「中山道」は、69宿・信州は、26宿で木曽街道とも呼ぶ。
「碓氷峠」を起点に浅間山・標高1600mの難所「和田峠」ー越えて「諏訪湖」へと続く、内軽井沢宿ー和田宿で11宿ある。
宿場 軽井沢ー 掛ー追分ー小田井ー岩村田ー塩名田ー八幡ー望月ー芦田ー長久保ー和田・・・・・。
岩村田は、長野県佐久市、県東端で佐久市の北 一万石の内藤藩の城下町。北佐久地方の中心地になる。

「岩田村藩」(岩村田陣屋跡は、浅間会館)現在の佐久市を支配した藩。藩庁は岩村田陣屋に置かれたと云う。
元禄16年の1703年、武蔵国赤沼藩(武蔵国・上野国・常陸国・上総国・下総国など各地で1万5000石)から転じて内藤正友が佐久郡のうち27か村で1万6000石を与えられ、岩村田陣屋が置かれたことに始まる。
その後、1万石分が摂津国・河内国(現在の大阪府)内の地へ一時移封されたが、その次男である第2代藩主・内藤正敬の代に再度佐久郡内の地へ移封された。また三男の内藤正直に1000石が分知された。このように所領の場所が頻繁に入れ替わることが多かったが、藩政で特に見るべきところはなく、そのまま代替わりしたと云う。
第6代藩主・内藤正縄は老中・水野忠邦の実弟であった関係で、伏見奉行となってその功績により城主格に昇進された。
最後の藩主・内藤正誠は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。
戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に出兵、この頃、岩村田では築城計画がなされていたが、明治2年、版籍奉還が行なわれ、さらに廃藩置県が行なわれて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となった。(岩村田県は長野県に吸収)
「内藤正友」 従五位下・式部少輔 武蔵赤沼藩、1万5千石より入部 元禄16年 - 正徳元年・(1703年 - 1711年) 内藤正勝の長男
「内藤正敬」 従五位下・下総守 遺領相続、(父の死去により) 正徳元年 - 延享3年・(1711年 - 1746年) 先代の次男
「内藤正弼」 従五位下・美濃守 遺領相続、(父の死去により) 延享3年 - 明和7年・(1746年 - 1770年) 先代の長男
「内藤正興」 従五位下・志摩守 遺領相続 (父の死去により) 明和7年 - 寛政4年・(1770年 - 1792年) 先代の次男
「内藤正国」 従五位下・美濃守 遺領相続 養父の死去により、 寛政4年 - 享和2年・(1792年 - 1802年) 養子(先代の娘婿)
肥前唐津藩の第2代藩主・水野忠鼎の四男
「内藤正縄」 従五位下・豊後守 遺領相続、(叔父の死去により) 享和3年 - 万延元年・ (1803年 - 1860年) 養子(先代の甥)
肥前唐津藩の第3代藩主・水野忠光の三男
「内藤正誠」 従五位下・志摩守 遺領相続、(祖父の死去により) 万延元年 - 明治4年・ (1860年 - 1871年) 養子(先代の孫)
先代の長男・内藤正義の長男 戊辰戦争で宇都宮城出兵。

