syuの日記・気まま旅

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新発田 歴史の町と市島酒造

2012-06-17 | 気まま旅
「新発田」駅前に出た。

県北東部の蒲原平野の中心、東に飯豊連峰、西新潟砂丘、加治川の扇状地で「鮭」が昇ってくる、アイヌ語の「シビタ」訛って新発田説、
新田開発説、湿地の洲端(スバタ)説といろいろである。新発田は、城下町、江戸時代から一貫して溝口家が治めている。
加賀の大聖寺より入封時は、6万石。紫雲寺潟、福島潟の千拓事業により開発の結果、10万石に増加されている。
新発田は、商業都市でもある、明治に入り、北蒲原の中心で、役所、裁判所、学校などが早くから設けられ、城跡に軍隊が駐屯し、後に、歩兵第16連隊となる。
現在は、陸上自衛隊が駐屯している。鉄道は、1912年(大正元年)羽越本線が開通され、経済、文化の北東部の中心と発展した。



すわさま「諏訪神社」は、創建は648年と伝えられる。
大和朝廷により渟足柵や磐舟柵が置かれた際、柵戸として信濃国から移住した人々が、現在の諏訪大社より分霊を勧請したのが起源とされる。
当時は現在の北蒲原郡聖籠町の諏訪山に鎮座したという。
新発田一帯の領主となった佐々木氏および新発田氏の崇敬を受けるようになる。この間、神社は新発田氏により諏訪山から新発田城のそばへ遷座したとも伝えられる。

江戸時代に入ると、新発田藩初代藩主溝口秀勝により新発田城内へ遷されたのち、城外での幾度かの遷座を経て、1688年、四代藩主溝口重雄の時代に現在地へ遷座した。
歴代藩主による篤い崇敬は町人にまで広がり、夏の祭礼は城下の最大行事として大いに賑わうようになった。
七代藩主溝口直温の時代、1756年に建立された社殿が2001年まで存在していたが、同年未明に焼失。
市民の寄付などにより2004年に社殿が再建され、現在に至っている。

                                              御柱
    


御柱 拝殿の前には、諏訪大社より譲り受けた御柱が立てられている。これは2004年の社殿再建を期に立てられたもので、諏訪大社の御柱祭の開催に合わせ、
6年おきに立て替えられる。

  

祭事と行事 歳旦祭 1月、 鎮火祭 2月、 夏越大祓、人形供養お焚き上げ 6月、 例祭 8月末、 溝口公の祭り 8月、大祓 12月末。

境内                                倒れ掛かった松
  

8月の例祭は、江戸時代より新発田の街を挙げて盛大に行われ、1726年、六代藩主溝口直治が当神社の祭礼にあたり各町内へ「飾り人形の屋台を出すように」
とのおふれを出したことから新発田台輪が生まれ、町人も参加する盛大な祭りとなった。
祭りの象徴である新発田台輪は、8月27日早朝に新発田市の各町内から当神社の境内に奉納され29日の夕方に各町内へ帰っていく 。
例祭中の移御式と還御式は古来からの形式に則って行われており、これは全国でも数少ない例となっている。


  

諏訪神社前の「市島酒造」は、1598年、 市島家の本家にあたる「豪農市島家」。
越後新発田藩主に任ぜられた溝口秀勝と溝口家に随伴して加賀大聖寺から現在の新発田市近辺に移住した。薬種問屋を営む傍ら回船や酒造、金融で富を蓄え、
福島潟の干拓による新田開発で北陸でも屈指の大地主となった。
1790年 初代当主市島秀松が市島家より分家し、酒造業を創業、 1873年 市島家は第四国立銀行(現在の第四銀行)の設立にも関わった。
現在新発田市天王(旧豊浦町)にある市島本家の邸宅「市島邸」が観光客に開放されている。

