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新発田 歴史の町と市島酒造

2012-06-17 | 気まま旅
「新発田」駅前に出た。

県北東部の蒲原平野の中心、東に飯豊連峰、西新潟砂丘、加治川の扇状地で「鮭」が昇ってくる、アイヌ語の「シビタ」訛って新発田説、
新田開発説、湿地の洲端(スバタ)説といろいろである。新発田は、城下町、江戸時代から一貫して溝口家が治めている。
加賀の大聖寺より入封時は、6万石。紫雲寺潟、福島潟の千拓事業により開発の結果、10万石に増加されている。
新発田は、商業都市でもある、明治に入り、北蒲原の中心で、役所、裁判所、学校などが早くから設けられ、城跡に軍隊が駐屯し、後に、歩兵第16連隊となる。
現在は、陸上自衛隊が駐屯している。鉄道は、1912年(大正元年)羽越本線が開通され、経済、文化の北東部の中心と発展した。



すわさま「諏訪神社」は、創建は648年と伝えられる。
大和朝廷により渟足柵や磐舟柵が置かれた際、柵戸として信濃国から移住した人々が、現在の諏訪大社より分霊を勧請したのが起源とされる。
当時は現在の北蒲原郡聖籠町の諏訪山に鎮座したという。
新発田一帯の領主となった佐々木氏および新発田氏の崇敬を受けるようになる。この間、神社は新発田氏により諏訪山から新発田城のそばへ遷座したとも伝えられる。

江戸時代に入ると、新発田藩初代藩主溝口秀勝により新発田城内へ遷されたのち、城外での幾度かの遷座を経て、1688年、四代藩主溝口重雄の時代に現在地へ遷座した。
歴代藩主による篤い崇敬は町人にまで広がり、夏の祭礼は城下の最大行事として大いに賑わうようになった。
七代藩主溝口直温の時代、1756年に建立された社殿が2001年まで存在していたが、同年未明に焼失。
市民の寄付などにより2004年に社殿が再建され、現在に至っている。

                                              御柱
    


御柱 拝殿の前には、諏訪大社より譲り受けた御柱が立てられている。これは2004年の社殿再建を期に立てられたもので、諏訪大社の御柱祭の開催に合わせ、
6年おきに立て替えられる。

  

祭事と行事 歳旦祭 1月、 鎮火祭 2月、 夏越大祓、人形供養お焚き上げ 6月、 例祭 8月末、 溝口公の祭り 8月、大祓 12月末。

境内                                倒れ掛かった松
  

8月の例祭は、江戸時代より新発田の街を挙げて盛大に行われ、1726年、六代藩主溝口直治が当神社の祭礼にあたり各町内へ「飾り人形の屋台を出すように」
とのおふれを出したことから新発田台輪が生まれ、町人も参加する盛大な祭りとなった。
祭りの象徴である新発田台輪は、8月27日早朝に新発田市の各町内から当神社の境内に奉納され29日の夕方に各町内へ帰っていく 。
例祭中の移御式と還御式は古来からの形式に則って行われており、これは全国でも数少ない例となっている。


  

諏訪神社前の「市島酒造」は、1598年、 市島家の本家にあたる「豪農市島家」。
越後新発田藩主に任ぜられた溝口秀勝と溝口家に随伴して加賀大聖寺から現在の新発田市近辺に移住した。薬種問屋を営む傍ら回船や酒造、金融で富を蓄え、
福島潟の干拓による新田開発で北陸でも屈指の大地主となった。
1790年 初代当主市島秀松が市島家より分家し、酒造業を創業、 1873年 市島家は第四国立銀行(現在の第四銀行)の設立にも関わった。
現在新発田市天王(旧豊浦町)にある市島本家の邸宅「市島邸」が観光客に開放されている。

市島酒造 王紋
  


酒の名柄は、「王紋」
市島酒造の主力商品は、かつては所在地に因んだ『諏訪盛』という銘柄であった。しかし昭和初期に、ドイツ留学から帰った四代目・市島長松の発案により、
現在の『王紋』に変更された。
長松が欧州の王家の紋章に感銘を受けたためで、ラベルのデザインも一部商品を除き洋盾型の枠の中に西洋文字風のレタリングで商品名が入る。
なお、カップ酒などにはアルファベット表記も入るが、綴りは「AU MONT」とフランス語を思わせるもので、洋風へのこだわりが感じられる。


     

200年にわたる酒造りと市島家の歴史を伝える収蔵品の数々を展示、王紋の銘酒が生まれる老舗の蔵を見る事が出来る。

  

市島酒造には、男でも厳しい「杜氏」の資格をもている「女性杜氏」が数人蔵に入っている。伝統の王紋の今では珍しい、昔の酒造りの道具などを展示、見学できる。(無料)


  

「清水園」の新発田藩、溝口家下屋敷(敷地4,600坪)は、宣直の1666年に棟上げされ、4代重雄の1693年に完成。
重雄の時代には、遠州流の茶人で幕府庭方であった「縣宗知」が江戸から招かれ、庭園もつくられた。
江戸の元禄文化の舞台はここ越後の新発田にもととのい、藩主や家臣らを茶の湯や能楽の世界へ誘うことになる。
地方分化の機運を大きくかもし出した清水谷御殿あったが、時の移ろいとともに役目が落ち着き、明治24年、越後屈指の大地主、沢海村の伊藤家の所有に、
以後昭和21年には(財)北方文化博物館が管理するところとなる。
沢海、北方文化博物館・本館の作庭を手掛けた庭師「田中泰阿弥」が、清水谷御殿の全体を修復し、「清水園」として現在の姿となった。
池泉と一体となり景観に溶け込むような5つの茶室、京都から運んだ石を配し古記録と聞き込みに基づき修復した結果、越後から東北にかけて他に見ない名園となる。 入園有料

清水園                              正門
  

清水園の苔、新発田川そして園内の大泉池がコケの生育に欠かせない多湿の環境をもたらしている。
近江八景をとりいれた京風の庭で,庭の中央部分に大泉池を配した回遊式庭園で、庭内に見られるコケはウマスギゴケが大部分であるが、ホソバオキナゴケ、コツボゴケ、
ハイゴケの仲間も多い。


  

「足軽長屋」  桁行24間(約43.6m)、梁間3.5間(6.4m)の寄棟造茅葺 八軒長屋
 
1842年に藩の普請奉行が建てた棟札がみられ、 新発田藩は軍事的理由から、城下の幹線道路の出入り口付近に人数溜まりをつくり、その外側に「足軽長屋」を置いた。
長屋は旧会津街道口、古くは足軽町とよばれた上鉄炮町の裏につくられ、幕末まで4棟あった清水谷長屋のうちの1棟が、「北長屋三軒割八住居」とし展示されている。

足軽長屋
  

「清水園」の東側を流れる新発田川。

園内
    



「酒造りの話」酒母、酛続き
フクレの次が、ワキツキ 3日間酵母を増殖、酒母1ml中2億個に、約9日間で保温止める。冷却をワケと云う。
醪仕込までをカラシ(枯らし)、酒母仕込んで約14日間

才一仕込、初添、一日目。  仕込み休む、踊り。   三日目、第二仕込、仲添。  四日目、第三仕込、溜添

次回は、新発田寺町へ。

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