蛇口が取れた

4年半の杭州生活を終え、ついに帰国。現在、中国人化後遺症に悩まされ、好評リハビリ中。

ぼろぼろのわたし

2010-11-04 23:12:22 | 日本・東京
とにかく、苦手。
パソコンの不具合が。

もちろん、そんなものに得意な奴はそうそういないだろう。
たいていの人が、いったい何が起こっているのかわからなくて困惑しているはず。

実は、自宅のパソコンが故障した。
ワードで文書作成中、突然落ちた。
それから何度立ち上げようとしても動かない。
夜間だったため、サービスセンターに電話もできない。
仕方なく、翌日に電話することにした。

もうこの時点ですでに落ち着かなくなっていた。
作成中の文書はおそらく壊れてしまっただろうし、
もし、このまま修理なんてことになったら、えらいめんどくさい。
気になりすぎて夜もおちおち眠れない。
翌日、大きなお仕事があるときでも眠れるのに。

翌朝、センターがオープンすると同時に電話をかけた。
このパソコン、7月に買ったばかりなのに、
すでにセンターには何度かお世話になっている。
おそらく、はじめっからバグがあったと睨んでいた。

そう、電話をかけたとき、
すでに私は臨戦態勢だったのだ。

悪いと思いながらも、
苦手なもんだから、
ついつい口調が強くなる。
オペレーターに言っても仕方がないけれど、
ついつい文句をたれてみる。

パソコンの不具合は、とかくいろんな人にストレスをもたらすもんだ。

結局、修理へ。

で、本日戻ってきた。
やっぱりいろいろと故障していた模様。
残念ながら初期化されていたため、
はじめっからいろんなソフトだのデータだのを入れている。
なんか、めんどうなもんだな。

それにしても、

何がおもしろくて故障をするのだ。
ボクの眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
これはもうボクぢやないぢやないか。
パソコンよ、
もう止せ、こんなことは。

アメリカに行ったぞ!

2010-10-25 09:21:58 | 日本・東京
といっても都内だけど。

両親の知人のお誘いにより、
両親や私・妹家族等とニュー山王ホテルにブランチに行った。

旧山王ホテルは、戦前には、
二二六事件のときに、青年将校等に占拠され、司令部となった場所である。
戦後、アメリカ軍に接収されたが、1983年持ち主に返され、
その代替地として現在の地が日本政府から与えられ、ニュー山王ホテルとなったのであった。

なので、あそこはアメリカなのだ。
その証拠に、敷地内に入るためには身分証明書が必要。
運転免許証でもいいのだけれど、
我々は事前から連絡がありみなパスポートを持って行っていた。
折角なので、パスポートを提示して、ホテルの中へ進んだ。

一歩踏み込むと、
もうそこはアメリカ!
内装もそこに充満する香りも、まさにアメリカ!
もちろん、客のほとんどがアメリカン!
思いっきり、アメリカ~ン!

レストランに入っても、当然アメリカ!
ああ、昔行ったアメリカのホテルビュッフェの香り。
最近は、中国のニンニクやら何やらが混じった香りしかかいでいなかったから新鮮。

早速、食べ始めた。
狙いはローストビーフ。
やっぱり、洋風ビュッフェの華はこれでしょ。
サラダなんかはすっとばし、いきなり食す。
ん~、うまい!

途中、「にば~い、にば~い」でおなじみの、
東関親方(高見山)ご一行様が食事にやってくるなど、
嬉しい誤算もあったりして。
お相撲さんって、やっぱり、ものすごく大きいね。

てなわけで、東京でのアメリカ体験。
思わず、お土産にホテルのコースター(写真)買っちゃった。
お値段、12ドルなり。



もう忘れてる・・・・

2010-10-19 00:03:10 | 中国・その他地域
ずいぶん前の遠い彼方。
そういえば、鄭州のあと、北京に行ったんだった。
しかも、鄭州のことは書くのがめんどくさくなって書いていないし。

ちょいと北京の話だけでも。
といっても、鄭州から夜に着き、
残された時間は翌日の午前中のみ。

というわけで、北京発の人と一緒に、故宮に行った。
私はたぶん15年くらい前に行ったことがあるっきり。
しかも、当時は外国人料金があった時代。
今は昔でございます。

なので、新鮮でした。
デジカメのない時代に行ったので、
今回はまるで初めてのように写真を撮りまくった。
見方もずいぶんかわったし。

で、この写真。
一番有名な太和殿のもの。
みなさんもどこかで見たことがあるはず。

一見何のことはない写真だけど、
実は大変貴重な写真なのです。
わかります?

