syuの日記・気まま旅

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吉備路を歩く

2014-05-22 | 気まま旅
吉備地方は、縄文時代の早い時期に稲が持ち込まれ、弥生時代には大規模な集落が出来てくる。
古墳時代には、鉄の生産や加工の技術を得たと思われる有力な豪族によって、巨大な古墳が築造される。
文献にも、吉備と大和朝廷の関わりを示す記事が頻繁に登場する。
仁徳天皇は、嫉妬深い皇后の仕打ちに耐えかねて吉備へ逃げ帰った黒媛(日売)の後を追って、この吉備へ訪れたと言う。
その繁栄の跡から、古代この地方に「王国」があったとする説も根強く、「吉備王朝」などと形容される事も多い。

「桃太郎伝説」で、「温羅」は、大和朝廷の吉備侵略に立ち向かって「吉備津彦命」と戦った英雄であると言う。
温羅は百済の王子で、唐・新羅との戦いに敗れ古くから交流のあった吉備に逃れてきて、ここに山城を築き、製鉄等の百済の進んだ技術を吉備地方にもたらした。
これにより吉備地方は次第に繁栄していった。これを危惧した大和朝廷は、吉備征伐に「吉備津彦命」を派遣し、温羅を滅ぼしたと言う話である。
「鬼城山」は、温羅とその一族が住んでいた居城と言うことになる。
敗残者の常で、やがて温羅は悪人となり、終いには鬼となった。大和朝廷に刃向かった吉備の豪族達と朝廷側の戦いが「桃太郎伝説」になっていった可能性もあると云う説。

「吉備考古館」は、カギが閉まって無人であった。
  

「御崎神社」吉備考古館は神社内にある。
神社は、窪屋郡の郡家の跡とある。
「大化の改新」645年、に吉備の国窪屋郡の郡屋(郡役所)のあった所で、道をへだてたすぐ東は 地つづきに津坂駅の跡があり南の松並木の道は
馬場といって東は 京から西の九州大宰府に至る当時日本で唯一の大路中国街道である。
又ここを岡本里ともいった時代があり郡屋があったので岡本里と云っていた という説もある。

黒日売は、窪屋郡司の娘、 仁徳天皇の代(約千数百年前)皇室から各国司にみえよき娘を召された時宮中の御用に 上った吉備国からは窪屋郡司の娘が上がった。
皇室では黒日売の名を呼ばれて奉仕した。
帰国の後に天皇が姫の後を慕うて山方(山手)の郡屋へ行幸されて福山の春風野に 若菜を共に楽しく摘ませられてお歌を賜った。
天皇の御還幸になる時姫から切々たる別れを惜んで歌をたてまつったとある。(境内掲示板より)

陶器の狛犬                   考古館
  

「山手村の一里塚跡」は、 一里塚には大きな松が植えてり、 昭和30年頃に枯れている。

山陽道一里塚
    

「西国街道(旧山陽道・西郡の山田池」

大川、大溝、大池、大谷池、山田池とか歴史を感じさせてくれる。

旧道から国道に出た                  歩道の無い車・車。
    

「県総社市清音軽部の軽部山山麓に鎮座する軽部神社」

祭神とは別にかつて境内にあった「垂乳根の桜」(乳神様)を信仰の対象としており、「おっぱい神社」という愛称がある。
安産や母乳の出を願うため乳房を型取った手作りの絵馬が数多く奉納されており、女性達の信仰を集めている。

JR清音駅へ、                 清音村の鎮守、軽部神社
    

「梵字岩」を探したが判らず。

石鳥居                              拝殿
    

清音村は、岡山県都窪郡・県南部、高梁川下流東岸になる。かっては、旧山陽道の高梁川渡河岸点として、交通上の要衝。
げんざいは、水田農業地帯と倉敷・岡山への通勤者が増えてきている。

福山の里山は、田園と線路に沿って住宅が
    

JR倉敷駅北口前にあった「倉敷チボリ公園」は、無くなっていた。
1997年(平成9年)、旧倉敷紡績倉敷工場跡地に開園し、デンマークのコペンハーゲンにある世界最古のテーマパークで、数々の童話を世に送り出した
ハンス・クリスチャン・アンデルセンが頻繁に訪れたことでも知られる「チボリ公園」をモデルとしており、園内にはデンマークやアンデルセンを
イメージしたアトラクションや庭園、ショップ、レストラン、劇場などが点在していた。

敷地面積は約12ヘクタール。
2008年の時点では、園内には20のアトラクション、13の土産物店、14のレストランがあったと云う。
運営は、岡山県などが出資する第三セクターのチボリ・ジャパン株式会社が行っていたが、経営難のため、2008年12月31日で営業終了。
11年の歴史に幕を下ろした。
現在は、大型スーパーに倉敷みらい公園となっていた。

JR倉敷駅北口、昔チボリ公園が、
    

総社市の「宝福寺」(雪舟が修業した寺)は、時間的に回る事が出来なかった。

次回は、福山城へ。