syuの日記・気まま旅

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吉備路を歩く

2014-05-22 | 気まま旅
吉備地方は、縄文時代の早い時期に稲が持ち込まれ、弥生時代には大規模な集落が出来てくる。
古墳時代には、鉄の生産や加工の技術を得たと思われる有力な豪族によって、巨大な古墳が築造される。
文献にも、吉備と大和朝廷の関わりを示す記事が頻繁に登場する。
仁徳天皇は、嫉妬深い皇后の仕打ちに耐えかねて吉備へ逃げ帰った黒媛(日売)の後を追って、この吉備へ訪れたと言う。
その繁栄の跡から、古代この地方に「王国」があったとする説も根強く、「吉備王朝」などと形容される事も多い。

「桃太郎伝説」で、「温羅」は、大和朝廷の吉備侵略に立ち向かって「吉備津彦命」と戦った英雄であると言う。
温羅は百済の王子で、唐・新羅との戦いに敗れ古くから交流のあった吉備に逃れてきて、ここに山城を築き、製鉄等の百済の進んだ技術を吉備地方にもたらした。
これにより吉備地方は次第に繁栄していった。これを危惧した大和朝廷は、吉備征伐に「吉備津彦命」を派遣し、温羅を滅ぼしたと言う話である。
「鬼城山」は、温羅とその一族が住んでいた居城と言うことになる。
敗残者の常で、やがて温羅は悪人となり、終いには鬼となった。大和朝廷に刃向かった吉備の豪族達と朝廷側の戦いが「桃太郎伝説」になっていった可能性もあると云う説。

「吉備考古館」は、カギが閉まって無人であった。
  

「御崎神社」吉備考古館は神社内にある。
神社は、窪屋郡の郡家の跡とある。
「大化の改新」645年、に吉備の国窪屋郡の郡屋(郡役所)のあった所で、道をへだてたすぐ東は 地つづきに津坂駅の跡があり南の松並木の道は
馬場といって東は 京から西の九州大宰府に至る当時日本で唯一の大路中国街道である。
又ここを岡本里ともいった時代があり郡屋があったので岡本里と云っていた という説もある。

黒日売は、窪屋郡司の娘、 仁徳天皇の代(約千数百年前)皇室から各国司にみえよき娘を召された時宮中の御用に 上った吉備国からは窪屋郡司の娘が上がった。
皇室では黒日売の名を呼ばれて奉仕した。
帰国の後に天皇が姫の後を慕うて山方(山手)の郡屋へ行幸されて福山の春風野に 若菜を共に楽しく摘ませられてお歌を賜った。
天皇の御還幸になる時姫から切々たる別れを惜んで歌をたてまつったとある。(境内掲示板より)

陶器の狛犬                   考古館
  

「山手村の一里塚跡」は、 一里塚には大きな松が植えてり、 昭和30年頃に枯れている。

山陽道一里塚
    

「西国街道(旧山陽道・西郡の山田池」

大川、大溝、大池、大谷池、山田池とか歴史を感じさせてくれる。

旧道から国道に出た                  歩道の無い車・車。
    

「県総社市清音軽部の軽部山山麓に鎮座する軽部神社」

祭神とは別にかつて境内にあった「垂乳根の桜」(乳神様)を信仰の対象としており、「おっぱい神社」という愛称がある。
安産や母乳の出を願うため乳房を型取った手作りの絵馬が数多く奉納されており、女性達の信仰を集めている。

JR清音駅へ、                 清音村の鎮守、軽部神社
    

「梵字岩」を探したが判らず。

石鳥居                              拝殿
    

清音村は、岡山県都窪郡・県南部、高梁川下流東岸になる。かっては、旧山陽道の高梁川渡河岸点として、交通上の要衝。
げんざいは、水田農業地帯と倉敷・岡山への通勤者が増えてきている。

福山の里山は、田園と線路に沿って住宅が
    

JR倉敷駅北口前にあった「倉敷チボリ公園」は、無くなっていた。
1997年(平成9年)、旧倉敷紡績倉敷工場跡地に開園し、デンマークのコペンハーゲンにある世界最古のテーマパークで、数々の童話を世に送り出した
ハンス・クリスチャン・アンデルセンが頻繁に訪れたことでも知られる「チボリ公園」をモデルとしており、園内にはデンマークやアンデルセンを
イメージしたアトラクションや庭園、ショップ、レストラン、劇場などが点在していた。