故宮は言わずとしれた世界遺産。
天安門広場の前の誰でも知っている場所。
中国人のみならず、
世界中から観光客が訪れる北京随一の観光スポット。
当然、たくさんの観光客でごった返している場所。

というわけで、わかりました?
この写真のすごいところが。

そうです。
人が写っていないのです。
合成でも何でもなく、ホントにいません。
そもそも合成する技術ないし。

では、なんでかというと、
我々が見学していると、
突然軍人・警察によって人払いが行われたからです。

その手段は、さすが中国公権力。
観光客を大声でどなりつけ、
場合によっては思いっきり押し出していました。

どうやらどこかの国のお偉いさんが故宮見学に来たいからということのようでした。
しばらくしてから、何台もの車が故宮の中へと入っていきましたから。

まあ、やり方はいかにもでしたが、
私にとっては大変ありがたい写真が撮れました。
どうぞ、みなさんもよく見てやってくださいな。

ちびりんこ、旅にでる。

2010-10-11 23:07:57 | ちびりんこ
かれこれ半月ほど前のお話ではある。
個人的に久しぶりに杭州へ渡った。
仕事関係一切なく、完全プライベートで渡った。

しかし、今回はいつもとは違う。
杭州なんて自分の庭のようにわかってはいるが、
そんなこととは関係なく、
気を緩めることが出来ない事情があった。
それは、わずか4ヶ月のちびりんこを連れて行くという使命である。

これまで電車に乗って遠出をしたことがない「箱入りちびりんこ」が、
成田空港までスカイライナーに乗り、50分近い長旅をするどころか、
飛行機に乗って、外国へと行こうというのだから無理もなかろう。

その日は、朝から雨が降っていた。
朝5時半に起き、
早々にミルクを飲ませ、
万全の体制をとるために、
上野駅までは贅沢にもタクシーを使った。
ベビーカーを含め、荷物が多いのだから仕方あるまい。

無理矢理起こして連れて行ったため、
幸い、スカイライナーの中では熟睡だった。
車内では騒ぐどころか、声すら上げなかった。
なんて、いい子なんだろう。

成田空港に着き、荷物を預け(この時、持参したベビーカーも預けた)、
ひとまず、乗り心地の悪そうな空港仕様のベビーカーに乗せて、
金属探知機や税関を通り抜け、搭乗口へ向かった。

まもなく、優先登場が始まり、
優先登場の権利を有していた我々は、
颯爽と機内へ足を踏み入れた。

その日は空いていたこともあり、
航空会社の計らいで、
最後列の席で、しかも前列にも誰もいないという席を準備してくれた。
これなら多少泣いたとしても、最小限度の迷惑ですむはずである。

しかし、本当の心配はこれからだ。
離陸時は気圧の変化により、
耳がぶわ~んとなる。
大人ですら気持ちが悪いのだから、
況んやちびりんこをや、である。

私はちびりんこが泣き叫ぶことを覚悟し、
ちびりんこを抱っこしたまま、離陸に備えた。
天候の都合上、出発時刻よりやや遅れて出発することとなった。
私としては、さっさと飛んでほしかったが、それは致し方ない。

しかし、天は我に味方せり。
待っている間に、ちびりんこが寝始めたのである。

それでも安心は出来ない。
気圧の変化で耳がぶわ~んとなり、
ぐずり出す可能性があるからだ。

ついに、離陸の時がやってきた。
飛行機が滑走路をスピードを上げて進む。
前方が浮き、ついに機体が宙に舞った。
ぐんぐんと高度を上げていく飛行機。
それとともに、私の耳もぶわ~んとなっていった。
さぞかし、ちびりんこも苦しかろう。