市島酒造 王紋
  


酒の名柄は、「王紋」
市島酒造の主力商品は、かつては所在地に因んだ『諏訪盛』という銘柄であった。しかし昭和初期に、ドイツ留学から帰った四代目・市島長松の発案により、
現在の『王紋』に変更された。
長松が欧州の王家の紋章に感銘を受けたためで、ラベルのデザインも一部商品を除き洋盾型の枠の中に西洋文字風のレタリングで商品名が入る。
なお、カップ酒などにはアルファベット表記も入るが、綴りは「AU MONT」とフランス語を思わせるもので、洋風へのこだわりが感じられる。


     

200年にわたる酒造りと市島家の歴史を伝える収蔵品の数々を展示、王紋の銘酒が生まれる老舗の蔵を見る事が出来る。

  

市島酒造には、男でも厳しい「杜氏」の資格をもている「女性杜氏」が数人蔵に入っている。伝統の王紋の今では珍しい、昔の酒造りの道具などを展示、見学できる。(無料)


  

「清水園」の新発田藩、溝口家下屋敷(敷地4,600坪)は、宣直の1666年に棟上げされ、4代重雄の1693年に完成。
重雄の時代には、遠州流の茶人で幕府庭方であった「縣宗知」が江戸から招かれ、庭園もつくられた。
江戸の元禄文化の舞台はここ越後の新発田にもととのい、藩主や家臣らを茶の湯や能楽の世界へ誘うことになる。
地方分化の機運を大きくかもし出した清水谷御殿あったが、時の移ろいとともに役目が落ち着き、明治24年、越後屈指の大地主、沢海村の伊藤家の所有に、
以後昭和21年には(財)北方文化博物館が管理するところとなる。
沢海、北方文化博物館・本館の作庭を手掛けた庭師「田中泰阿弥」が、清水谷御殿の全体を修復し、「清水園」として現在の姿となった。
池泉と一体となり景観に溶け込むような5つの茶室、京都から運んだ石を配し古記録と聞き込みに基づき修復した結果、越後から東北にかけて他に見ない名園となる。 入園有料

清水園                              正門
  

清水園の苔、新発田川そして園内の大泉池がコケの生育に欠かせない多湿の環境をもたらしている。
近江八景をとりいれた京風の庭で,庭の中央部分に大泉池を配した回遊式庭園で、庭内に見られるコケはウマスギゴケが大部分であるが、ホソバオキナゴケ、コツボゴケ、
ハイゴケの仲間も多い。


  

「足軽長屋」  桁行24間(約43.6m)、梁間3.5間(6.4m)の寄棟造茅葺 八軒長屋
 
1842年に藩の普請奉行が建てた棟札がみられ、 新発田藩は軍事的理由から、城下の幹線道路の出入り口付近に人数溜まりをつくり、その外側に「足軽長屋」を置いた。
長屋は旧会津街道口、古くは足軽町とよばれた上鉄炮町の裏につくられ、幕末まで4棟あった清水谷長屋のうちの1棟が、「北長屋三軒割八住居」とし展示されている。

足軽長屋
  

「清水園」の東側を流れる新発田川。

園内
    



「酒造りの話」酒母、酛続き
フクレの次が、ワキツキ 3日間酵母を増殖、酒母1ml中2億個に、約9日間で保温止める。冷却をワケと云う。
醪仕込までをカラシ(枯らし)、酒母仕込んで約14日間

才一仕込、初添、一日目。  仕込み休む、踊り。   三日目、第二仕込、仲添。  四日目、第三仕込、溜添

次回は、新発田寺町へ。

白鳥の湖「瓢湖」から豊栄

2012-06-15 | 気まま旅
越後国は、1598年、豊臣秀吉の命を受けてそれまで越後一国を領していた上杉景勝が会津に移封された後、越後は福島30万石に堀秀治、坂戸2万石に堀直寄、
村上(本庄)9万石の村上義明、そして新発田の溝口秀勝といった具合に配置された。
秀勝は1600年の関ヶ原の戦いのとき、徳川家康の東軍に与して越後に在国し、越後で発生した上杉旧臣の一揆を鎮圧した功績により、家康から本領を安堵され、
ここに新発田藩6万石が成立した。越後国の譜代大名・親藩のひしめく中に位置する外様大名であった。