敷地面積は約12ヘクタール。
2008年の時点では、園内には20のアトラクション、13の土産物店、14のレストランがあったと云う。
運営は、岡山県などが出資する第三セクターのチボリ・ジャパン株式会社が行っていたが、経営難のため、2008年12月31日で営業終了。
11年の歴史に幕を下ろした。
現在は、大型スーパーに倉敷みらい公園となっていた。

JR倉敷駅北口、昔チボリ公園が、
    

総社市の「宝福寺」(雪舟が修業した寺)は、時間的に回る事が出来なかった。

次回は、福山城へ。

伯備線で旧道・城・古墳をみる

2014-05-20 | 気まま旅

「岡山」で吉備路、吉備津神社・高松城水攻築堤(首塚)・最上神社でUターンしたが、その先が「総社市」。
岡山市の西郊外と倉敷市から北郊外が総社丘陵田園地帯で古代の吉備路「備中国分寺」・桃太郎伝説古代朝鮮式山城「鬼ノ城」・JR吉備線が
総社駅で伯備線で、南に向かうと倉敷駅となる。

伯備線の総社駅と倉敷駅の間に清音駅を下車する。

福山城跡を見たかったがキツイ山登り、諦め下界から


山城の「幸山城」は、県総社市。城は山頂に福山城のある福山の北にせり出した形の尾根の頂部にあると云う。
眼下に山陽道を見下ろす、要衝と言える立地で、下界から。

幸山城は、1308年~1311年、前後に、庄資房によって築城されたらしい。
資房は、「元弘の変」では、北条仲時に従うも、安藤元理らと共に、1334年、近江の番屋で討ち死にしたとある(近江番場宿蓮華寺過去帳)。
庄資氏が継いで在城したが、庄資政以降、1394-1428年には、石川氏へと城主が替わった。
石川氏は備中守護・細川氏の被官となり、備中南部で有力な勢力を形成している。

戦国時代には備中の覇権は毛利氏と結んだ三村氏のものとなり、石川氏も三村氏の縁戚となってその一翼を担うようになる。
1567年、の「明禅寺合戦(三村氏と備前宇喜多氏との合戦)」では、幸山城の石川久智は5000の兵を率いて三村氏一万余軍に参加するも、備中勢は総崩れとなり久智は戦傷が元で死去。
1571年、尼子氏が備中に南下し幸山城にも攻め寄せた。このとき城主石川久智の子・久式は毛利勢として九州へ出陣しており、尼子氏に屈する。
その後、毛利氏の援軍を得て幸山城を奪還するが、やがて毛利氏と三村氏が不仲となる「備中兵乱」。
毛利氏が三村氏の松山城を囲むと、久式は義兄・三村元親を救援をするため、松山城へ援軍を送る。
しかし、毛利氏は松山城を落とし元親は切腹、久式も自刃した。
その後、幸山城には清水宗治が入り、天正3年から数年在城の後、備中高松城に居を移している。
高松城は、秀吉水攻めの城。

幸山城跡は、何もないとのこと


「福山城」は、総社市の城跡へ、下界から。
この福山は、「福山合戦」の地として「太平記」に記されている有名な山である。
後年室町幕府を開いた足利尊氏は、京都の戦いで敗れた後、一旦九州に逃れた。
その後尊氏は、勢力を盛り返しながら再び都を目指し、軍を瀬戸内海と山陽道二手に分けて攻めのぼる。
後醍醐天皇方の新田義貞軍先鋒隊の「大井田氏経」は福山を占拠し、足利軍の東上を阻むため、この城へ立てこもった。
足利尊氏の弟の「足利直義」率いる20万の軍と、福山を守る1500の軍との間に激しい攻防戦が行われ、その戦いは三日三晩続いたといわれる。
大井田軍はよく奮戦したが、福山城は火をかけられて落城した。
大井田氏経は、わずかに残った将兵と共に足利軍の布陣を無事突破し、7日後、「楠木正成が戦死した湊川の合戦」が行われている。

