十河城跡にたつ 称念寺副住職のブログ

高松市十川東町 浄土宗、称念寺の日常の様子や行事の紹介です。時々、十河城跡に関係することも書きたいと思います。 

十河城のお話

2019年01月21日 | 十河城のこと
 大寒を迎えましたが、比較的温かい日が続いています。夜明けが少しずつ早くなってきております。6時40分にクーちゃんの散歩に出ましたが、ライトがいりません。


称念寺の西側にある鷺池からの景色です


本堂で30分程お勤めをしましたが寒さを感じません

 パソコンを覗いていると、十河城の話が出てきました。以前、地域のホームページに提供したものだと思います。

十河城のおはなし

十河城はいつごろあったの?

 室町(足利)幕府の最初の頃に、十河氏が武士団を率いていたということが分かっているので、その頃すでに十河(十川)に城はあったと考えられます。それから豊臣秀吉の時代までありました。

どんなお城だったの?

 もともとの地形を利用して、堀(大きな溝)や土塁(土の壁)を築き、その内側に人が住む建物と見張り台や武器・兵糧(ひょうろう)の倉庫が建てられたものでした。
長曽我部との戦いのときには、周囲を何重にも堀や土塁で取り囲まれ大砲まで置いてある、守りの堅い城でした。

お殿様はどんな人?

 十河氏の先祖は、讃岐(香川)の国造としてきた、景行天皇の皇子 神櫛王(かんぐしおう)だそうです。勢力範囲は十河だけでなく山田から屋島の辺りまで広がっていました。
室町幕府の頃は管領家だった細川氏に仕えていました。
戦国時代末期、阿波(徳島)の三好氏から養子をもらい、その人が十河一存(かずまさ)です。勇敢な戦ぶりから「鬼十河」とあだ名される程の人でした。
一存は三好長慶・三好実休・安宅冬康4人兄弟の末弟で、長慶は幕府の権力者・実休は阿波の領地を守り・冬康は淡路島に領地を持ち、兄弟仲よく力を合わせて長慶の政治を助けていました。
一存の後に城主になったのも実休の子 存保(まさやす)です。
その頃、土佐(高知)の長曽我部元親が四国平定を目指し幾年にも及ぶ合戦を始めました。最後に十河城だけが残る状態になっても、1年以上の籠城し戦いました。しかし秀吉からの援軍が来ず、十河城はついに開城したのです。
 天下統一を目指す秀吉は土佐以外の四国を自分の家臣に分配し、十河氏も十河城一帯の2万石を改めて与えられました。
 ようやく戦のない日々が訪れたのですが、秀吉の九州平定に出兵し、そこで存保は戦死しました。息子の千松丸がまだ13歳のときのことです。
 存保死後、讃岐はすべて秀吉の家来 生駒氏のものになり、千松丸は生駒氏からは3千石の領地をもらうだけになっていました。しかし子どものうちに亡くなってしまい、千松丸の死によって十河氏は滅びました。


 続きはまた今度・・・

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