藩の領域は現在の新発田市の領域に加え、現在の新潟市東部・阿賀野市・加茂市・南蒲原郡にまで及ぶ広大なものであったが、その領域の大半を占める蒲原平野は、
阿賀野川・信濃川下流域に広がるその名の通り蒲のような水草の生い茂る低湿地帯であり、そのままでは農耕に適さない土地であった。
新発田藩とその領民は代々干拓や治水に力を入れ、新田開発を進めていった。その結果この地域は穀倉地帯となるまでに開発が進み、その収穫は石高の数値を
大きく上回るまでになり、内高40万石という説もある。この地域にいくつか残る当時の豪農の邸宅の遺構からは、当時の様子がうかがわれる。

越後水原「白鳥の湖・瓢湖」は、干ばつの被害をなくすために人工的に造られた農業用水池、白鳥は、シベリアに生息し、5~6月頃産卵、ヒナをかえし、
秋になると餌を、求めてサハリン方面から北海道に集結し、10月上旬からさらに南下して、瓢湖にも渡ってくる。
そして3月中旬頃から春の訪れとともにまたシベリアへ帰って行く。

                                           最盛期には湖一面白鳥達になる
  

瓢湖は、 1639年用水池として完成し、池の形が瓢箪に似ていたことから、「瓢湖」と呼ばれ、 1950年初めてハクチョウが飛来。
1954年 吉川重三郎、通称:白鳥おじさんが、野生のハクチョウの餌付けに全国で初めて成功、 白鳥の飛来地として、国の天然記念物に指定された。
2005年 国指定瓢湖鳥獣保護区に指定、 2008年 ラムサール条約の登録湿地に登録。湖は、アヤメでも知られている。

                       
    


「水原八幡宮」は、町中央に鎮座。 八幡神を祀る神社。八幡神は奈良時代に、第15代応神天皇(誉田皇子)に比定された。
本宮は大分県宇佐市鎮座の宇佐神宮。境内入口に古峯様など の末社があった。

                         本殿
    


曹洞宗蒲原三十二番札所「祥瑞山・大雲寺」聖観世音菩薩  1618年 長楽寺十世超岸元悦禅師により開創。瓢湖の傍らに建つ寺院。
本尊は、釈迦牟尼仏  観音像は、行基菩薩作、庚申堂が境内に。

  

豊栄市に入る。市は、豊栄地区、北地区とも市街地・住宅地・集落の外郭部はその大部分が水田で占められており、稲作が盛んである。
豊栄地区と北地区の濁川地域はトマトの栽培が特に盛んで、北区内の生産量は県内総生産量の約6割を占める。
豊栄は1973年に国の指定産地に認定、現在は主に「桃太郎」を生産。

濁川では国内でいち早く節水栽培に取り組むなど生産技術の高さがある。また豊栄地区はナスの栽培も盛んで、特に豊栄独特の特大の長ナス
「やきなす」は地区の特産品として知られる。
北地区のうち南浜地区は砂丘地であることからスイカ、メロンなどの栽培が盛んである。
新発田、新潟市に近いが、どちらかと云えば新潟市の人口増で、ベットタウンの宅地化されてきた。

JR豊栄駅                        銘柄「朝日晴」本社
  

豊栄駅に近い、「小黒酒造」は、人の手を掛ける酒造り、 スッきりとして深みを感じさせる味のバランスと爽やかな切れ味。
小黒酒造は本物を、常に目指し、酒は人の心の置き所、旨くも、拙くもなるもの。酒造りに持てる気持ちの全てを投じる、そんな、蔵人の集まりと聞く。

                                  事務所
 


「越乃梅里 純米大吟醸」価格720ml 2,625円、豊栄一の超高級として知られる、酒泣く子も黙る白瓶の大吟醸で、希少価値は抜群と云う。
さりげなく、ほのかな口中香と味わい深いコク、バランスの良い旨味といやな後味を残さない切れ上がりが特徴酒。単なる端麗辛口では物足りない、究極の酒。蔵元の弁。

道を挟んで工場
  

「照善寺」浄土宗の寺。

  