・・・ん?
寝てる。
すやすやと気持ちよさそうに寝てる。
安心しきった顔で、熟睡している。

結局、彼が再び起きたのは、
高度も安定し、機内食が運ばれるようになった頃であった。

その後もCAさんやトイレにやってきた乗客に対し、
笑顔を振りまき、皆を和ませるという、
高等外交術を難なく使いこなし、
一切騒ぐことなく、平穏無事なまま杭州へ到着した。

う~ん、なんて手間のかからないいい子なんだろう。
一体、誰に似たのだろうか。

というわけで、ちびりんこは今杭州滞在中である。


*杭州の国際便ロビーが変わっていた。びっくり。

なんか違う

2010-10-07 16:35:10 | 中国・その他地域
何かが違うんだよね。

間違っているわけではなく、
言っていることは至極最も。
そりゃそうさ、っていうこと。
もっと言ってやってもいいくらいなこと。

だけど、何かが微妙に違和感。

ちょっと見えにくいかもしれないけど、写真を見てもらいたい。
これは鄭州のバスの中に貼ってあったプレート。
運転席の斜め上、
つまり、乗客皆が見える位置に貼ってあった。

これは何かというと、
「駕校」からの乗客への注意事項。
「駕校」とは、自動車教習所のこと。
だから、これは、自動車教習所から、
乗車中についてのありがたいアドバイスってことになる。

たとえば、
「運行中は席を立たないように」とか、
「網棚の上の荷物が落ちないように」とか、
乗客の安全を守るための注意事項などが考えられる。

だけど、これはそうじゃない。
乗客の安全とは全く以て関係ない。

それは、
「請保持車内清潔」。
(「車内を清潔に保ちましょう」)

間違っていないけどさあ、
だけど、なんでわざわざ自動車教習所が。
なんか釈然としない気持ちになった。

骨だらけ

2010-09-28 14:56:35 | 中国・その他地域
中国文字博物館を泣く泣く後にした一行は、
昼食ののち、殷墟へ向かった。

現在、ここは世界遺跡に指定され、
いろんなところで整備の後が見られる。

まずは付設の博物館へ。
直前に中国文字博物館へ行っていたため、
正直言って、ぼろさ・狭さが目立った。

しかし、内容は期待を裏切らない。
なにせ殷墟の遺物が展示されているんだから。
しかも、一行の中には殷墟発掘を担当した人も同行していた。

当然、彼による熱を帯びた解説がはじまった。
そりゃもう、熱い熱い。
主催者が時間を気にしてやきもきするほど。
一つ一つの遺物に、詳細な解説を施す。

特に熱かったのが、写真の骨について。
(ぶれていて、すいません。)
これは壺の中に人の頭蓋骨が入れられているもの。

一つだけなら偶然だったのだが、
こういったものが二つ出てきたようで、
そのため、これは何らかの儀式(もしくは処罰)の際のものだっと考えられるという。

しかも、割れ方から、
一度煮た形跡があるんだという。
なんとも不思議なことだが、さすが殷墟という感じを受けた。

それにしても、殷墟は骨が多い。
動物の骨だけでなく、人骨が非常に多い。
いたるところに骨がある。
骨骨骨骨骨。

皆さんも一度行ってみるといい。
絶対に「骨」の印象が強く残るだろうから。

残念でなりません

2010-09-21 00:12:37 | 杭州・杭州周辺
最近の日中間の衝突の中、
杭州の日本人学校に煉瓦が投げ込まれたという記事がありました。
(http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010092000256)

杭州の日本人学校は、
2年前に杭州の日本企業を中心として、
中国政府の認可を経て設立されたものです。
設立に際しては、私も縁あって少々協力させていただきました。
といっても、あることに名義を貸しただけなんですが。

日本人学校のある場所は杭州郊外の下沙というところ。
ここは、近年の経済発展に伴い急速に開発が進んだ場所で、
多くの日本企業もこの場所に会社や工場を置いています。

近年、中国の多くの大学が市街地から郊外へキャンパスを移しています。
杭州も例外ではなく、市街地のキャンパスを売却し、
その資金を元手に郊外の下沙に移ってきた大学がたくさんあります。
(杭州市が下沙を大学街とする政策をとってもいます)
私の職場も実はそこにありました。
(自宅は市内でしたけど)