「小海線岩村田駅」 至北中込ー滑津ー中込ー太田部・・


「円満寺」 真言宗、智山派ー山号・大悲山。創建、天長5年の828年、岩村田の小平地区に律宗大悲山信光寺があり三十六房を有し、その中の一寺。
岩村田の大井城付近に移り真言律宗となり、三重塔もあったが大永年間(1521年 - 1528年)に兵火により焼失、廃寺となるも、紀伊国の僧侶勇伝が再興。
武田信玄の武運祈願を斎行する。観音堂や天満宮を境内に建立し、梅樹を植し、山号を「梅霊山」とした。
子供が六院誕生したため、六供の地名がある。
再び戦乱に遭遇し、荒寺となるも、1747年に再興し、山号を「大悲山」に復す。
領主内藤氏は観音堂を再建し、鬼門鎮護祈願を執行。境内には立川雲平像、宗吾祠などがある。
観音堂は境内北にあり、本尊は京都清水寺と同体観音菩薩。
藤は、戦国時代永禄年間に京都の「野田藤」を植えたが、焼失。その後、江戸時代延宝年間に再び野田藤の種を蒔き、現在に至る。
門前には、岩村田七井戸の一つ「梅の井戸」がある。硬水で酒造仕込み水として有名。
「キャンベル石塔」
カナダから来日したキャンベルは1916年大正5年に軽井沢で強盗により殺され、キャンベルはキリスト教宣教師だったので、当時、埋葬を許可する寺や墓所はなかった。
円満寺住職は「たとえ外国人であろうと、異教の宣教師であろうと、死者に対しては差別なく、ひろく平等であるべきだ。」として埋葬を許可した。キャンベルの葬儀の際には当時すでに軽井沢から岩村田へ移転していた遊郭から楽隊がくり出し、大勢の人々が讃美歌を歌いながら円満寺まで葬列をつくったとある。
信濃成田山・福寿院などの称号もある寺。


藤


本堂

王城公園

「王城公園・大井城」鎌倉時代初期に小笠原氏が信濃に入国すると同時期に佐久大井荘を与えられ土着したのが始まり。
地域にはやはり小笠原系の伴野氏がいてライバル関係にあり、伴野氏が「霜月騒動」で全滅に近い打撃を受けたことで結果的に大井氏が勝者として東信濃に君臨する。南北朝期には、関東へと向かう南朝軍一万に大井城を攻囲され善戦むなしく落城した。
室町時代にはその地理的な関係から、あるいは大井氏が関東にも所領を持っていた関係か、関東の政治情勢とも密接な関連を持ち、
「大井持光」は、「永享の乱」で滅んだ関東公方・足利持氏の遺児を匿い、「結城合戦」を落ち延びた持氏の末子、永寿王丸(万寿王丸)を匿って
関東公方が再興された際に足利成氏と名乗る人物、結城合戦の際には大井持光も結城城への入城を目指したと云う。
碓氷峠において関東管領軍の阻止にあい、結局は合流できなかったとある。
大井氏の全盛時代ー関東公方と幕府の対立を背景に隣国甲斐の武田氏とたびたび戦い、また同じ佐久のライバル伴野氏と抗争を繰り返すようになり、伴野氏が武田氏の支援を求めたこともあり、後年の武田氏による佐久侵攻の伏線が布かれて行き、室町中期の文明年間、伴野氏との争いで決定的大敗を、大井政朝が一時は生け捕りにされ恥辱を味わう。弱体化したところを村上政清に攻撃され、大井氏の宗家にあたる岩村田大井氏は事実上滅亡、
戦国時代には岩尾・小諸・長久保などの各地の庶家がそれぞれに細々と続いている。
その後、大井(長窪)貞隆が事実上の大井氏惣領的な位置づけにあったとされ、長窪城は信玄により落とされ、貞隆は、甲府に幽閉の後死去、最後まで抵抗したのは内山城に拠る大井貞清、貞重父子、小室城の大井高政、岩尾城の岩尾弾正忠行頼などですが、いずれも降伏・開城を余儀なくされ、実質的に武田氏の他国衆として再編されていきます。
二ノ丸にあたる南側の地区は「黒岩城」、外郭は「石並城」と呼ばれますが、実質的にはひとつの大きなお城。
現在は、「王城」部分がその名の通り王城公園になっているほかはほとんどが宅地、市街地、農地と化しており、主郭部も含めて遺構は明瞭ではない。
(空堀状の地形もありますが、この地方に多い段丘上の田切り地形との区別も難しく、明瞭な遺構があるのかどうかは不明)
武田氏による苛烈な佐久侵攻が。