「豊栄・古峰神社」は、北区白新町は,JR豊栄駅の近く,石動神社の隣に鎮座する。覆屋の中に1837年 建築の本殿がある。
軒唐破風付,一間社春日造りで,両側面には千鳥破風が付いていると云う。こけら葺の社殿には隅々まで手の込んだ彫刻が施されており貴重。
覆屋の中にあるため残念ながら全貌を見ることができない。本殿は,2008年に国の有形文化財に指定。


  

「石動神社」は、古峰神社と隣接して鎮座する。境内は石動公園として整備。 葛塚の総鎮守として1734年に創立されたと伝える。
町方の稲荷神社に対して,当社は主に農民に信仰された。 現在の祭神は大己貴命であるが,神体は木造の虚空蔵大権現だという。
入母屋造りの拝殿は江戸末期の建築である。拝殿の瓦には「鱗紋」が見える。本殿は1796年の建築。拝殿前に狛犬が一対ある。台座には、1867年の銘がある。


    



中黒山神明宮の「夫婦欅」樹齢300年以上。大気汚染のため枯れ枝が目立つようになったが、人々が奉賛会を作り、蘇生養生させた。


  

「紫雲寺村」は、2005年に 新発田市が紫雲寺町と加治川村を編入した。


新潟市、信濃川・西港・阿賀野川・東港から、加治川・胎内川と続いて行く、紫雲寺のこの辺は新発田市に入っている。
海側から国道113号・(海岸沿い)みて、国道7号線・日本海高速道・JR白新線など平衡して、新潟と新発田を結んでいる。

「北谷内稲荷大神」は、新発田市佐々木、JR白新線佐々木駅の西800メートルに鎮座。 参道入り口の社号標に「北谷内稲荷大神」とあった。
伏見稲荷大社の支部で、大社は神社本庁に属さない単独神,集落の鎮守として祭られている。
竹林の参道を抜けると社殿が建っている、 社殿に「財団法人伏見稲荷大社附属 稲荷講社新潟支部」の看板がかかっていた。


    

「紫雲寺と町」は、昔は、県北蒲原郡であった、日本海に面していた町。町名は、かつてこの地にあり、1735年干拓によって埋め立てられた紫雲寺潟の名に由来する。
2005年、加治川村とともに新発田市へ編入された。

紫雲寺は、街中にあり、町の名と関係があると思ったが、無いようである。国道113号沿いの町に寺が三軒あった。

  

    


  
「観音院」

    

「要行寺」
  


「県立紫雲寺記念公園」は、県道新発田線沿いにある。園内にチューリップ広場、散策路、アスレッチク広場、バーベキュー広場、探鳥路、
紫雲温泉、
キャンプ場、海の広場、藤塚浜海水浴場、8月海上花火が開催される。


  

自然に親しみ、植物、野生鳥獣などに触れ研究が出来る。ブナ林で鳥のさえずりを聞く事が出来る。飼育舎には、梟などが身近に見られる。

散策路も緩やかな道とややアップダウンのある道がある。


  


「酒造りの話」仕込み
いよいよ仕込んでいくが、温度管理に神経を使う、まず20℃で仕込み、徐々に温度を下げ、3日後から加温操作一日1.5℃づつ昇温
糖化を進めて加熱する。5日目酵母増す、炭酸ガス発生これを「フクレ」と云う。この続き次回に。

次回は、新発田方面に。







豪農の館から 水原町へ

2012-06-13 | 気まま旅

「河村瑞賢」が開港した新潟港は、西廻航路の主要港、出羽酒田から日本海沿岸を回り瀬戸内海・紀州沖・遠州灘を経て江戸に入る航路、西廻り航路を開き、
輸送に要する時間と費用を大幅に軽減することに成功。
途中の寄港地を定めて入港税免除や水先案内船の設置も行うことで海運の発展に尽力した。測量の方法などは瑞賢が得た知識と数学的才能によるものだと云う。
元禄12年(1699年)、83歳で死去。

「県政記念館」白山公園内にある。1883年建設され約50年県政審議の場として使われている。
イギリスロンドン国会議事堂に擬して建てられたという。ロンドンのテムズ川と信濃川を見立てたという。

新潟県発祥の地は、阿賀野市の水原町。新潟市に県庁が移るまで水原町は,1869年(明治2年)水原県の政治、行政の中心地.