記事によると、自転車3台に分乗した6人の若者が目撃されたとのこと。
ここで、軽々しく判断するわけにはいきませんが、
どこかの学生であった可能性も否定することはできません。

もしそうであれば、残念です。
非常に残念です。

2005年に中国全土で反日デモがあったとき、
杭州でもデモはあったと聞きます。
しかし、さほど大きなものではなく、
多くの善良な中国人たちはこういった動きに反対だったようです。
そういった話を事前に聞いていたため、
私は何の心配もせず、2005年の秋に杭州へ渡りました。

2008年、北京オリンピックの聖火リレーがフランスで妨害されたとき、
杭州市内にあるフランス資本の大手スーパーへ向けてデモが起こるという噂が流れました。
しかし、それも関係各位の努力により未然に防ぐことが出来たようです。

今回の出来事は一部の若者が起こしたことであり、
また実際にけが人が出たわけではないので、
過剰に反応する必要はないかもしれません。

しかし、なぜか、
自分でびっくりするくらい、
このことを残念に感じています。
不思議なくらいがっかりしている自分がいます。
はっきりと理由はわからないのですが、
残念だなあ、という気持ちが私の心を支配しています。

もう、こんなことは起こってほしくないです。

萌えの使用法

2010-09-18 18:04:14 | 中国・その他地域
ひっさしぶりに、中国へ。
しかし、杭州ではなく、
鄭州・安陽・北京の三カ所。

鄭州ではちょっくら会議に出席し、
翌日、同じ河南省の安陽へ行った。
鄭州からはバスで3時間ほど。
途中、黄河なんぞを越えていったりする。

目的は、昨年オープンした中国文字博物館
なぜ、こんなところにと思う向きもあるかもしれないが、
安陽は、「殷墟」のある場所。
そう、文字が刻まれた亀の甲羅などが大量に発見された場所。
いわば、中国文字のルーツみたいな場所。

にしても、でかいぞ、ここは。
写真のオブジェも、無意味にでかい。
どうやらこれは、「字」を表している模様。

中もすごい。
まず、これでもかというぐらいの卜甲・卜骨。
複製品もあるが、多くがホンモノ。
う~ん、なんだか感激した。

そして、途中、わけのわからない4Dの映像を見せられつつ、
別の展示室へ移動。

ちなみに、4Dとは、「超3D」ということで、
飛び出すだけでなく、
画面で鳥が羽ばたけば風が、
魚が飛び上がれば水が、顔にかかる仕組み。
風はともかく、水はリアルでいやだ。
鼻に入ってかなり気持ちが悪い。
ビビリな私は、いつ水が来るか心配で映像に集中できなかった。

そして、別の展示室では、大変貴重な竹簡・木簡が展示されている。
中国人軍団は、さほど興味を示さなかったのだが、
日本人軍団は、異常なほどの興奮状態に陥っていた。
特に、出土文字関係を取り扱っている人々は、大変鼻息も荒かった。

