜に聴きたくなる曲である。第3楽章にちなんで「雨の歌」と呼ばれるが、第1楽章から雨の雰囲気である。第2番、第3番もやはり雨の夜が似つかわしい。 
 


「九相図をよむ」第6章、第7章

2023年09月22日 14時03分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 「九相図をよむ」の第6章「「九相詩絵巻」をよむ 漢詩・和歌と九相図の融合」、第7章「江戸の出開帳と九相図」を読み終えた。
 この二つの章は戦国期から江戸時代にかけての九相図についての解析に当てられる。

 室町時代後半、蘇軾(蘇東坡)に仮託される九相詩と、九相を詠んだ詞書を持つ「九相詩絵巻」が成立する。詩と和歌は長いので省略するが、この詩と和歌によって九相図が新たな展開をみせるという。
 土佐派の描く「九相詩絵巻」(九州国立博物館蔵)では、「みずみずしい動植物、透明感のある霞や山並みなど抒情性溢れる優美な画趣をそなえる。これらの自然景と調和的に描くことで生々しさが緩和されている。



 狩野派の描いた「九相詩絵巻」(大念佛寺蔵)では、最後の図に男性貴族が描かれ、「九相図をめぐる視線の有していた主客の曖昧さが払拭され、見るもの(男性)と見られるもの(女性の死体)へと固定化されていく」と記述されている。ここは私にまだよく理解できない唐突感のある個所である。
 続けて「画中に描かれた男性を漢詩と和歌の詠み手とみなすことで、詞書に記された詩歌の世界観が一貫した物語性を帯びてくる。」とあるが、ここは私は納得できる結論である。
 さらにつづけて「女性の墓を見て嘆く男性に特定の人物像を与えることもできよう。‥小野小町のどくろを見て和歌を詠じた在原業平を想起させる」という説を掲げると同時に、「嘆く男性の姿は奥書の人物の命日に当たる可能性もある」としている。私は在原業平に仮託された男性が身の回りの女性を悼んで作成したものという理解が妥当と感じた。
 九相図が仏教上の教義の解説から、より身近な死を痛むものへと変貌していると思えた。
 作者は江戸初期の狩野永納(京狩野三代目)の「九相詩絵巻」(佛道寺蔵)の解析を通して「描きこまれた男性の姿には、歌仙絵になぞらえた見立絵としの側面が強い。‥見立てという行為は、幅広い知識と教養の共有があってはじめて成立する。」「江戸時代を通じて‥九相図への社会的関心が高まる中で、出版の世界にも進出していくことになる。17世紀以降、絵入りの版本として多種多様な「九相図」が刊行され、受容層が拡大していった。‥九相図は誰もが知る馴染みの図像となった‥。
 「近世寺院において、九相図は黙して見るものではなく、名調子の絵解き説法とともに楽しみつつ接するものであった。そこには、九相図をめぐる新旧の物語が混然一体となって会衆の眼と耳を刺激し、生と死、肉体の不浄、若さや美貌の無常、映画と落剝など、人生の諸相を仮想体験する場が出現していたのである。

 


「テート美術館展」から その2

2023年09月16日 14時14分53秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 会場に入って最初に目に付くのは、旧約聖書に基づく「光の創造」(ジョージ・リッチモンド、1826)、その次にウィリアム・ブレイクの「善の天使と悪の天使」(1795-1805)、「アダムを裁く神」(1795)である。

   

 しかし今回特に印象に残ったのは、ウィリアム・ターナーの後半生の4作品である。
 ターナーというと当時の産業革命で変っていく社会を基に、どちらかというと肯定的に捉えた風景画で有名である。しかし図録の解説によると、後期になると「より気難しくなり、人と会うことを拒むようになった」という。旧約聖書の物語を主題に、迷走的で内省的な作品になっているような感じを受けた。
 《陽光の中に立つ天使》では、神の死者として天使ミカエルが審判の日に現れる様子を描くが、画面したには、旧約聖書に記されたさまざまな殺人と裏切りの場面が描かれているとのこと。画面はターナーの他の作品同様模糊としてわかりにくいが、アダムとイヴがアベルの骸に泣き、ホロフェルネスの首を切り取ったユディットが描かれているらしい。
 ターナー自信が何かに怯えているような画面にすら見える。ブレイクならば無慈悲で気まぐれで計画性がない独裁者的な神を揶揄的に描いたかもしれないが、ターナーにはそれが出来ないのであろうと、推理してしまった。
 もう一枚の作品《光と色彩(ゲーテの理論)》では、大洪水を引き起こした無慈悲で気まぐれな神との「洪水後の神と人間との契約を祝福するものとして描いた」(図録解説)ということになる。この解説が正しいのか、私には判断は出来かねるが、暖かい黄色の円の中心のモーセの姿は確かに「救い」の中心にいるようだ。だが、解説では触れていないが、モーセの下にいる輪郭だけの人間のような形は誰なのだろうか。何を象徴しているのだろうか。私はこの黒っぽい輪郭線がとても気になった。今もって何を描いているのかわからない。下半分の緑がかった靄とした部分と丸い形状が何を描いているのか、また下部中央に人の形のようなものが描かれている。これもわからなかった。しかしとても気になる。解説のような「祝福」に関連する何ものなのか。