白鳥飛来地としても有名、JR羽越本線・水原駅。町の地勢は、東には、五頭山脈が連なり、南には、1年間の流水量が日本2位の阿賀野川が流れ、平坦な地形で水田が開けている。
南は阿賀野川をはさみ、五泉市、新津市と隣接。西は北蒲原郡京ケ瀬村、北は豊栄市に接す。
新潟市へは西方20キロメートル。

新潟港から、水原方面と進む。
                新潟市にある県政会館                    新潟港 佐渡汽船本社
    

「佐渡汽船」両津航路 ・新潟港 - 両津港(67km・国道350号海上区間)
カーフェリー(所要時間:通常期2時間20~30分) おけさ丸、総トン数5862t、最大旅客定員1705名、最大速力23.4ノット。 保有するカーフェリーの中で最大。
おおさど丸、全長131.9m、総トン数5373t、最大旅客定員1705名、最大速力22.6ノット、最古。

ジェットフォイル(所要時間:データイム1時間) ぎんが、 つばさ、 すいせい、出力7600馬力、旅客定員260人、最大速力47ノット87km/h)。

今回は、佐渡島は見送る。

ジェットフォイル 入港と出航
  

豪農の館、北方文化博物館  越後蒲原平野、阿賀野川西岸、沢海集落、江戸中期「農」から身を起こし代を重ね、伊藤家の豪農
1370万M2、の田畑で、昭和に入り、県下一の作米であった。

                        豪農 伊藤家勝手口
  

本邸 敷地8800坪、建坪1200坪、部屋数65、昭和21年全て寄贈、国の登録有形文化財に指定登録された。

 古木                          玄関
  

全て檜造り、大広間の雨戸26枚、柱が一本も無い、畳の数100枚。

    

庭園 回遊式庭園、5つの茶室、京都銀閣寺庭師田中泰阿弥(県柏崎出身)の作。

  

囲炉裏、台所は、従業員50人が働いていたという。竈で毎日60KG(一俵)、囲炉裏に16人座れる広さ。そのほか、美術品、民芸品、考古資料が展示されている。
入館有料

庭園   藤棚
  

「沢海日枝神社」は豪農の館に隣接 
    

「真宗大谷派・光国寺」 1698年で創立。1931年に本多環師によって移転中興された。本尊は阿弥陀如来。
寺宝は見真大師絵像、彗灯大師名号,太子絵像、七高僧絵像、達如上人絵像がある。

    

「水原の戦い」

新政府軍の越後攻略の目的の一つに、水原の占領がある。水原は当時、た十万石を越える幕府直轄地の中心として代官所が置かれた土地、市島家などの大富豪を有していた。
天領の首都とも言えるこの水原を占領する事は、越後各地の天領を掌握する事につながった。新発田入りしていた新政府軍の一隊は、会津軍が駐留する水原を攻撃目標とした。

新政府軍は新発田藩を先頭として薩摩・長州・明石・芸州の藩が続いて進軍。
新政府軍上陸の翌朝の事である。不意を突かれた水原の会津藩兵は手勢も少なく、新発田方面に対して防衛の準備ができていない。
ここを守り切れないと判断し、戦闘を回避し保田方面へ退却を決めた。新政府軍が町に入ると若干抵抗するものもあったが、難なくこの戦略要点を占領。
退却の際に会津藩が行なった放火は、市島家別邸、継志園を初め多くの家屋を失う大火災となる。