「湊川の戦い」は、南北朝時代の1336年、に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。

足利直義 1306-52 兄弟喧嘩で身を滅ぼした知将  兄足利尊氏と行動共に室町幕府に尽くした。が幕府内で尊氏派と直義派に二分し兄弟が相争う
「観音の擾乱」が勃発した。兄尊氏に毒殺された。 直義は、尊氏に「将軍が田楽にうつつを抜かすとは何事ぞ、、。」尊氏は、「月に3回に」。

栃木の足利軍が岡山まで来ていたとは、
  

「JR伯備線」
瀬戸内側の倉敷駅を出ると、右に大きくカーブをして北上する。
「高梁川」が左手に見え、新見駅まで高梁川の渓谷を遡る。総社駅を出ると谷間に入り、豪渓駅 - 新見駅間は国道180号とともに
高梁川の渓谷を眺める車窓が続く。このうち、井倉駅 - 石蟹駅間は高梁川が最も蛇行する区間で伯備線もその流れに沿って運転されていたが、
複線化に伴い経路が変更した。旧線跡は自転車道に転用。

新郷駅 - 上石見駅間にある谷田峠トンネルで岡山県から鳥取県に入り、
日野川に沿って日本海側に至る。伯耆溝口駅を過ぎたあたりから右手には大山を見ることができ、米子平野の中を進んでいくと、米子自動車道が近づき、左に大きくカーブして西向きに変えると伯備線の終点である伯耆大山駅に到着する。

鳥取の米子など
    

「高梁川」は、倉敷・総社市を流れる一級河川、高梁川水系の本流である。
吉井川、旭川と並ぶ岡山三大河川の一つ。岡山県下で最大の流域面積を誇り、その支流域は広島県にもおよび、かつては、河島川(川嶋川)・河邊川(川辺川)・総社川・松山川・板倉川・宮瀬川など時代や地域によって様々な名称で呼ばれた川。

河口部は、倉敷市水島と玉島の間を流れ水島灘に至るが、下流域は時代によって大きく河道や河口部が変わっていると云う。古代から近代にかけて高瀬舟による水運に利用され、備中国域の経済の大動脈として重要な河川であった。
新幹線の「新倉敷駅」は、高梁川を渡った先になる。川を渡らずに国道270号線吉備路に、

古墳群を見ていると古代人です。
    

岡山県蔵元
備前(岡山・瀬戸・西大寺)、宮下酒造他15社       備中(児島・倉敷・玉島・笠岡・高梁)、三宅酒造他32社
美作(久世・津山・美作)辻本店他8社。          県内55社と多い。

訪問した三宅酒造は、「備中国分寺」尼寺に近い。工場見学、試飲も出来る。

備中国分寺の中にある酒屋
  

吉備路。その裏を固めるように存在するのが「鬼ノ城」。
鬼ノ城は、温羅と呼ばれる朝鮮からの渡来の一族の居城であったと 伝えられている。
吉備津彦神社のご祭神である吉備津彦命が、大和朝廷の将軍として 温羅一族と闘った顛末が、後の桃太郎の鬼が島伝説になったと言われている。
闘いは壮絶であったらしく、矢喰宮、鯉喰神社などにその痕跡があり、 総社町の北上に温羅の山城鬼ノ城はある。
鬼の城らしく、まず出迎えてくれるのは鬼の釜。そこから、周囲数キロの鬼ノ城へと 散策コース。
巨石群の配置や 裏手にある鬼の岩屋との関連で考えると、鬼ノ城という山そのものに 何か大きな意味を持っていると云う。
鬼ノ城頂上から眺められる吉備路と吉備平野。瀬戸内の山々と四国丸亀の飯野山、剣山が連なるのも天気次第で見ることが出来と云う。
 
この写真は、国分寺に。

伝説桃太郎が「鬼ノ城」へ鬼退治に。
  

「備中国分寺 五重塔」
江戸時代後期の、1821年、20数年をかけて建立されたもので、奈良時代の備中国分寺の塔とは別のところに建っている。
総高約34mで、3層までは総欅造りですが、四・五層は松材が主体となっている。
心柱はは大面取りをした松材が用いられており、床下の礎石から塔の中心を貫いて相輪に達し、初層の四面、頭貫の上には、十二支の禽獣彫刻がはめこまれており、また尾楼の上には龍の彫刻なども施されている。
内陣には、仏壇を設けて、像・馬・鳥などの動物に乗った金剛界の五智如来像(大日、阿弥陀、宝生、阿問、不空成就各如来像)が安置されている。

