syuの日記・気まま旅

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倉敷の町 美観地区に入る

2014-05-13 | 気まま旅
JR倉敷駅、南口約800m先に倉敷紡績工場跡の赤レンガアイビースクエアのある「美観地区」。
駅前ターミナルを出ると倉敷中央通り、この先が瀬戸大橋、下津井港で、左手に倉敷川と川に沿って美観地区の観光地である。
県南部高梁川下流域児島西部と広がり商工業と観光地で、江戸時代は、備中米の集散地として「蔵屋敷」が置かれたことから「倉敷」と云う。
又、高梁川河口の物資集散地として発達され1642年幕府は直轄地代官所が置かれた。
備中の政治、経済の中心地になっていった。
1790年頃から古禄派旧来特権的門閥商人から、新録派新興商人が台頭し支配権を移していく。外港の玉島は、松山藩は瀬戸内の重要な港であり、
「塩田地」で知られている。明治に入り20年代は、紡績・重工業都市と変貌し、鉄銅・石油・化学・機械などの臨海工業都市と公害問題も発生世なる。
(水島臨海工業地帯)。

           JR倉敷南口山陽本線・伯備線・水島臨海鉄道(大原美術館・美観地区)


倉敷センター街商店街は、JR倉敷駅前の国道429号線を越えてすぐに、左手に倉敷センター街と書かれたアーケード入口の2か所がある。
商店街は、十字に交差したエリアで構成され、いずれも200m程の長さで、南側では倉敷えびす通商店街へと続き、美観地区への道筋となっている。

商店街中心部には、テレビも設置された来街者の為の休憩所施設「ビオス憩いの広場」があり、イベントが催される時には、広場をメイン会場としても利用されていると云う。

春と秋の2回行なわれる「センター街大売出し現金一割返し」が一番人気の売り出しセール、
毎月第三日曜日の朝に開かれる、大きな集客力が定着した「倉敷三斎市」では、「地産地消」をテーマに約90の農作物、魚介類、民芸・工芸品などの露店が出店し、多くの人出で賑わう。
「土曜夜市」、「倉敷雛めぐり」、「倉敷フォトミュラル」など商店街でおこなわれるイベントは数多くあり、駅やバスステーションが近くで交通の便がよく、交差した街路にファッション・雑貨、飲食などの店舗が並ぶ、今日は、平日で静かな商店街を抜け、えびす商店街の左手の鶴形山の階段を登ってみた。
 
駅正面が中央通り・センター街・えびす商店街・美観入口に沿って「倉敷川」大原邸の今橋・考古館中橋・船乗り場・アイビー、高砂橋
     

「旧阿智潟神社」-祭神八意思兼神

阿智神社略記 鎮座地 倉敷市本町、 鶴形山山頂標高43m 旧社格 県社 御祭神 主祭神 宗像三女神. 八意思兼神・ 八十枉津日神・ 神直日神
大直日神 ... えびす商店街の周囲は、阿知潟と呼ばれる海域であったが、江戸初期には陸化、倉敷代官所が 置かれ旧倉敷村の氏神として歴代代官の
崇敬厚く、石灯籠はじめ数多くの寄進を受けたと云う。
神社入口の登り階段へ。
 
      えびす通りから鶴形山公園へ                 街角の石神
    

鶴形山公園から商店街とJR倉敷駅方面                    神社境内にある阿智の藤棚へ
    

美観地区のすぐ北、鶴形山公園の阿智神社の境内にある県天然記念物「阿知の藤」。
「アケボノフジ」という珍種。根回り約1.5m、根元周囲約2.2mで、同種の藤としては全国一の巨樹とされている。
20m四方に枝を広げ、時季には淡紅色の花が藤棚に咲きほこり見応えがあると云う。

阿知の藤は樹齢は500歳とも550歳ともいわれ、寄る年波には勝てず、一時は枯死寸前に陥ったこともあったと云う。
活性剤を注射したり、せん定、棚改修など、樹勢回復に取り組んで、今日も植木職人が剪定していた。