一方、笹岡攻撃隊も笹岡の東1キロの堤村光円寺に会津兵が駐屯しているという情報を得て、これを二手に分かれて攻撃。ここでも会津軍は防戦を諦めて丘陵沿いに退却した。

津軍が駐屯した堤村の光円寺。会津軍は五頭の麓の丘陵にそって退却。新政府軍は陣ヶ峰に台場を造って反撃に備えた。

水原城と代官所跡碑
    

水原町は、新発田、新津の間に広がる穀倉地帯、中世から白河荘水原条領主、水原氏(溝口家支配)であったが、1746年天領地となり、代官所が置かれた。
古くから、六斉市の開かれる在郷町として発展した。水原13人衆豪商が移住した。明治に入り巨大地主「市島家」が構築され、天朝山に新潟府(越後府)がおかれ
1870年まで県中心であったが、県に移行して現在に至っている。

    

2004年(平成16年) 水原町、安田町、笹神村、京ヶ瀬村が合併して、阿賀野市になった。

代官所跡
    


「酒の話」佐渡島の酒
全国に知られている、鬼も赤くなる「佐渡の辛口鬼ごろし」北雪は、佐渡の赤泊。両津に佐渡銘醸「天領盃」など4~5場ある。全般的に辛口の酒。

次回は豊栄方面に。

日本海新潟の繁華街「古町」

2012-06-09 | 気まま旅



新潟市内の大火「明治新潟大火」の影響もあって遊郭は移転し、芸事が中心の花柳界(花街)へと変化。
昭和初期には新橋・祇園と並び三大花街と呼ばれるまでとなり、現在においても高級料亭が12軒営業している。
行形亭、有明、やひこ、寿々村、大丸、小三、かき正、鍋茶屋、金辰、等の新潟を代表する老舗料理屋がある。

昭和時代、天然ガス採掘による地盤沈下の発生や、下水道網の不備から堀に生活廃水が大量に流出したことなどから堀の水質が悪化。
更に昭和新潟大火(1955年)による古町地域の焼失、新潟国体(1964年)を控え、交通路の確保と街の衛生状態を改善する必要に迫られたことから、
昭和30年代末頃までに堀は全て埋め立てられたのである。
かつての堀の周辺には西堀通や東堀通といった堀の付く地名が多い。またかつての堀の縁には柳の木が植えられていたことから、新潟市を柳都と呼んだり、
新潟市の木が柳となるなど、歴史が色濃く残されていた。

古町春の恒例「ドンドン祭」は、豊かな自然に恵まれた新潟の「食」の宝庫、
日本一のコシヒカリをはじめ、山の幸、海の幸など、いろいろな「美味しい新潟」を楽しめる。

古町モール
    


柾谷小路を挟んで小林百貨店、大和の2大百貨店を中心に新潟市一の繁華街として栄えてきた古町、
1955年の昭和新潟大火により、5番町から7番町にかけてがほぼ焼失、木造の建造物が圧倒的に多く、残ったのは大和などごく一部であった。
これを機に焼失地域の再建が始まり、1964年の新潟国体を控え、商店街をあげて大会を盛り上げようと意気が上がり、成功に終わった。
しかしその直後に起きた「新潟地震」によって、古町界隈も大きな被害を受けた。

西堀通り(飲食店が集中している)割烹「鍋茶屋」

創業は江戸末期の1846年、初代高橋谷三郎が、すっぽん料理を始めたことによるもので、以来160年にわたり伝統の味と技そして風格を受けついで、
古町花街と共に多くの文人墨客に愛されて着た。木造三階建の料亭は、文化庁の「保存文化財」登録、

    

ふるまちモール5には新潟市出身の漫画家、水島新司の代表作のキャラクターブロンズ像が並べられた「水島新司マンガストリート」があり、完成当初は、
『ドカベン』のキャラクター岩鬼正美の口から出ているトレードマークの“葉っぱ”が盗難される事件が相次いだため、現在は日中のみ葉っぱを取り付け、
夜には外すようになっている。 ふるまちモール6には街頭大型ビジョンが設置。