「湯川」-県北佐久郡軽井沢町・御代田町、佐久市を流れる川・信濃川水系の一級河川。
江戸時代には、鵜川、大川、鼻顔川とも。県北佐久郡軽井沢町北部の浅間山付近に源を発し、白糸の滝や千ヶ滝、碓氷峠などからの河川を合わせ、御代田町を経て佐久市鳴瀬で千曲川(長野県における信濃川の呼称)に合流。
御代田町の湯川渓谷には長野県営の治水ダムである湯川ダムがある。
流端 上流端は、県北佐久郡軽井沢町大字長倉字獅子岩地籍地先・下流端、信濃川への合流点(水系、一級水系信濃川水系)

「鼻顔稲荷神社」 日本五大稲荷の一つ 主祭神ー宇迦之御魂命。
天下泰平、五穀豊穣・家内安全・商売繁盛・交通安全・進学成就といった神徳があると云う。
伏見稲荷大社・豊川稲荷(愛知県豊川市)・祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)・笠間稲荷神社(茨城県笠間市)とともに日本五大稲荷のひとつに数えられる。
稲荷神社より望む岩村田の町並み。
稲荷町・花園町は当社の鳥居前町として発展してきた町。永禄年間の室町時代後期、戦国時代の創建。
社名の「鼻顔」は所在地名から、川向こうに見える「飯綱下」という地名から、本来の社名は「飯綱稲荷」であったという説もある。
「天下の名稲荷」とうたわれ信仰は篤く、信仰組織(稲荷講)は佐久に留まらず、上小や上野国(群馬県)・武蔵国(埼玉県)といった関東方面まで広がっていた。
特に、初午・二の午(年によっては三の午も)・小満は多くの参拝客で賑わったと云う。
「おこもり」(お籠り)という風習が江戸時代から明治の初め頃まで存在し、主に女性が遠方から参拝に訪れており、風紀上の懸念から役所が禁止令を出したとも伝わる。
湯川対岸より社殿を見上げ、社殿は、懸崖造り。湯川に臨む断崖に朱塗りの柱を下ろし、社殿を支えている。
境内にはケヤキの木とアカマツの木が双生した「相生の樹」があり、縁結びの名所、春は、川面に映る桜が美しい。
鳥居

湯川から


佐久市酒造組合献奉樽酒

鳥居をくぐり参道を進んだ御姿殿には、巻物を咥えた子持ちの稲荷狐が鎮座して参拝客を出迎え、子育て支援に力を入れる佐久市らしさが伺える。
湯川の断崖に朱塗りの柱で支えられた空中楼閣の社殿は、京都清水寺と同じ懸崖造りであり、薄暗い崖の中に組み込められた本殿、旧本殿が、厳かで神秘的な雰囲気を醸し出している。


「西念寺」 浄土宗知恩院の末寺
山号ー一行山

「本尊」、 阿弥陀如来坐像(県宝に指定)
藤原末期、定朝様式の一典型。像高は半丈六を超える。
膝の裏に墨書による修理銘がある。それによると年代は、1563年、願主は岌往(生蓮社)・円誉(相蓮社)、大工は宗観・即阿弥。
佐久市の伊勢林あたりで雨ざらしとなっていたという伝承がある。
仙石氏の墓 - 小諸城主・仙石秀久は岌往と親交をもっていたと云われている。
吉沢好謙の墓
「伝承」-西念寺には蛇が棲んでいない。開山後4代目となる住職・岌円和尚が法力にて封じたためだという。
仙石秀久の墓と囲いを同じくして、弟の内膳正正直の墓がある。
乱暴者で秀久の怒りを買い、相木(南佐久郡)の谷に閉じ込め、食事も満足に与えられず、心配した母が西念寺恵頓和尚に嘆願し、正直を本堂裏の「養真庵」に住まわせたが、若くして亡くなったという。
(現在の群馬県藤岡市にある西念山一行寺は、かつて岩村田藩の悪政から逃れ移り住んだ人々が、岩村田の一行山西念寺にちなんで建てたもの)