花の見頃 4月下旬~5月上旬と云う。

                 地元の職人が大事に剪定し見事な藤棚
    

鶴形山は、「倉敷城の城山、稲荷山と呼ばれるた。城郭であり、伝承によると「天慶の藤原純友の乱」の頃、征討使として西下した
小野好古が拠点として築いたとされ、以降、中世末期まで小野氏の居城となった。
建武2年(鎌倉幕府滅亡の1333年頃)、福山合戦の前哨戦といえる戦いがあり、小野浄智房が目代として荘・真壁の両氏等足利勢を備中福山城に攻めて敗れた。この時、倉敷城を拠点としていたとされる。
明応2年(東海道大地震1498年頃)、当時の城主小野好信が小野家の氏神として伏見稲荷神社を勧請、城山稲荷神社(城山稲荷大明神)とした。
江戸時代には倉敷村は大半の時代が江戸幕府領となっており、この頃には倉敷城は廃城となっている。
城のあった小丘(城山)には幕府代官の陣屋が建てられ、倉敷陣屋。
延享3年(1746年)には、倉敷陣屋が廃止され、倉敷城・陣屋のあった城山の南側に丘を取り込む形で倉敷代官所が建設され、倉敷代官による一帯の幕府領の支配の拠点となている。

                          城山稲荷社
    

「阿智神社」
倉敷の総鎮守。倉敷市中心部、倉敷美観地区の北にある鶴形山と呼ばれる小高い山の上に鎮座している。古代、「亀島」「鶴形島」などと呼ばれていた現在地に住み着いた阿知使主の一族が作った庭園が元となったといわれている。

    石段と山門                  拝殿              神木
    

岡山平野は吉備の穴海と呼ばれる海域で、現在の倉敷市鶴形山周辺は交通の要衝であったといわれ、そのため海上交通の守護神である宗像三女神を祀ったと考えられている。

境内には鶴亀様式とよばれる古代庭園がある。また「天津磐境」をはじめ磐座が多数有り、「斎館」と呼ばれる館の庭には陰陽磐座や水琴窟がある。

          手水舎                    高台の境内               鐘楼
    

主神ー多紀理毘売命・多岐都比売命・市杵嶋比売命

相殿ー 応神天皇・約三十柱神「商売繁盛・交通安全」

祭事ー5月5日 - 藤祭り・5月第3土・日曜日 - 春季例大祭・10月第3土・日曜日 - 秋季例大祭「素隠居祭」。

       観龍寺本堂                          境内から
  

「観龍寺」は、山号ー宝寿山、真言宗御室派・別格本山、創建年ー985年の古寺、開基ー尭勢津師、札所ー備中西国第29番霊場・ 倉敷八十八カ所霊場

この鐘楼からは倉敷美観地区が一望できる。
    

室町時代に鶴形山の麓で、寛永元年(1624年)現在の地に再移転し、宝寿山観龍寺と改称されたと云う。
江戸時代中期の1740年代に2度にわたり伽藍が焼失、本堂は、1749年に再建以降時代に整備し現在に至る。

同じ鶴形山の妙見宮(現在の阿智神社)は室町時代末期に倉敷村の鎮守として現在の観龍寺の場所に祀られ、
1594年に、移転。
1624年に観龍寺が妙見宮別当となったが、明治2年神仏分離令により妙見宮は分離され阿智神社に改称している。

再建された本堂の屋根瓦は古い物で約250年前のものとされ、三つ巴やリンドウ、菊などの紋が刻まれている。鐘楼は昭和時代末に再建され、瓦は様々な紋様が使用された。 
    

1866年、江戸幕府崩壊前、天領だった倉敷は長州藩の配下にあった第二奇兵隊の脱走兵約100人が攻め入り、現在の倉敷アイビースクエアにあった
「倉敷代官所」を襲撃し、観龍寺に陣を張ったと云う。
脱走兵は兵糧と軍資金を調達し翌朝には出て行ったが、左手鴨居門には槍の傷跡が現在も残っていると云うが探せなかった。

            寂厳和尚供養塔
  

次回は、倉敷川河畔美観散策。