 ターナーと同時代のジョン・コンスタブルの原画に基づく版画のコーナーにも惹かれた。モノクロームの鮮明な版画にコンスタブルのこだわった風景が美しいがことに雲は秀逸であると感じた。



 印象派の作品にも惹かれたが、その中ではハマスホイの「室内」(1899)がとても懐かしく感じた。実は2020年の「ハマスホイとデンマーク絵画展」で見た作品かと思っていたが、当時の図録を見るとこの作品は展示されていなかった。似た構図の作品を繰り返し描いたことがわかる。
 そしてハマスホイの作品はまったくの室内の調度だけの作品よりも、妻のイーダの登場する作品のほうが、「不在」と「静謐」が強調されて、私は惹かれる。生活感のない室内、一瞬前の時間だけしか存在しない空間へのこだわりを強く感じる。物語を秘めた静寂、という評価をされるかたもいるようだが、今回、私は物語を秘めた「時間」を感じることがなかった。
 未来よりもごく短い過去へのこだわりによって画家は仮想の空間を作り上げている。画面から物語性を排除することで、かえって鑑賞者に作品から時間を意識させている、時間の意識を鑑賞者に任せているのではないか。


「テート美術館展」から その1

2023年09月14日 11時30分12秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 現代アートというべきコーナーは、会場の最後のほうであるが、まずはそちらから目に付いた作品を取り上げてみた。



 ペー・ホワイトの微細な不規則な動きを演出しようとした「ぶら下がったかけら」(2004)がまず目に付いた。カラフルな小さな紙の円盤を複数枚連ねて糸で多数吊り下げている。円盤にはハート状のやはり紙の切り抜きが貼りつけられている。いたって単純な構造であるが、多数重なることで室内のかすかな空気の動きで不規則に動く。この動きに目を誘導しているのだが、私はこのカラフルな床に映る影に目が吸いよせられた。この影も不規則に動く。影はモノトーンで、カラフルな円盤と対照的であるが、動きが意識の上では強調される。かすかな風に動く影が規則性を排除し、見飽きることがなかった。
 人は単純な規則性、1分と立たないうちに同じパターンの動きを見せてしまうとすぐに見飽きる。しかし流体の動きは全体としては規則性があるが、分子レベルに細分化すると動きは不規則に見える。これを視覚化する試みは多く試みられていてこの作品もその流れの中に置くことができる。割と成功した作品の例ではないかと思う。
 時間や運動を作品に内在化させ、鑑賞者にそれを自覚させる。そして時代の先端の工業製品を利用して時とともに古めかしくなって、飽きられ、必然性が感じられなくなる数多の作品とは違い、人の動きやわずかな気温差による空気の動きを視覚化して鑑賞者の目を惹く数少ない作品として好感が持てた。吊るし方にも工夫があるように感じられた。



 オラファー・エリアソンの光の反射には球体の規則性があるはずなのに規則性が感じられない構造を獲得している「星くずの素粒子」(2014)などは忘れがたい印象を受けた。
 ステンレス製のパイプをほぼ球体に見えるまでに規則的に組み立て、半透明のミラーを取付け、スポットライトを当てて、ユックリと球体を回転させている。
 このような作品を写真で紹介するのはとても難しい。今回の図録も暗い中での撮影であるが、私が見たときは明るい証明の中で、ミラーの反射光がよりきらめいて鮮やかで、細部まで見つめることが出来た。また本体と影は、私は同一の大きさに表現してほしかった。
 多分半透明のミラーの取付け位置の関係なのだろうが、光のスポットが不規則に現れて回転して通り過ぎていく。ここでも規則的な変化を排除して不規則な運動に変換して、見飽きさせないようにしている。人間社会では規則性に頼りたがる組織性というものが強くなり勝ちである。規則性・規範性が強くなれば個々の人間を規格化したがる。そのような人間社会に対して、個々の人間は決して規則性には靡かないという側面を鑑賞者に自覚させてくれる仕掛けだと私には思える。芸術というものが本来、国家や企業やのもろもろの組織とは相容れ難い最たるものであることをあらためて認識させてくれる作品に思える。

 現代という時代の作品からは「時間」「規則性」との格闘が感じられた展示だったと思う。

    


「テート美術館展」

2023年09月13日 20時40分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 「テート美術館展 ターナー、印象派から現代へ 英国が誇るコレクションより光でたどる美術史」(国立新美術館)を見てきた。
 混雑はしていたが、広い会場なのでこれまでならば特に問題のない範囲であった。最近はスマホやカメラでの撮影がOKになってから、耳の傍でカシャカシャととても煩い。絵をたまに正面で見ることが出来て喜んでじっくりと見ていると、早くどけと言わんばかりに傍にくっついて動くのを待っている。
 スキー場でスノーボードと混在で滑るようになってスキーヤーとスノーポーターの動きがお互いに読めなくて、おおいに戸惑ったり接触・衝突した頃の状態とよく似ていると感じる。