                     ホテルイタリア軒          昔は柳通りで賑わっていた
     

春と秋のイベントとして「古町どんどん」「にいがた食の陣」で、特に賑わう。

女剣劇、落語などもやる「演芸場」       昔は魚市場で賑わった本町市場
  

街は碁盤の目のようで解りやすい。


「海嶽山・宗現禅寺」曹洞宗の寺、インドから中国そして日本に伝えられ、曹洞宗の源はお釈迦さま、お釈迦さまの教えを日本に伝えられ、
永平寺を開かれた道元禅師を「高祖」とあがめ、總持寺を開き、教えを全国に広められた瑩山禅師を「太祖」と仰ぎ、二人の祖師を「両祖」呼び、
三方を「一仏両祖」として祀り、信仰のまこととする。拝む時は「南無釈迦牟尼仏」お唱えして礼拝。現在では、全国に約15,000の寺院と、1,200万人の檀信徒、

    

街路は古町通りと平行する「通り」と呼ばれる道と、これに直交する「小路」と呼ばれる道からなる。古町通りの北側には西堀通が、また南側には東堀通、本町通が通り、
柾谷小路等の小路が縦貫している。

真宗大谷派「光暁山・勝念寺」1499年円広坊敬智開祖。新潟明和騒動の後、この寺で涌井藤四郎など民衆が会議を開いた。涌井氏らの墓がある。

    

「対岳山 正福寺」壁の本堂が印象的なお寺。真宗大谷派、御本尊 阿弥陀如来。
吉崎御山之図 火難の御文 阿弥陀如来木像 祖師上人灰身像 十時名号 紺紙金泥十字名号善導 法然両高祖御影 六字名号 三尊来迎御
など保存。
明治2年このお寺に設置された「施蘭薬院」では、新潟で初めての西洋医療、種痘が行われた。
境内には昭和37年に建立された「施蘭薬院跡」の石碑や改修時取り外された旧鬼瓦(大正元年作)がある。

      

市内のお寺は「ホテルイタリア軒」の周りに集中している。この伝統あるホテルは、明治7年、イタリア人ピエトロ・ミリオーレ氏が当時の県令楠本正隆氏の力添えで
1番町に新潟初の西洋食品店。明治14年、西堀通7番町、現在の基礎となる西洋料理店を始め、明治39年、倶楽部組織とするために出資組合として発足し、
ホテルとしてスタート、現在にいたる。

    

祐櫛山・ 浄泉寺」真宗大谷派、開祖  道林(1486) 阿弥陀如来
1486年、加賀国江沼郡櫛村において道林が開基。 五世祐善の時、1619年本地へ移る。1597年ともいわれている。(新潟市史による)

美しい本堂のお寺。留蓋の上には、鳩の飾りが。爆弾市長と言われた「桜井一作」の墓がある。

  

「白龍大権現」本町市場の5番町側に立つ神社。商売繁盛・縁結びの。昭和28年に信濃川を下ってこの地に流れ着いた一体二頭の古い龍神像を祀っている。
お参りの際は、最初に自分の氏名を名乗ってから祈願すると聞く。


  


「本町6商店街」は  昔から新潟市民の台所として親しまれてきた「本町市場」。
地ものの新鮮な魚や野菜のほか、生活雑貨やファッション関連など、専門店ならではの品揃えの店が軒を連ねていた。
店の数は約60軒で、新鮮と価格競争で安く県外の客も多かった。が今は大手スーパーが出来て一変していた。
昭和5年、からの市場で、地域に根付き、せり場より直送のとれたて新鮮な魚介類はもちろん、魚卵・干物など取り揃っていた。

新潟名物笹団子、大おはぎを路上で販売していた。
    


次回は水原方面へ。

新潟市に鎮座 白山神社と護国神社

2012-06-07 | 気まま旅

新潟市は、信濃川、河口のあり、日本海最大の人口を擁する都市で、3世紀の弥生後期(六地山遺跡)に、すでに稲作がおこなわれている。
南北朝で小国氏が治めていた。
小国氏は、坂戸城主・長尾政景の家臣・樋口兼豊の次男として現在の南魚沼市に生まれた実頼は 、1582年、現在の新潟市西蒲区の天神山城主・小国重頼の養子となり、
小国氏を名乗るようになりました。その後上杉景勝の命により、姓を大国と改めています。

新潟港は、15世紀、長岡藩の外港として開発された。藩主の堀直よりは、信濃川と結ぶ新しい街並みと堀造り、そこに商店を指定した。
18世紀、米と港湾の幕府直轄領となり、奉行所がおかれている。

