syuの日記・気まま旅

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宇喜多直家 築城の岡山城

2014-05-09 | 気まま旅

中國・四国の交通拠点「岡山」、第三次産業の就業人口が三分の二を占め、岡山城下の町人町として歴史がある町、駅を中心に、電器・出版印刷など
都市型工業が盛んである。
農業は、米作中心であるが、白桃など果樹園芸も盛ん、鉄道も、JR山陽本線・新幹線・宇野線・津山線・吉備線・赤穂線・1988年本州ー四国の
瀬戸大橋が完成しJR瀬戸大橋線・自動車道が開通し、空の便も新岡山空港、山陽自動車道と交通拠点の地位も高まった。
岡山は隣兵庫の「赤穂城」があり、次に、備前市(陶器備前焼)で全国に知られ岡山の特産品になっている。

東口を出るとタミナールに桃太郎像が出迎えてくれる。正面が「桃太郎大通り」緑地公園に市電で東山行の四つ目が「城下」前方に「旭川」
市民会館・音楽ホール・林原美術館・県庁・公園などがあり川に沿って「岡山城」が聳え立つ。
城を出ると旭川に架かる月見橋、渡ると後楽園南門と続いている。
今日は朝から上天気通称「烏城」へ徒歩で向かう。

市内を南北に流れる西川、川の両サイドは、綺麗な花々。
    

「法華宗・本行寺」は、1611年に、一音院日円上人が、姫路城主で備前国(岡山)を兼ねて領していた「池田輝政公」の外護により、
以前の岡山市野田屋町の地に日蓮宗妙満寺派(現在・顕本法華宗)の寺院として創建。

山門(昭和20年岡山大空襲時の焼け跡)                     本堂
    

徳川時代の後半に全焼し、再建、明治維新の大変動により荒廃、その後、本行寺中興の祖というべき28世住職・能仁日統上人の時、
本堂を大修理し、布教の道場として戒壇を整えたと云う。

昭和20年、戦災のため山門のみを残して全焼している。昭和37年、本堂が落成。
戦災時の焼夷弾の跡の残る山門は現在も岡山市被災建築物に指定され、戦災のあとを物語っている。
    

「陶器・備前焼」

平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれる。
鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれ、水瓶や擂鉢など実用本位のもので、「落としても壊れない」と評判が良かった。
この当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重される。

室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まるが、江戸時代には茶道の衰退とともに衰える(安価で大量生産が可能な磁器の登場も原因)。
備前焼は再び水瓶や擂鉢、酒徳利など実用品の生産に戻っている。この当時のものは近郷の旧家にかなりの数が残されている。

明治・大正に入ってもその傾向は変わらなかったが、昭和に入り金重陶陽らが桃山陶への回帰をはかり芸術性を高めて人気を復興させる。
陶陽は、重要無形文化財「備前焼」の保持者(人間国宝)に認定され、弟子達の中からも人間国宝を輩出して、人気は不動に。 

備前焼陶器平井本店   城下筋通り
  

後楽園正面入口と博物館を抜けると旭川、川添に桜並木と川に架かる「鶴見橋」に。(後楽園は次回)
    

市電は、駅から四つ目の「城下駅」、石山公園・市民会館と旭川の間に城がある。城と後楽園南門に架かる橋が「月見橋」
    

「岡山城」は、市の中央部旭川岸にある平城、天守閣の下見坂が黒いので「烏城」とも云う。
1573年「宇喜多直家」が築城。その子秀家が城郭を拡大させている。
「関の原の戦い」以後、小早川氏を経て、「池田氏」31.5万石の居城となり明治まで続いった。
3層6重の天守閣、35棟の櫓と21棟の城門を持っていた。昭和20年の空襲で焼失、月見櫓・西手櫓のみ、残ったと云う。
現在の展望台は、資料館。

伏見城を模したと云う。


「宇喜多直家」 1529-81 策略で駆け上がった大名
備前・美作国の大名。長男浦上宗景に仕え、松田・金光氏などを滅ぼし、後浦上氏放逐、梁間の一部を支配する。
岡山城築城。信長に帰属して秀吉の中国攻略に協力する。直家は、牛飼いから大名になり謀略を用いて大大名にのし上がる。
義父、酒宴に招き刹殺・主君の弟謀反の罪を着せて打ち取る・浦上氏滅ばす・部下を巧妙に潜入させ暗殺(最所氏)・敵の三村氏鉄砲で射殺
家臣も信用してなかったと云う。

城門                        基礎土台石
    

天下人となった豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて大改築の城に。
8年の歳月を費やして建造、1597年に完成した岡山城。
西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用している。
天守閣の壁に黒漆塗りの下見板を取付けるこの時代の特徴から外観が黒く、後の時代には「烏城」とも呼ばれた。
秀家はこの城を戦の施設としてだけでなく、領国内の商人や職人を集めて治世の府とし、城下町の整備を行っている。
関ヶ原合戦で敗軍の将となった秀家は、流配先の八丈島で、余生を過ごしたと云う。

多門櫓(当時の写真)                      月見櫓
    
 
[岡山城歴代城主]

宇喜多直家-秀家-小早川秀秋-池田忠継-忠雄-光政-綱政-継政-宗政-治政-斉政-斉敏-慶政-茂政-章政。

城門で普段閉めている門を「不明門」             城門
  

「小早川秀秋」 1582-1602  徳川家康に天下を取らせた。
北政所の兄木下家定の子、秀吉の養子。後、早川隆景の養子に、筑前国33万石を継承、秀吉没後、関ヶ原の戦いで東軍に寝返った。
戦後、備前・美作国57万石に、が21歳で没し家は断絶する。

旭川の面が堀に、堀割                        天守閣から見た市内方面
    

「池田光政」 1609-82 父利隆の死後8歳で姫路42万石の領主となり、鳥取32万石に転封、親族の光仲と領地交換し岡山城主に
新田・殖産興業等推進、名君の一人に。自ら学問に親しみ、家臣や領民たちにも積極的に教化。
岡山藩の教育行政は日本一を誇った。「閑谷学校」は、現在青少年教育センターに。

家紋                                 石垣                天守閣階段
    

次回は、隣接の「後楽園」へ。