syuの日記・気まま旅

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海の見える尾道と文学の道

2014-05-29 | 気まま旅

「尾道市」は、瀬戸内の商港、広島県南東部、尾道水道に臨む市。
山地が海に迫り、市街地は海岸沿いに東西に延びている。裾をはう道と云う意味で「山の尾の道」とよんだからと云う。
1168年備後国太田荘の船津倉屋敷が置かれ、瀬戸内の物産集散地としての地位を確立している。
その為、高野山の支配下に入り浄土寺が建立されている。
室町時代二は、道明貿易船が、江戸時代は西廻航路の寄港地として栄えたが、今は、大型船が増え地方港となった。

1999年に尾道駅前再開発が行われ、古い町並みの広がる景観から近代的な商業施設やホールが建てられた。
山陽本線・駅を降りすぐに見える尾道水道(瀬戸内海)は以前よりも広くなったようだ。
駅前から望む対岸では日立造船向島西工場跡のクレーンのライトアップが行われ、2004年(平成16年)度のグッドデザイン賞を受賞。
ライトアップは、工場跡の再利用に伴い2006年をもって終了し、2007年より場所を西方の向島ドックのクレーンに、観光シーズンや週末を中心に
行われていると云う。(新幹線「新尾道」は、栗原川を渡り、約1km離れている。)



「尾道本通り商店街」 JR尾道駅近くの、美津子像前から東に1.6km続く商店街。
6つの商店街が 並び、約400店舗がある。「イベントの館」や「郷土資料館ふらっと」「絵のまち館」などの 施設もある。

「二階井戸」江戸時代の終わり頃、尾道は 山の中腹まで発展しましたが、坂のある尾道では水の確保がとても重要。階段の踊り場 のような 。
    

坂道と寺と文学の町「尾道」戦災から免れ、古い街並み、尾道水道に面し丘陵の細い山道を登って行きます。

尾道水路ー海岸通りー国道2号線―山陽本線ー尾道文学路―千光寺山へ。
    

「海 が見える 海が見えた 五年ぶりに見る尾道の海はなつかしい。」は放浪記の一節、
放浪記は、海の尾道時代のことがかかれ、 千光寺山より尾道水道の眺めは、町と海が共存して美しい。
ここは,芙美子の町でもある。放浪記は、芙美子の飛躍の作品で、その芙美子は、、門司で生まれ、門司は、大陸に向けての出発地、活気にあふれ、一攫千金をねらう多くの人がやってきた。その中で、親の商売のこともあり、関門地域にて転々とする。
その後、尾道に移転、そこでは一転、勉学に取り組む機会を得て、人生を大きく変える。
林芙美子は、尾道で13歳(第二尾道尋常小学校/現土堂小学校)から19歳(尾道高等女学校/現尾道東高校)まで住んでいる。
東京新宿落合に自宅があるが、ここ尾道の商店街駅寄り、小さな家が。

前に紹介した東京新宿の自宅は、林芙美子記念館となっており、閑静な住宅街にある。若い時の苦労が偲ばれた。
芙美子は、東京上京後、渋谷、世田谷、新宿と移り住み新宿区中井に新居で、執筆活動・欧州に行って一時住むなどして、執筆の肥やしにしたと云う。
その後、戦時中に信州上林温泉に疎開し、群馬の沼田に行っている。また、新潟の直江津港(現上越市)にも、、、、。

本町通り商店街に記念館・地元高等女学校卒業の「林芙美子」1903-1951
     

芙美子は、鹿児島時代はほんのわずかであり、大正5年に尾道にたどりつくまで、不明な点は多いが。
第二尾道尋常小学校五年に編入する事になる年齢からすると、二年遅れの事になると云う。
そこで早大卒の小林正雄の存在が(担任)芙美子に大きく作用し、彼が芙美子の文学的才能を誰よりも早く認め、今井先生の彼の強いすすめにより、
尾道市立高等女学校(現・尾道東高校)に進学することになる。
これは当時、彼女の生活レベル(階層)としては、ほとんど異例のことであったと思われる。

林芙美子の尾道時代の家跡
    

「林 芙美子」  1903-51  貧困の中から詩情を育てた作家 山口県生まれ
幼い頃から各地を放浪し、働きながら「尾道高等女学校」を卒業している。1922年東京に上京し、様々な職業を転々とし、逆境と貧困のなかで
童話・詩を書いている。
1926年画家修業中の手塚氏と知り合い結婚している。「清貧の書」がある。
「牡蠣」「泣き虫小僧」「晩菊」「浮雲」などがある。出世作「放浪記」は、長谷川時雨主宰の「女人芸術」から連載され1935年、30万部の
ベストセラーに、1949年三部まで刊行された。戦中は従軍作家で活躍、後続々出るが過労で倒れ、朝日新聞連載「めし」が絶筆となる。