(文部省 岡山県教育委員会)

田園風景になじむ、吉備路の五重塔 (重文)               京都東寺の五重塔と比べていた


聖武天皇によって、諸国に建立された「国分寺」の一つ。
現存は、江戸時代に再建されたもので、吉備路の代表的景観である。

「備中国分尼寺跡は、礎石が残っているのみ。寺領は、東西約108m・南北216mと推定されている。

            五重塔には、五智如来像安置している。     東京国分寺より広い
    

「市指定_宿寺山古墳 - 総社市」
市指定 史跡. 時代, 古墳時代. 旧山陽道の北側の 平地に築かれた前方後円墳で、作山古墳に続く5世紀後半の吉備の大首長の墓と云う。

奈良の「山辺の道」を思い出した
  

「作山古墳」
全長286m,後円部の径174m,高さ24m,前方部の幅174mという県下では造山古墳に次ぐ規模を誇る前方後円墳。
丘陵地を造成し3段に築かれた墳体の中には,円筒埴輪が立て並べられていた。5世紀の典型的な前方後円墳で,全国的には第9位の大きさ。

中型の古墳群が
  

吉備は古代、畿内や出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。
優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされ、古事記中巻、孝霊天皇の段などに兵庫県の加古川以西が吉備であると捉えられる説話があり、加古川を国境としていた時期があると考えられている。
吉備勢力は出雲征服を試みるも完遂寸前に出雲東部の意宇王の前に失敗。
以後、ヤマト政権と同盟して列島の統一・治世に貢献し、古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重視された。
河内王朝時代には、ヤマト政権中央部に対抗するほどの勢力を誇ったが、これがヤマト政権の警戒を呼んだのか、後はヤマト政権の謀略などで勢力が削減されていったと云う。

角力取山古墳の頂上に歴史を積んだ見事な大木が一本


「角力取山古墳」
古墳時代中期の頃(5世紀代)美しい墳形をした方墳で、相撲の土俵を思わせる形状であるところから角力取山古墳と呼ばれている。
東西36m,南北38m,高さが4~5mの大きさ。規模から見て地域の豪族のものとみられる。 所在地:総社市岡)

5~6人の老人がベンチで雑談、道を尋ねた。
    

総社市岡谷の「角力取山古墳 と ぎりぎり山古墳」
角力取山古墳・方墳 方墳・(前)東西 37m・ギリギリ山古墳・南北 30m 高・7mで、 5世紀の古墳。

石棺
  

次回は、吉備考古館から倉敷駅へ。

浅草 懐かしい三社祭

2014-05-18 | syu散歩
今日は、久し振りに、「浅草三社祭」に出掛ける。
山手線鶯谷駅北口を出た。ここからは、正岡子規庵・樋口一葉も良くお詣りした元三嶋神社・言問い通りの寛永寺と坂に近い。
    

「元三嶋神社」は、
元寇の弘安の役の際に河野通有が伊予国大三島神社に必勝祈願した後、当地に分霊を勧請して創建したと伝えられ、1710年、浅草小揚町へ遷座(寿三島神社)することになったものの、地元氏子の協議により当地にあった熊野社と合祀して元三島社と称したという。
旧金杉村(台東区根岸、東日暮里)の鎮守で、下谷七福神のひとつ寿老神が祀らる。

言問通りは,文京区本郷・弥生の本郷弥生交差点から、浅草の隅田川に かかる言問橋に至る道路の通称である。
東側は 水戸街道三ツ目通りと接続する。その入谷交差点上野にも近い。
    

入谷朝顔まつりも今年で66年目を迎え,毎年7月の6・7・8日の3日間開催。
入谷鬼子母神を中心として言問通りに120軒の朝顔業者と100軒の露店(縁日)が並び、毎年40万人の人出で賑う。
    

小野照崎神社は,下町「入谷」に鎮座。小野篁公・菅原 道真公をお祀りする神社。
芸能・学問が御神徳の神様として、仕事や学業、 習い事の向上を上達を願われる方々に広くご参拝さている。
    

