十河城跡にたつ 称念寺副住職のブログ

高松市十川東町 浄土宗、称念寺の日常の様子や行事の紹介です。時々、十河城跡に関係することも書きたいと思います。 

ヤブツバキの花

2024年01月19日 | 花の寺
 「今年は、スイセンやツバキの開花が遅いですね。」と月参りでお話ししていたら、

 境内で落ちているツバキの花を見つけました。


知らないうちに開いていたようです

 堅かった蕾も色づいてきています。

 昨年秋の寺ギャラの際、当山の本尊の説明に使用した文章を紹介します。長いので、3回に分けてのせます。

称念寺の阿弥陀様
 まずは鎌倉時代初期の話です。浄土宗の開祖、法然上人は60歳代からマラリアに悩まされ、65歳の時には死を覚悟しました。幸いに徐々に回復しましたが、熱心な信者の前関白、九条兼実様は法然上人に何かあると教えが正しく伝わらないと心配し、法然上人が回復したのを見て、教えを書き残すことをお願いしました。お上人も、一時は死を覚悟し遺言を残した程だったので、思うところがあったのでしょう。『選擇本願念佛集』を口述し弟子に書き取らせました。
 『選擇本願念佛集』は、誰にでも見せる教本として作られた物ではありません。内容を正しく理解することのできる弟子のみに筆写を許す、大切な本として扱われていました。しかし、内容を知りたいと思う人たちから、正しい教えを聞きたいという要望があげられてきました。都の人だけではありません。都以外の地でも、法然上人の教)えを求める人が多くなっていました。書き上げた翌年には伊予(愛媛県)の豪族から要請を受け、弟子の聖光房弁長を故郷に帰る途中に立ち寄らせたり、同じく安楽房遵西を鎌倉に使わせたりと、全国に弟子を送り出したことが書き残されています。
 称念寺に伝えられている話では、そのころ(正治年間)京から弟子のひとりだった住蓮房が阿弥陀如来座像を背負い讃岐の山田に来て、布教したとされています。この地には景行天皇の皇子、神櫛王の末裔の豪族が住んでいます。今のサンメッセの場所には吉國寺という大きなお寺もありました。おそらく、その人たちが教えを求めたのかも知れません。住蓮房はしばらくこの地で布教した後、阿弥陀様を残して京に帰っていきました。鎌倉時代の山田の人たちも阿弥陀様の前でお念仏をしていたのですね。
 この住蓮房という人は、法然上人の弟子の中でも、安楽房遵西と共に美声のお坊さんとして有名でした。お念仏の声も美しいですが、善導大師が書かれた礼讃に節をつけて誦読する声明に優れていました。住蓮・安楽の別時・六時礼讃会をわざわざ聞きに来る人が多く、聞いた人たちは特別な宗教体験ができたと泣いて歓ぶほどでした。今)でいうアイドルのような人気で、特に女性がこぞってお参りに詰めかけました。法然上人は旧仏教側から白眼視されることや、声明がお念仏から見ると余行なので、偏ってはいけないと諫めていました。しかし、多くの人に布教できる機会なので、二人は止めることなく礼讃会を続けていた時に事件起こります。
それは、後鳥羽上皇のお気に入りの女官二人を、上皇の留守に、上皇の許可なく出家させたことです。(続く)

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