十河城跡にたつ 称念寺副住職のブログ

高松市十川東町 浄土宗、称念寺の日常の様子や行事の紹介です。時々、十河城跡に関係することも書きたいと思います。 

薪割り

2019年01月29日 | 日記
 この土日に、「三木第一産業」さんが来てくださり、境内の樹木の整理を始めました。


ヒノキは根元からバッサリ

 といっても、周辺に民家や境内にも寄付石や薬師堂などがあるため、枝打ちをした後、上方から切り、ロープで吊り下げておろしていきます。2人がかりでの大変な作業です。

 今日は、昼前から薪割をしました。3月に「宗門指定養成講座」という研修会で野外調理をする予定です。その時に使う薪です。一月半で乾くか心配です。


久しぶりに斧を使います

 パッと割れると気持ちがいいのですが、なかなか上手くいきません。


これぐらいあったら足りるでしょう

 片づけをしている最中に、往生されたという電話が入り、枕経に行きました。お通夜から戻ったのは8時過ぎです。クーが待っていました。


寒さのため甘やかされるクーです

写経会

2019年01月23日 | 日記

今朝の永代供養観音

 クーの散歩がてら、墓地の見回りに行きます。これが毎朝の日課になっています。ちょうど満月が西の空に傾き、観音様の頭に重ねて撮りました。今日も良い天気になりそうです。

 午後2時からの写経会、今月の参加者は3人でした、寒い中ありがとうございます。

 各自写経の準備をして、2時までおしゃべりです。
 2時になると本堂に移動し、日常勤行のお勤めを15分程します。
 その後座敷に戻り、写経です。


副住職は前の席で皆様と向かい合わせで写経です

 今日は、皆さん「一枚起請文」の写経をしました。40分ほどで終わります。私が終わった後に、この写真を撮りました。全員終了後、簡単なお話(法話)をしてお茶タイムです。お茶を飲みながらいろいろな話をします。参加者の皆様は、人生の大先輩ですからいろいろためになるお話をお聞きすることができます。

 その後、本堂に移動し写経したものを本尊前に納め、般若心経を読んで終了です。
 15時50分に解散となりました。来月も第4水曜日に予定しています。気軽にご参加ください。


クーちゃんこちらを覗いています 気になる、気になる


永代供養やすらぎ観音

2019年01月22日 | 境内
 称念寺の墓地を広げた時に、お墓を持たない方、将来後継ぎがない等の理由で個人墓でなく、共同の供養塔に納骨されたい方のために、「永代供養やすらぎ観音」を開眼しました。


今朝の「永代供養やすらぎ観音」

 昨年1年間で、4霊のお骨をお預かり供養させていただきました。また、将来的に納骨させてほしいというご相談を受けております。
 先日、昨秋に墓じまいをされた方が、当山の「永代供養やすらぎ観音」に、ご先祖様のお骨を納骨したいという連絡をいただき、昨日納骨法要をさせていただきました。

 兄弟がたくさんいらっしゃるのですが、県外に出ているため、今後のことを考えてのことだそうです。高齢になっていく中で、皆さんで相談されてのことのようです。
 当山で責任をもってお預かりし、供養させていただきますとお話しさせていただきました。


今日の夕方です 夕焼けになりそうです

 日没がまた少し遅くなりました。


待て中のお利口さんクーちゃんです

 明日は午後から毎月1回の写経です。法然上人の御法語「一枚起請文」を写経します。どなたでもご参加できます。087-848-0483(称念寺)までご連絡ください。

 

十河城のお話

2019年01月21日 | 十河城のこと
 大寒を迎えましたが、比較的温かい日が続いています。夜明けが少しずつ早くなってきております。6時40分にクーちゃんの散歩に出ましたが、ライトがいりません。


称念寺の西側にある鷺池からの景色です


本堂で30分程お勤めをしましたが寒さを感じません

 パソコンを覗いていると、十河城の話が出てきました。以前、地域のホームページに提供したものだと思います。

十河城のおはなし

十河城はいつごろあったの?

 室町(足利)幕府の最初の頃に、十河氏が武士団を率いていたということが分かっているので、その頃すでに十河(十川)に城はあったと考えられます。それから豊臣秀吉の時代までありました。

どんなお城だったの?

 もともとの地形を利用して、堀(大きな溝)や土塁(土の壁)を築き、その内側に人が住む建物と見張り台や武器・兵糧(ひょうろう)の倉庫が建てられたものでした。
長曽我部との戦いのときには、周囲を何重にも堀や土塁で取り囲まれ大砲まで置いてある、守りの堅い城でした。

お殿様はどんな人?

 十河氏の先祖は、讃岐(香川)の国造としてきた、景行天皇の皇子 神櫛王(かんぐしおう)だそうです。勢力範囲は十河だけでなく山田から屋島の辺りまで広がっていました。
室町幕府の頃は管領家だった細川氏に仕えていました。
戦国時代末期、阿波(徳島)の三好氏から養子をもらい、その人が十河一存(かずまさ)です。勇敢な戦ぶりから「鬼十河」とあだ名される程の人でした。
一存は三好長慶・三好実休・安宅冬康4人兄弟の末弟で、長慶は幕府の権力者・実休は阿波の領地を守り・冬康は淡路島に領地を持ち、兄弟仲よく力を合わせて長慶の政治を助けていました。
一存の後に城主になったのも実休の子 存保(まさやす)です。
その頃、土佐(高知)の長曽我部元親が四国平定を目指し幾年にも及ぶ合戦を始めました。最後に十河城だけが残る状態になっても、1年以上の籠城し戦いました。しかし秀吉からの援軍が来ず、十河城はついに開城したのです。
 天下統一を目指す秀吉は土佐以外の四国を自分の家臣に分配し、十河氏も十河城一帯の2万石を改めて与えられました。
 ようやく戦のない日々が訪れたのですが、秀吉の九州平定に出兵し、そこで存保は戦死しました。息子の千松丸がまだ13歳のときのことです。
 存保死後、讃岐はすべて秀吉の家来 生駒氏のものになり、千松丸は生駒氏からは3千石の領地をもらうだけになっていました。しかし子どものうちに亡くなってしまい、千松丸の死によって十河氏は滅びました。


 続きはまた今度・・・

市匿院の片づけから

2019年01月19日 | 日記
 正月明けに片づけた大掃除で出てきたものは、



木箱にしまわれていた書物や経本

 先日お天気のいい時に虫干しをしました。カビのようなものがついていたり、シミや虫食いがあります。住職であられた尼僧さんが大切にお使いになられたものでしょう。

 虫干ししながらそれぞれ目を通しました。明治から大正、昭和40年代までのものです。


法然上人の御法語の教本でしょうか


「浄土宗布教全書 3巻」


「出家とその弟子」岩波書店 大正11年発行

 値段は1円50銭です。


「釋尊一代御實傳記」

 いろいろ出てきました。中には、裏が白い新聞広告をとられていたものも・・・



昭和40年代でしょうか、時代を感じます