一部、恍惚として、
「これいい~。これいい~。すご~い。」などと、口走りながら、
写真をばしばしと撮っていた輩も現れた。

まさに、「竹簡萌え」「木簡萌え」の誕生した瞬間である。
精神に異常をきたしている者の様相すら漂うほどであった。
日本人、危ないぞ。

こうした異常な日本人集団を含んだ一行は、
残念ながら時間の都合上、文字博物館に長居はできず、
次の目的地へと向かったのであった。

もっとゆっくり見たかったなあ。
機会があったら是非もう一度行きたい場所である。

我が名は

2010-09-16 00:12:52 | 中国食文化
ボンド(邦徳)。
ミスターボンド。

ボスのパクリでは、決してない。
あくまでもオリジナルである。
誰がなんと言おうが、オリジナルである。

しかし、甘い。
苦み走ってはいない。

値段は6元。
中国の飲み物にしてはやや高い。

ボンド。
それは、中国オリジナルのコーヒー。

本当に感謝です

2010-07-27 11:55:38 | 歴史・文学
多くの方々から御著書・御論文をいただきました。
感謝しております。
以下、ご紹介させていただきます。

小金井信宏氏からは、同『中医学ってなんだろう①人間のしくみ』(東洋学術出版社、2009)、同『医理真伝編註』(ブイツーソリューション、2010)、
増尾伸一郎氏からは、『道教美術の可能性』(氏の「日本の君王、道士法を崇めず―古代日本における道教と文物の受容」を所収。勉誠出版、2010)、
山下克明氏からは、同『陰陽道の発見』(NHKブックス、2010)、同「平安時代初期の政治課題と漢籍―三伝・三史・『劉子』の利用―」(『東洋研究』171、2009)、同「陰陽道の特質と関係典籍」(『東洋研究』175、2010)、
高木徳郎氏からは、同『中世紀州の景観と地域社会』(2010)、
石川巧氏からは、同『「いい文章」ってなんだ?―入試作文・小論文の歴史』(ちくま新書、2010)、
瀧音能之氏からは、同『古事記と日本書紀でたどる日本神話の謎』(青春新書、2010)、
森公章氏からは、森公章・神田千里他篇『日本における地域と社会集団―公共性の構造と変容―』(科研報告書、2010)、同「「任那」の用法と「任那日本府」(「在安羅諸倭臣等」)の実態に関する研究」(『東洋大学文学部紀要』63集史学科篇35号、2010)、同「遣隋・遣唐留学者とその役割」(『東アジア世界史研究センター年報』4、2010)、
吉原浩人氏からは、『甲斐善光寺』(山梨歴史美術研究会、2009)、同「紀斉名勧学会詩序考―白居易の仏教思想と十五日開筵の意義―」(『水門』22、2010)、同「生身仏への鑚仰―世界最初の仏像と日本最初の仏像―」(『心 日曜講演集』28、2009)、同「紀斉名勧学会詩序訳註」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』55、2009)、同「高階積善勧学会詩序考―白居易詩文と天台教学の受容―」(高松寿夫・雋雪艶編『日本古代文学と白居易―王朝文学の生成と東アジア文化交流―』、勉誠出版、2010)、
倉田実氏からは、秋澤亙・川村裕子編『王朝文化を学ぶ人のために』(氏の「王朝文化と建築―寝殿造の様式から―」所収。世界思想社、2010)、同「女院詮子の東三条邸本院焼亡と三条院御所―『権記』と『栄花物語』から―」(『大妻国文』41、2010)、同「寝殿造の接客空間―王朝文学と簀子・廂の用―」(『古代文学研究』第二次18、2009)、同「女が男に物を返す時―平安和歌にみる離婚・離縁―」(『大妻女子大学紀要』42、2010)、