1555年、「武田信玄」が開基し、きゅうおう上人が開山の名刹

楼門ー12本の円柱で天井に天女が描かれている。

岩田村は、城下町、本陣、脇本陣は、この寺に置かれたとある。


「碓氷峠」を起点に浅間山・標高1600mの難所「和田峠」ー越えて「諏訪湖」へと続く、内軽井沢宿ー和田宿で11宿ある。
宿場 軽井沢ー 掛ー追分ー小田井ー岩村田ー塩名田ー八幡ー望月ー芦田ー長久保ー和田・・・・・。
岩村田は、長野県佐久市、県東端で佐久市の北 一万石の内藤藩の城下町。北佐久地方の中心地になる。

「岩田村藩」(岩村田陣屋跡は、浅間会館)現在の佐久市を支配した藩。藩庁は岩村田陣屋に置かれたと云う。
元禄16年の1703年、武蔵国赤沼藩(武蔵国・上野国・常陸国・上総国・下総国など各地で1万5000石)から転じて内藤正友が佐久郡のうち27か村で1万6000石を与えられ、岩村田陣屋が置かれたことに始まる。
その後、1万石分が摂津国・河内国(現在の大阪府)内の地へ一時移封されたが、その次男である第2代藩主・内藤正敬の代に再度佐久郡内の地へ移封された。また三男の内藤正直に1000石が分知された。このように所領の場所が頻繁に入れ替わることが多かったが、藩政で特に見るべきところはなく、そのまま代替わりしたと云う。
第6代藩主・内藤正縄は老中・水野忠邦の実弟であった関係で、伏見奉行となってその功績により城主格に昇進された。
最後の藩主・内藤正誠は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。
戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に出兵、この頃、岩村田では築城計画がなされていたが、明治2年、版籍奉還が行なわれ、さらに廃藩置県が行なわれて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となった。(岩村田県は長野県に吸収)
「内藤正友」 従五位下・式部少輔 武蔵赤沼藩、1万5千石より入部 元禄16年 - 正徳元年・(1703年 - 1711年) 内藤正勝の長男
「内藤正敬」 従五位下・下総守 遺領相続、(父の死去により) 正徳元年 - 延享3年・(1711年 - 1746年) 先代の次男
「内藤正弼」 従五位下・美濃守 遺領相続、(父の死去により) 延享3年 - 明和7年・(1746年 - 1770年) 先代の長男
「内藤正興」 従五位下・志摩守 遺領相続 (父の死去により) 明和7年 - 寛政4年・(1770年 - 1792年) 先代の次男
「内藤正国」 従五位下・美濃守 遺領相続 養父の死去により、 寛政4年 - 享和2年・(1792年 - 1802年) 養子(先代の娘婿)
肥前唐津藩の第2代藩主・水野忠鼎の四男
「内藤正縄」 従五位下・豊後守 遺領相続、(叔父の死去により) 享和3年 - 万延元年・ (1803年 - 1860年) 養子(先代の甥)
肥前唐津藩の第3代藩主・水野忠光の三男
「内藤正誠」 従五位下・志摩守 遺領相続、(祖父の死去により) 万延元年 - 明治4年・ (1860年 - 1871年) 養子(先代の孫)
先代の長男・内藤正義の長男 戊辰戦争で宇都宮城出兵。