信濃川架かる橋、海側から「柳都大橋」「萬代橋」「八千代橋」「昭和大橋」「千歳大橋」で、JR新潟駅前東大通り、萬代橋、柾谷小路
の街中で、日本海となる。

「白山神社」祭神 菊理媛命、伊弉諾と尊。創建年代不詳で1644年現在地に移されている。周辺は、「白山公園」になっている。


正面大鳥居                狛犬


白山神社 新潟市中央区一番堀通町に、神社朱の大鳥居が目に入る。神社は,新潟市の総鎮守である。
繁華街 古町一番町を抜けると,大通り(かつての一番堀の跡 )の向いですぐわかる。白山神社は山岳信仰の山「加賀白山」と関係が深いと云われている。

「白山公園」は、1964年の新潟地震で液状化現象による噴砂などが発生し被災。園内の施設も損壊。
老朽化した野球場は廃止され、跡地には震災義援金の活用策として「震災記念館」が建設。新潟県民会館。

1970年代から80年代に掛け園内の施設、1990年代に、園地内を経由する川岸町通りを人工地盤下を経由するトンネルに経路を変え、南北の園地が一体となる。
南側は空中庭園を経由して信濃川やすらぎ堤とも接続し、園地は現在、約7.0haの広さ。




境内には、 松尾神社、 黄龍神社、 蛇松明神、 大黒天、 道祖神、 住吉神社、 稲荷御蔵等が鎮座し、池、樹木、花などで整備さ、散策が楽しめる。


境内の大藤棚               山門           拝殿


本殿の様式は、三間社流造銅板葺で趣のある建築。


御廊所


「会津八一」は、歌人、書家。新潟市に生まれ、中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。
東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲らの講義を聴講し、1906年早稲田大学英文科卒業。
卒業論文にはキーツをとりあげた。卒業後は、現新潟県立有恒高等学校)の教員となって新潟に戻り、多くの俳句・俳論を残した。

1908年に最初の奈良旅行をおこなって奈良の仏教美術へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけともなった。
1910年に坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の教員となり上京し、1925年には早稲田高等学院教授となり翌年には早稲田大学文学部講師を兼任して美術史関連の
講義をおこない、研究でしばしば奈良へ旅行していた。

「記念館」昭和50年開館、八一の作品、書画、遺品喉を展示している。


記念館前                     


古町の商店街に、記念碑が、會津八一生家跡、建立年昭和61年建立、古町通5番町。
石材赤御影石、

       ふるさとの はまのしろすな わかきひを 
                    ともにふみけむ ともをしぞおもふこの故。







「県・護国神社」  会津八一記念館に近い、海方面の北西部西船見町に鎮座されている。県内の戦没者を祀っている。

境内に、坂口安吾の文学碑 「故郷は 語ることなし」と刻まれていた。

北原白秋の歌   「海は荒海 向こうは 佐渡よ、、、、」砂山の碑などがあった。


護国神社                大鳥居               参道


主な軍人は、本間雅晴(陸軍中将、第14軍司令官)、山本五十六(元帥海軍大将、聯合艦隊司令長官)、小林省三郎(海軍中将、鎮海要港部司令官)、建川美次(陸軍中将)など。
                                                                                                                            


松林の緑に囲まれた素晴らしい環境の中にご鎮座。境内脇に遊歩道が設けられ、 西海岸公園として散策出来る。


鐘楼                        境内


小山を下ると、荒波の日本海、今日も白波が打ち寄せていた。


遊歩道                   から見た日本海


「酒の話」麹室
適度の湿気と室内の温度が25~30℃。
蒸米は、コシキから放冷機にかけ約35℃で麹室でモヤシ(種麹)を均一ふり掛け「床モミ」、菌がうまく付くように素手で揉む
布をかけ31~33℃で10時間寝かし、切り返す(固まらないようにほぐす)、これを15~45kgの単位にして箱に移す。これを「盛」という、約45時間管理する。


次回は、繁華街古町を。