合羽橋とは、西浅草 - 松が谷地区、食器具・包材・調理器具・ 食品サンプル・食材・調理衣装などを一括に扱う道具専門の問屋街の事である。
    

江戸時代に 開園し、158年の歴史をもつ,「浅草花やしき」から浅草寺境内に。
    

「浅草・三社祭」
推古天皇・628年、漁師の桧前浜成・竹成兄弟が、隅田川で漁に精を出していた。
しかし、その日に限って、たった一匹の魚も釣れません。
網にかかるのは、ただ人の形をした像だけ。兄弟は、何度もその像を水中に投げ捨てては、別の場所に変えて網を打ちつづけました。
でも、網にかかるのは、なぜか同じ像なのです。ついには兄弟も不思議に思い、その像を拾いあげて、今の駒形から陸にあがり、エンジュの木の切り株に置きました。そして、当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り、像を見てもらったのです。
すると、像を見た土師氏は大変驚きました。「これは、尊い聖観世音菩薩像で、自分も帰依する所の深い仏像である」と兄弟に告げ、その功徳について、くわしく説明しました。
兄弟は、拾った観音が現世利益仏(信仰することによって、現世で得られる利福)であることを初めて知り、信心が揺り起こされました。
そこで2人は、深く観音を念じて名号を唱え、「私たちは漁師です。魚がとれなくては、その日の生活にも困ります。なので、どうぞ明日は大漁であるようにお願い申しあげます。」と祈りました。
そして、翌日19日の朝。兄弟は、また網を隅田川に打ちました。すると、観音像に願ったように、大漁を得ることができたのです。
それから間もなくして、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅に堂舎を構えて寺とし、あの観音像を安置し奉りました。
そして供養護持のかたわら、郷民の教化に生涯を捧げたのです。

土師真中知の亡くなった後、不思議な出来事がありました。跡継ぎの子が、観世音の夢のお告げを受けたのです。そのお告げに従って、桧前兄弟と土師真中知の3人を神として祀り、三社権現と称しました。
今、「三社さま」として親しまれている浅草神社は、この三社権現社が始まりとされ、「三社祭」の「三社」の由来は、桧前兄弟と土師真中知の3人を祀って「三社祭」。

    

  

  







    

    

    

    

自分が生まれ育った町、台東区。浅草と聞いただけで懐かしい。祭りともなればなおのこと、ひと時を楽しんだ。

新芽の富士山麓

2014-05-17 | 富士山麓日記
明日から平日中央高速の集中工事とかで一車線通行になるとの事、日曜日4/11急遽出かける事にしました。

夕方の河口湖インター、雪の富士山浮かんでいます。


これは次の日、一合目からの雄姿


庭の野草たちが皆顔を出しました。わさびです。


ユキノシタ


三つ葉


ミセバヤ


ミント


デイジー


ピンクのこぶし


ミツバツツジがやっと咲きました。


スミレ


昨年のみょうがが出てこないので今年新しく植えました。みょうがは数年すると寒さに負けて出てこなくなります。



倉敷美観アイビースクエアと美術館

2014-05-15 | 気まま旅

倉敷駅から鶴形山・美観地区へ。駅から徒歩約20分先の高砂橋・アイビーから又駅方面に。

倉敷川周辺は、江戸時代から街並みが保存され、倉敷川河畔美観地区として重要伝統的建築物群保存地域に選定されて所。
地域と市民生活の調和を計りながら歴史を生かす町づくりを進め、落ち着いた文化の香りを絶やさない観光地である。年間450万人が訪れている。
市南部は、瀬戸内海国立公園の中心的展望地である鷲羽山と古い歴史の漁港下津井、世界最長の鉄道併用瀬戸大橋、六口島には
天然記念物「象岩」が知られている。

骨董屋さんの店先は昔懐かしい犬の勢揃い


倉敷アイビースクエア・考古館・美術館・大原美術館・民芸館・玩具館・自然史博物館・児島虎次郎記念館・代官所跡・倉紡記念館
市民会館・旧家の住宅跡、、、、。それほど広くは無いがゆっくり見ていると一日コース。

屋敷跡を進むとアイビースクエア、 明治になって代官所跡に作られた紡績工場。
    

小松原慶太郎、木村利太郎、大橋澤三郎らが大原家などの出資を受け、現在の岡山県倉敷市「倉敷アイビースクエア」にて設立。
大原家は当時、地元の大地主であった。初代社長に大原家から大原孝四郎が就任した。

