新潟市の海沿いを「日本海夕日ライン」、日本海に向かう駐車場を夕日ステーションと呼ぶらしいが、どこからどこまでか良く解らなっかった。
国道402号線で市内の近くに、小さな漁場があり、一休みした。海は荒れていた。
日本海夕日ライン 小さな漁場
日本海峡の水深が浅いため、外海との海水の交換は少なく、唯一対馬海峡から対馬海流が流入するのみである。
暖流の流入は日本の温暖な気候に影響を与え、北部には寒流のリマン海流が流れているが、地質調査からかつて親潮が流れていた事が明かとなっている。
深層には太平洋とは全く性質を異にする日本海固有水と呼ばれ、寒冷で溶存酸素に富んだ海水が分布する。
北方と南西海域は豊富な水産資源が得られ、鉱物資源や天然ガス、わずかながら石油そしてメタンハイドレートの存在など経済的にも重要な海域とされ期待。
荒波の日本海
この辺りを沼垂町(ぬったり町)と云う。沼垂の地名は古く、日本書紀の記述によれば647年に造られたとされる渟足柵に遡ることができる。
「渟足柵」の表記はやがて「沼垂城」へと変化し、現在の地名となった。
当時の渟足柵がどこにあったのかは未だ明らかでない、かつて現在の通船川を本流とし、現在の信濃川河口付近を河口としていた阿賀野川右岸の砂丘地帯であろうと
推定されている。
港町として栄えるようになり、南北朝時代の文献に「沼垂湊」と呼ばれたことが記録されている。
しかし1631年の洪水をきっかけに信濃川が次第に阿賀野川と合流するようになると、阿賀野川右岸は激しく侵食されるようになり、
沼垂町は数度の移転を余儀なくされたとある。
栗ノ木川流域にあたる現在の地へ町が移転したのは、1684年のことである。当時は、対岸の新潟町同様、堀の多い町だった。
1731年、新発田藩が排水のために掘削した松ヶ崎掘割が決壊し、阿賀野川本流となった。今度は阿賀野川からの水量の激減により水深が浅くなり、
港としての機能が著しく低下した。港町としての沼垂町は姿を変え、国道7号線、と1889年町制施行され、1896年に新潟市との間に萬代橋が架橋された。
1897年北越鉄道後の信越本線の新潟駅に近い街。
沼垂 白山神社 本殿
8世紀前半に国-郡-郷を単位とする地方制度が整うと,阿賀野川を境に北が越後国沼垂郡,南が越後国蒲原郡になる。
同時期に,新津丘陵に鉄・須恵器を生産する遺跡,信濃川左岸の的場にサケを漁獲加工する遺跡が成立し,海岸の砂丘地帯には塩を生産する遺跡がある。
鉄・須恵器の生産は,郡内の自給力を高めるため、サケは,10世紀までに,越後国が税として都(朝廷)に献納する特別な産品。
10世紀前半の郷には,沼垂郡に沼垂郷・賀地郷,蒲原郡に桜井郷・青海郷などがあり。越後国の国津は,信濃川河口の蒲原津湊と定められていた。
当時,越後国の国府は頸城郡(上越市)にあり,国府から遠く離れた地に国津が置かれたことは,広大な流域を持つ信濃川河口の重要性を物語っている。
古代末期の12世紀には,弥彦荘・豊田荘・加地荘・青海荘など,中世へ続く多くの荘園ができた。荘園の中心は丘陵や山麓に近い所にあり,
阿賀野川以北の荘園開発には越後の武士・城氏が関わったといわれる。中世には蒲原郡に含まれている。
「白山神社」は、 越後國沼垂郡 美久理神社(新発田)旧郷社、祭神 菊理媛命 天照皇大神。
新潟駅の北東1Kmほどの沼垂東に鎮座。7号線の東側、開基は古く、王瀬(現在の山の下)で創建され、927年の延喜式に記載。