河野貴美子氏からは、同「『弘決外典鈔』音釈小考」(『注釈史と考証』創刊号、2009)、同「本草学と医薬書」(小峯和明編『漢文文化圏の説話世界』、竹林舎、2010)、同「『周易』在古代日本的継承与展開」(『中国典籍与文化』72、2010)、同「島田忠臣、菅原道真の詩と白居易―渤海使との贈答詩を通して―」(高松寿夫・雋雪艶編『日本古代文学と白居易―王朝文学の生成と東アジア文化交流―』、勉誠出版、2010)、
大多和朋子氏からは、同「遊行女婦考―日本古代史における遊女の一起源の研究―」(『学習院大学人文科学論集』7、1998)、禹仁秀(翻訳:大多和朋子)「朝鮮王朝妓生の管理体系とその流出の様相」(『東洋文化研究』9、2007)、
田村航氏からは、同「西雲庵の素性―足利義教政権期における大炊御門家ー」(『日本歴史』735)、
堀内和宏氏からは、同「律令官制の形成とその特質」(『アジア研究と地域文化学』、2009)
董科氏からは、同「奈良時代前後における疫病流行の研究―『続日本紀』に見る疫病関連記事を中心に―」(『東アジア文化考証研究』3、2010)、
新川登亀男氏からは、同「古代朝鮮半島の舎利と舎利銘文―飛鳥寺再考の準備として―」(鈴木靖民編『古代東アジアの仏教と王権』、勉誠出版、2010)、同「いま日本古代史とは何か~「おどろき」への喚起~」(『人民の歴史学』183、2010)、同「「日本」呼称と遣唐使」(ファン・ハイ・リン編『日本研究論文集 社会・文化史』、世界出版社、2010)、同「文字の伝来」(荒野泰典他編『東アジア世界の成立』、吉川弘文館、2010)、
井上亘氏からは、同「「大化改新」管見」(『北大史学』14、2009)、
野村英登氏からは、同「民国初期の武術と内丹―呼吸法の近代化をめぐって―」(田中文雄、テリー・クリーマン編『道教と共生思想』、大河書房、2009)、
河野保博氏からは、同「唐代交通の宿泊施設―宗教施設の供給機能を中心として―」(『國學院大學大学院紀要―文学研究科―』41、2010)、
鄭淳一氏からは、同「承和年間における日本の対外交渉と新羅康州」(『アジア研究と地域文化学』、2010)、
荒井秀規氏からは、同「大嶋郷戸籍復原考―擦消・書き直しの考察と剥離紙片からの復原」(『古代学研究所紀要』11、2009)、
堀部猛氏からは、同「織部司臨時所と内蔵寮―平安初期における手工業生産官司の再編―」(『史境』59、2009)、上高津貝塚ふるさと歴史の広場『神の寺・山の寺・里の寺―古代仏教信仰の広がり―』(2010)、
坂上康俊氏からは、同「榎本淳一著『唐王朝と古代日本』」(『法制史研究』59、2010)、同「八~十一世紀日本の南方領域問題」(九州史学研究会編『境界からみた内と外』、岩田書院、2008)、同「天聖令の藍本となった唐令の年代比定」(大津透編『日唐律令比較研究の新段階』、山川出版社、2008)、同「日本に舶載された唐令の年次比定について」(『史淵』146、2009)、同「対馬・金田城の調査成果」(『海路』4、2007)、同「天聖令藍本唐開元二十五年令説再論」(『史淵』147、2010)、
佐々木聡氏からは、同「『白澤図』輯校―附解題―」(『東北大学中国語学文学論集別刷』14、2009)、同「『女青鬼律』に見える鬼神観及びその受容と展開」(『東方宗教』113、2009)、同「蛇ノ巻、中国古代編」(『幽』7、2007)、
高田宗平氏からは、同「『令義解』「上令義解表」の注釈所引『論語義疏』の性格について」(『日本漢文学研究』5、2010)、
小倉慈司氏からは、同「道昭―日本仏教を形づくった僧侶」(鎌田元一編『古代の人物①日出づる国の誕生』、清文堂出版、2009)、同「書評と紹介:有富純也著『日本古代国家と支配理念』」(『日本歴史』741、2010)、同「書評:遠藤慶太著『平安勅撰史書研究』」(『市大日本史』11、2008)、同「親王・王成年式表」(『書陵部紀要』61、2010)、同「古代在地社会における「神社」の存在形態と青木遺跡」(『国史学』194、2008)、
藤本誠氏からは、同「『東大寺諷誦文稿』の史料的特質をめぐる諸問題―書き入れを中心として―」(『水門』22、2010)、
亀谷弘明氏からは、同「上総・安房の古代氏族について」(『千葉史学』56、2010)、同「展示評:鉄道博物館」(『歴史学研究』864、2010)、
河内春人氏からは、同「倭の五王と中国外交」(荒野泰典他編『東アジア世界の成立』、吉川弘文館、2010)、同「書評:仁藤敦史著『卑弥呼と台与―倭国の女王たち』」(『歴史と地理」635、2010)、同「書評:石見清裕著『唐代の国際関係』」(『環』41、2010)、
有働智奘氏からは、同「古代日本における鏡の宗教性―多紐細文鏡と仏獣鏡を中心に―」(『國學院雑誌』110-4、2009)、同「欽明朝の宗教交流―仏教受容と建邦之神について―」(『國學院大學大学院紀要―文学研究科―』41、2010)、
ファム・レ・フイ氏からは、同「賦役令車牛人力条からみた逓送制度」(『日本歴史』号数不明)、同「On Some Local Chiefdoms during the Chinese Tang's Colonization of Vietnam」(『Historical Studies』9(401)、2009)、

をそれぞれ頂戴いたしました。
本来ならば、一つ一つ返答をし、こちらの拙稿をお送りするべきなのですが、
怠惰なため、失礼を致しております。
感謝すると共に、お詫び申し上げます。

今後とも宜しくお付き合い下さいますようお願い申し上げます。