「小海線岩村田駅」 至北中込ー滑津ー中込ー太田部・・


「円満寺」 真言宗、智山派ー山号・大悲山。創建、天長5年の828年、岩村田の小平地区に律宗大悲山信光寺があり三十六房を有し、その中の一寺。
岩村田の大井城付近に移り真言律宗となり、三重塔もあったが大永年間(1521年 - 1528年)に兵火により焼失、廃寺となるも、紀伊国の僧侶勇伝が再興。
武田信玄の武運祈願を斎行する。観音堂や天満宮を境内に建立し、梅樹を植し、山号を「梅霊山」とした。
子供が六院誕生したため、六供の地名がある。
再び戦乱に遭遇し、荒寺となるも、1747年に再興し、山号を「大悲山」に復す。
領主内藤氏は観音堂を再建し、鬼門鎮護祈願を執行。境内には立川雲平像、宗吾祠などがある。
観音堂は境内北にあり、本尊は京都清水寺と同体観音菩薩。
藤は、戦国時代永禄年間に京都の「野田藤」を植えたが、焼失。その後、江戸時代延宝年間に再び野田藤の種を蒔き、現在に至る。
門前には、岩村田七井戸の一つ「梅の井戸」がある。硬水で酒造仕込み水として有名。
「キャンベル石塔」
カナダから来日したキャンベルは1916年大正5年に軽井沢で強盗により殺され、キャンベルはキリスト教宣教師だったので、当時、埋葬を許可する寺や墓所はなかった。
円満寺住職は「たとえ外国人であろうと、異教の宣教師であろうと、死者に対しては差別なく、ひろく平等であるべきだ。」として埋葬を許可した。キャンベルの葬儀の際には当時すでに軽井沢から岩村田へ移転していた遊郭から楽隊がくり出し、大勢の人々が讃美歌を歌いながら円満寺まで葬列をつくったとある。
信濃成田山・福寿院などの称号もある寺。


藤


本堂

王城公園

「王城公園・大井城」鎌倉時代初期に小笠原氏が信濃に入国すると同時期に佐久大井荘を与えられ土着したのが始まり。
地域にはやはり小笠原系の伴野氏がいてライバル関係にあり、伴野氏が「霜月騒動」で全滅に近い打撃を受けたことで結果的に大井氏が勝者として東信濃に君臨する。南北朝期には、関東へと向かう南朝軍一万に大井城を攻囲され善戦むなしく落城した。
室町時代にはその地理的な関係から、あるいは大井氏が関東にも所領を持っていた関係か、関東の政治情勢とも密接な関連を持ち、
「大井持光」は、「永享の乱」で滅んだ関東公方・足利持氏の遺児を匿い、「結城合戦」を落ち延びた持氏の末子、永寿王丸(万寿王丸)を匿って
関東公方が再興された際に足利成氏と名乗る人物、結城合戦の際には大井持光も結城城への入城を目指したと云う。
碓氷峠において関東管領軍の阻止にあい、結局は合流できなかったとある。
大井氏の全盛時代ー関東公方と幕府の対立を背景に隣国甲斐の武田氏とたびたび戦い、また同じ佐久のライバル伴野氏と抗争を繰り返すようになり、伴野氏が武田氏の支援を求めたこともあり、後年の武田氏による佐久侵攻の伏線が布かれて行き、室町中期の文明年間、伴野氏との争いで決定的大敗を、大井政朝が一時は生け捕りにされ恥辱を味わう。弱体化したところを村上政清に攻撃され、大井氏の宗家にあたる岩村田大井氏は事実上滅亡、
戦国時代には岩尾・小諸・長久保などの各地の庶家がそれぞれに細々と続いている。
その後、大井(長窪)貞隆が事実上の大井氏惣領的な位置づけにあったとされ、長窪城は信玄により落とされ、貞隆は、甲府に幽閉の後死去、最後まで抵抗したのは内山城に拠る大井貞清、貞重父子、小室城の大井高政、岩尾城の岩尾弾正忠行頼などですが、いずれも降伏・開城を余儀なくされ、実質的に武田氏の他国衆として再編されていきます。
二ノ丸にあたる南側の地区は「黒岩城」、外郭は「石並城」と呼ばれますが、実質的にはひとつの大きなお城。
現在は、「王城」部分がその名の通り王城公園になっているほかはほとんどが宅地、市街地、農地と化しており、主郭部も含めて遺構は明瞭ではない。
(空堀状の地形もありますが、この地方に多い段丘上の田切り地形との区別も難しく、明瞭な遺構があるのかどうかは不明)
武田氏による苛烈な佐久侵攻が。