何回もの移転遷座を繰り返し1726年現在地に。現社殿は1847年の再建、熊谷の小林源太郎を棟梁とし、特に彫刻は名作。市指定文化財。
「乙子神社」は、 乙子神社鳥居 乙子神社,沼垂白山神社の向かいに鎮座する旧村社である。西向き。
1368年の海難を鎮めるために創建したと伝える古社である。白山神社は東向き。
本殿
「今代司酒造」歴史ある蔵、工場見学が出来る
米の精米からはじまり、蒸す、冷却、仕込み、発酵、殺菌 などの純米酒造りがどのような作業で行われているかを酒蔵内で蔵人が直接の案内される。
ご家族や個人でも利用出来る。
昔の新潟市は「栗の木川」現在はバイパスに、物流の船路として重要な位置にあった。その沼垂の地域では酒蔵、味噌蔵、醤油蔵、などが隣り合わせていたという。
今代司 工場前の店舗
新潟駅から歩いて17分の距離、商品は、純米醸造酒、純米大吟醸酒、純米吟醸酒、特別純米酒、純米酒の純米専門メーカー。
今代司工場
「信濃川」は、新潟県および長野県を流れる一級河川で、信濃川水系の本流で ある。
信濃川と呼ばれているのは新潟県域のみで、長野県にさかのぼると千曲 川と呼称が変わる。全長367km。
「真宗大谷派・鳥居野院 西方寺」
親鸞聖人は、承元の法難によって越後に流され、約7年間をこの越後の地で過ごされた。厳しい自然のなか、家族に囲まれ、民衆に溶け込みながら流人として越後で過ごし、
「非僧非俗」をもって「愚禿」と名乗られた聖人の念仏者としての道を深めたといわれている。
越後の荒海や、信濃川、阿賀野川などの河川の氾濫、大自然のなかで翻弄されながらも逞しく生活する越後の人々のなかに親鸞聖人はなにを感じられたのか?
七不思議は、1 逆さ竹、2 焼鮒、3 八房の梅、4 珠数掛桜、5 三度栗、6 繋ぎ榧、7 片葉の芦。
逆さ竹 市中央区鳥屋野、西方寺の国指定の天然記念物。
枝が下向きに生える枝垂れタケ。親鸞が竹杖を逆さに土に挿したものに根が生えたと伝える。
逆さ竹はハチクが枝垂れる変異種であるが、竹の枝垂れは他にほとんど例がなく、極めて珍しい奇形であることから1922年(大正)11年10月12日に
国の天然記念物に指定された。
しかし、近年ではほとんど見られなくなってしまい、西方寺に保存されている標本が確認できる現存する唯一のものである。
阿賀野川 西方寺
「逆さ竹」1207年親鸞は越後へ配流となり、新潟で親鸞が法話を説かうとしたとき、まともに聞く人もなかった。
そこで親鸞は竹の杖を地面に突き刺して歌をよんだ。
この里に親の死したる子はなきか、御法の風になびく人なし 親鸞
すると杖から根を生じて竹林ができた。挿した杖は下向きだったので、その一本は逆さまの枝をつけたという。
「鳥屋野神社」は、西方寺の南に鎮座。
周辺の地盤が低いため,階段を少し登ったところに社殿がある。 元来は大山咋命を祭神とする日枝神社であったが,伝承によると,佐渡に流されて崩じた
順徳上皇の霊を合祀して産土神としたいう説がある。1972年,字愛宕山にあった愛宕社(火産霊命)を合殿している。
西方寺本殿 境内
社殿は、しっかりした構えで、歴史を感じる。
「酒造りの話」酛
1、麹 2、酛 3造り 1の麹(箱に移す盛)までお話をした。いよいよ酒母(麹と蒸米と水に酵母を加え、酵母を増殖させとのが酒母)
速醸酒母・最初から乳酸を加え添加て、細菌の汚染を防ぎ、酵母のみを増殖させる方法、生酛が出来るのに「乳酸添加方式」日数が半分以上違う。
続きは次回に。