 そんな不満を抱えていると、ゆっくりじっくりと楽しめないので、気持ちはがおらかになるように深呼吸しながら見て回った。

 これまでも見た作品も新しい視点からの展示で印象が変わったものもある。ダービー、ブレイク、リッチモンド、ターナー、コンスタブル、ハマスホイなどの作品にはとても惹かれた。
 今回は、古典絵画だけでなく、現代アートまで網羅した展示で、しかも現代アートも私には優れた作品が数多く展示されていたと思った。

 とりあえず本日はチラシの紹介まで。

 

 


国立新美術館へ

2023年09月13日 09時54分45秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 来週・再来週は忙しいので、本日国立新美術館に出向いて「LIGHT 光 テート美術館展」を見ることにした。
 久しぶりに東急東横線・目黒線から日比谷線で六本木駅へ。何年ぶりだろうか。空いていることを願っている。

 出かけるのは昼前、横浜駅で預入れのために労金のATMと郵便局経由。横浜駅では少し遠回りになる。膝が痛くなる前ならば何のことはない往復600歩程度の遠回りだが、杖を突かなくなったとはいえ、この人混みの中の遠回りが億劫になってきた。
 本日の予想最高気温は東京・横浜で32~33℃。いつもの夏の盛りの気温である。熱中症にならないようにしたい。


ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」

2023年09月08日 16時53分59秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 現在の気温は21.6℃。窓を開け、室内に風を入れると寒いくらいである。現在は1ミリ程度の弱い雨が降り続いている。
 予定からすると「弥勒」(宮田登)の第5章を読むことになっていたが、気乗りがしないままボーッとしていた。あまり何もしないのも情けないので、パソコンルームの柱に5本ほどのフックを取り付けて帽子掛け・マスク掛けを付けてみた。
 体を動かしたはこの程度。



 読書は諦めて、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴いている。ヴァイオリンはシュロモ・ミンツ、指揮クラウディオ・アバドのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で、1987年の録音。
 この曲が完成したのが1878年、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムとのかなり濃密なやり取り・助言を得ながら綿密に作られた曲である。ブラームス45歳、ヨアヒム47歳の年である。
 ブラームスとヨアヒムとの緊張関係を波乱だ曲であるが、曲そのものはヴァイオリンの伸びやかな音色と、オーケストラの壮大ともいえる重厚な音の重なりが魅力である。小さなヴァイオリンと大きな編成の管弦楽団の音のバランスも聴きどころである。またソロから木管のソロへの移行などの聴きどころ満載。幾度聴いても飽きることのない。私にとっての名曲のひとつである。
 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲と同じように、第1楽章が長大である。このCDでも第1楽章が23分30秒余、第2楽章が9分40秒余、第3楽章が8分45秒と、第1楽章が他の二つの楽章を合わせたよりも長い。不思議なことに私はそれほどの長さに感じないほどに緊張感を持続して聴いてしまう。
 第2楽章の出だしは、ホルンを入れた木管5重奏曲ともいえる。途中からの独奏ヴァイオリンの澄んだ音色は聴かせどころ、聴きどころである。
 

 


「関東大震災展」(県立歴史博物館)再訪

2023年08月30日 20時42分38秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 午後すぐに家を出て、神奈川大学の生協まで出向いて注文していた「全国水害地名をゆく」(谷川彰英、インターナショナル新書(集英社))、「浄土思想」(岩田文昭、中公新書)を受け取った。神大の生協を利用し始めた10年ほど前は単行本を主に注文・購入していた。最近は文庫、新書も注文するようになった。書店で購入することはほとんどなくなった。やはり10%引きというのが理由。いそいで購入する必要のある書籍もこの歳ではほとんどないに等しい。
 現在読んでいる「弥勒」と「九相図」を読み終わってから紐解く予定の本である。

      

 購入後、横浜駅馬車道駅経由で神川県立歴史博物館へ直行。2回目の「関東大震災 原点は100年前」展へ。ただし特別展の展示は見ないで、図録と同時に販売していた「月刊地図中心611」の「総特集関東大震災 100年地図画報」、ならびに1910年と1923年震災直後の横浜正金銀行を写した絵葉書を購入した。
 「関東大震災100年地図画報」は、別途この展示を見た友人が勧めてくれた。地震の発生メカニズムや津波被害などにも興味があるが、都市被害の実態、復興計画の策定についての知識も今回得たいと思っている。
 しばらくは読書の合間にこの二つの図録を見ながら、勉強できると思う。地図資料に関しても「画報」のほうが図録よりも充実しているようにも見受けられる。いづれにしろじっくりと読み比べたいものである。