国道2号線商店街入り口の芙美子像
  

「尾道の文学作品」
放浪記(林芙美子)・暗夜行路(志賀直哉)・悪名(今東光)・内海の輪(松本清張)
尾道渡船場かいわい・尾道物語・十八歳の旅日記、(森岡久元)など。

「光明寺境内下」には地面を這うように枝を伸ばした「蟠龍の松」市の天然記念物に指定。


「映画作品」「東京物語」(1953年、小津安二郎監督)・「悲しみは女だけに」(1958年、新藤兼人監督)・「裸の島」(1960年、新藤兼人監督)
「悪名」シリーズ(1961年 - 1969年・1974年・2001年、田中徳三、森一生、安田公義、マキノ雅弘、増村保造、和泉聖治監督)
「憎いあンちくしょう」(1962年、蔵原惟繕監督)・「故郷」(1972年、山田洋次監督)・「男たちの大和」(2005年、佐藤純彌監督)
(戦艦大和ロケセット・向島)など。(水尾町通りを海岸に向かうと、尾道映画資料館・歴史博物館に)

志賀直哉旧居へ。


「徳富蘆花」小説家で、蘇峰の弟、「不如帰」。「頼山陽」 1800年前後 「酒は灘の芳醇・魚は琵琶湖の、、、、口にせず」祇園で放蕩。
「正岡子規」俳人・歌人漱石の親友。金田一京助・山口誓子などが訪れている。

直哉旧宅付近
    

「志賀直哉」が尾道に移り住んだのは1912年、
「白樺」のありかたへの居心地の悪さや父との不和から東京を離れ、友人がほめていたという場所の「尾道」に住んだ。

住まいは「暗夜行路」そのままに「三軒の小さな棟割長屋の一番奥」で部屋は六畳と三畳に台所のつつましいものであったと云う。
直哉は暖をとるために「ガスストーブ」をガス会社から借りており、ガスの使用料は尾道中で2番目であったというエピソードも残る。
やがて父との和解をみると、尾道での直哉は人々とのふれあいをとおして次第に心をなごませていったと云う。
旧居からは、近代文学史上、白眉の文章とされる「景色はいい処だった」にはじまる風景そのままに、尾道水道の向こうに「造船所」「山の中腹の石切り場」跡をながめることができる。

山の中腹に建ち尾道水道が一望できる。
   

「志賀直哉」 1883-1971  宮城県名家に生まれ、学習院で学び東大中退している。

奈良で詳しく紹介。「小説の神様」と云われ、1949年文化勲章受章している。1921年「暗夜行路」自伝的長編刊行。
直哉氏の住んだ所で知っているだけで、宮城県・尾道・松江・鎌倉・東京・千葉・京都・奈良。

6畳と3畳に台所の小さな棟割長屋・ガス使用量は尾道で2番目と云うエピソードが残っている
  

「中村 憲吉旧居」1889年ー1934年、 歌人。実家は酒造業

広島県三次市生まれ。三次中学、七高、東京帝国大学法科大学経済科卒。大阪毎日新聞の経済部記者を経て、伊藤左千夫に師事。
1909年「アララギ」に参加、斎藤茂吉や古泉千樫らと交流を持つ。
1913年島木赤彦との合著歌集「馬鈴薯の花」刊行と「中村憲吉全集」がある。

山中善一氏の別荘で、千光寺公園下、この地で帰らぬ人に。

    

尾道出身の文学者
行友李風 1877-1959 新国劇座付き作家「月形半平太」「国定忠治」1925「修羅八荒」を、大衆作家。
高垣   1898-1931 「竜神丸」(少年倶楽部に連載)「快傑黒頭巾」「豹の目」少年小説・「燃える地球」SF小説。
横山美智子1895-1986 「嵐の小夜曲」「紅薔薇白薔薇」少女小説・朝日新聞懸賞小説「緑の地平線」入選。

尾道の細い道路には、茶店や小物屋が
    

山下陸奥 1890-1967 歌人。         麻生路郎 1888-1965 1924年(川柳雑誌)創刊、川柳六大家の一人と云う、等。

「向島」 面積は22.22km²の島。全域が2005年に尾道市になっている。
明治~昭和時代に掛けて、塩田水田開発による干拓埋立てにより徐々に今の形が形成されてきたと云う。
明治初期までは向島町と向東町の町境に当たる島の中央部、兼吉~江奥~干汐ですら満潮時には船で往来出来たという。現在でも、このエリアに限らず、満潮時には入り川の奥深くまで潮が上ってくるのが確認できる。島の北側は住宅が多く、尾道水道の対岸の尾道市街へ通勤・通学する人のため渡船が頻繁に運航されている。

「瀬戸内しまなみ海道」尾道大橋・向島・因島大橋・因島・生田橋・瀬戸田・多々羅大橋(四国愛媛県)・大三島~至今治へ。


次回は、古寺を尋ねる。

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