「湯川」-県北佐久郡軽井沢町・御代田町、佐久市を流れる川・信濃川水系の一級河川。
江戸時代には、鵜川、大川、鼻顔川とも。県北佐久郡軽井沢町北部の浅間山付近に源を発し、白糸の滝や千ヶ滝、碓氷峠などからの河川を合わせ、御代田町を経て佐久市鳴瀬で千曲川(長野県における信濃川の呼称)に合流。
御代田町の湯川渓谷には長野県営の治水ダムである湯川ダムがある。
流端 上流端は、県北佐久郡軽井沢町大字長倉字獅子岩地籍地先・下流端、信濃川への合流点(水系、一級水系信濃川水系)

「鼻顔稲荷神社」 日本五大稲荷の一つ 主祭神ー宇迦之御魂命。
天下泰平、五穀豊穣・家内安全・商売繁盛・交通安全・進学成就といった神徳があると云う。
伏見稲荷大社・豊川稲荷(愛知県豊川市)・祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)・笠間稲荷神社(茨城県笠間市)とともに日本五大稲荷のひとつに数えられる。
稲荷神社より望む岩村田の町並み。
稲荷町・花園町は当社の鳥居前町として発展してきた町。永禄年間の室町時代後期、戦国時代の創建。
社名の「鼻顔」は所在地名から、川向こうに見える「飯綱下」という地名から、本来の社名は「飯綱稲荷」であったという説もある。
「天下の名稲荷」とうたわれ信仰は篤く、信仰組織(稲荷講)は佐久に留まらず、上小や上野国(群馬県)・武蔵国(埼玉県)といった関東方面まで広がっていた。
特に、初午・二の午(年によっては三の午も)・小満は多くの参拝客で賑わったと云う。
「おこもり」(お籠り)という風習が江戸時代から明治の初め頃まで存在し、主に女性が遠方から参拝に訪れており、風紀上の懸念から役所が禁止令を出したとも伝わる。
湯川対岸より社殿を見上げ、社殿は、懸崖造り。湯川に臨む断崖に朱塗りの柱を下ろし、社殿を支えている。
境内にはケヤキの木とアカマツの木が双生した「相生の樹」があり、縁結びの名所、春は、川面に映る桜が美しい。
鳥居

湯川から


佐久市酒造組合献奉樽酒

鳥居をくぐり参道を進んだ御姿殿には、巻物を咥えた子持ちの稲荷狐が鎮座して参拝客を出迎え、子育て支援に力を入れる佐久市らしさが伺える。
湯川の断崖に朱塗りの柱で支えられた空中楼閣の社殿は、京都清水寺と同じ懸崖造りであり、薄暗い崖の中に組み込められた本殿、旧本殿が、厳かで神秘的な雰囲気を醸し出している。


「西念寺」 浄土宗知恩院の末寺
山号ー一行山

「本尊」、 阿弥陀如来坐像(県宝に指定)
藤原末期、定朝様式の一典型。像高は半丈六を超える。
膝の裏に墨書による修理銘がある。それによると年代は、1563年、願主は岌往(生蓮社)・円誉(相蓮社)、大工は宗観・即阿弥。
佐久市の伊勢林あたりで雨ざらしとなっていたという伝承がある。
仙石氏の墓 - 小諸城主・仙石秀久は岌往と親交をもっていたと云われている。
吉沢好謙の墓
「伝承」-西念寺には蛇が棲んでいない。開山後4代目となる住職・岌円和尚が法力にて封じたためだという。
仙石秀久の墓と囲いを同じくして、弟の内膳正正直の墓がある。
乱暴者で秀久の怒りを買い、相木(南佐久郡)の谷に閉じ込め、食事も満足に与えられず、心配した母が西念寺恵頓和尚に嘆願し、正直を本堂裏の「養真庵」に住まわせたが、若くして亡くなったという。
(現在の群馬県藤岡市にある西念山一行寺は、かつて岩村田藩の悪政から逃れ移り住んだ人々が、岩村田の一行山西念寺にちなんで建てたもの)

1555年、「武田信玄」が開基し、きゅうおう上人が開山の名刹

楼門ー12本の円柱で天井に天女が描かれている。

岩田村は、城下町、本陣、脇本陣は、この寺に置かれたとある。


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