「倉敷アイビースクエア」通称赤レンガは、再開発され、文化、観光施設等で、赤レンガに蔦(アイビー)がもといつき、1300m2の広場を中心に
ホテル・記念ホール・学館・倉紡の歴史記念館・県出身洋画家児島虎次郎記念館・イベントコーナーなどがあり。

ここに、倉敷代官所跡がある。
    

「倉敷代官所跡・倉紡発祥の地」は、古来この附近一帯、「小野が城」または「城の内」と呼ばれ、戦国時代の砦の跡といわれる。
1600ねん、「関が原の合戦」で東軍が勝利を得てから、この地は徳川幕府の直領(天領)となった。

1614年、「大阪冬の陣」に備中国総代官小堀遠州は幕府の命をうけ、兵糧米十数万石を倉敷湊から大阪に積み出すため、蔵屋敷を構えて陣屋とした。
それ以来倉敷湊は急速な発展を遂げ、1642年に、陣屋は倉敷代官所となり、初代ー幕府代官「米倉平太夫」赴任。

それより明治維新にいたる二百余年間、倉敷代官所は備中(倉敷)美作(久世)讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府となった。
1834年には、代官所北側に倉敷教諭所が建てられ明倫館と名付けられた。
それ以来、この地は文教の中心地、 幕末になって尊皇佐幕で天下が物情騒然のとき 1866年、長州奇兵隊を脱走した一味約100名は、倉敷代官所および浅尾藩(総社市)を襲撃し世にいう「倉敷浅尾騒動」をおこした。このため代官所は灰燼に帰し焼け野が原となったと云う。

代官所の古井戸、明治になり、一時倉敷県庁がおかれたが、廃止され放置されていたが、

明治21年に、代官所跡には倉敷紡績所が創立
    

「考古館」の開館は、1950年。
江戸時代の倉を改装した小さな考古博物館、遺跡の多い吉備地方の調査や研究をつづけ、成果を展示発表している。
古代吉備地方の内容で、倉敷を代表した外観も有名、古いままの博物館で価値ある。
数万年も前の旧石器時代から、中世備前焼の歴史などにいたるまでの、吉備地方が判りやすく説明されている。

倉敷川も当初は運河として機能、江戸中期になると、新興商人の台頭により商都として発展
    

倉敷川に架かる橋は、大原邸に近い「今橋」・考古館に近い「中橋」・アイビースクエア赤レンガ塀に近い「高砂橋」で、川舟乗船場が民芸館の近く。

「民芸館」
倉敷川沿いの美観地区に建つ3棟の土蔵からなる民芸館。一般民衆の間で作られ、毎日の生活で用いられた民芸品を世界各国の衣食住あらゆる分野から
約1万5000点収集し、企画に応じて約800点を展示している。

米蔵が改装され、白壁に黒の瓦が似合う。写真は中橋付近
    

「倉敷名産館」では、 倉敷のお土産、雑貨、ジーンズ、帆布、焼き物などの特産品、海産物、食品、調味料まで展示販売されている。

川べりに戻って、蔵の町の建物が反射して、                   大原美術館
    

「大原美術館」は、我が国初の西洋近代美術館。
美観地区の代表的文化施設で人気。倉敷紡績2代目「大原孫三郎」氏が、洋画家「児島虎次郎」に委託して収集した西洋美術のコレクションを中心に
収蔵、ギリシャ神殿風の本館では、「エル・グレコの受胎告知」のほか、セザンヌ・ルノアール・ゴッホなど名画とロダンの彫刻なども展示。
中国美術などの東洋館には、近・現代我が国の洋画と分館には工芸品等もある。(分館は、中央通り)

大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が。
    

洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託して収集した西洋美術、 エジプト・中近東美術、中国美術などを展示。
    

「郷土玩具館」は、古い米蔵を利用して、1967年に開館した。
江戸期から現代までの 全国各地の郷土色豊かな玩具、約5千点が。
自然素材のテーブルウェアーに倉敷 ガラスや雑貨などが。中庭を囲むサイドテラスをはじめ一休みできる。

焼板塀と真白の蔵が


蔵造りの、民芸品・飲食店・喫茶店・宿屋・酒屋などが建ち並んでいる。

大原家の別邸「有鱗荘」通称、緑御殿という、屋根瓦違う
    

次回は、備中国分寺方面へ。