syuの日記・気まま旅

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房総丘陵と鯨の骨が出土した「茂原」

2018-12-31 | 気まま旅
茂原は、旧石器時代から住んでいる。市内北西端の桂字神田山の関東ローム層から、ナイフ形石器、石の削りカスなどが発見された。
遺跡や貝塚は、ほかにも縄文式土器の破片や土偶などが出土した石神貝塚、縄文時代の人骨10体が見つかった下太田貝塚、弥生時代中期から後期の作と思われる土器、磨製の太形石釜、石包丁が出た宮ノ台遺跡などが。
市庁舎建設現場からナガスクジラの化石や貝類が発見されたことから、1万年ほど前の平地部は、ほとんど海底であったと考えられ、やがてこの海は、5,000~6,000年前の時代に、土砂のたい積と隆起の繰り返しによって陸地化している。
4世紀に大和朝廷が確立してからは、市内にも古墳が築かれ、双子塚古墳からは直刀や杯型土器などが、長尾古墳からは陶棺が掘り出されている。
中世に入ると、藻の茂る原野に手を入れ、牧野として整備したのは
「藤原黒麻呂」でした。
宝亀5年の774年、上総介に任じられた黒麻呂とその子孫によって開墾された牧野は、広大な荘園を形成、荘園も武士階級の台頭とともに没落、戦国時代に消滅し、やがて武士の所領となっていった。

当時、里見氏と北条氏が反目する中で、付近は長南武田氏、土気酒井氏、東金酒井氏と黒熊大膳(本納地域)が勢力を張って、黒熊氏は、酒井氏とともに里見氏に属し、一支城としての役割を担っていましたが、
永禄7年の1564年、国府台合戦で里見方が北条氏に敗れたのを機に、酒井氏が北条側に寝返ったことから、両者の間柄は危機に。ふ
黒熊大膳の奸計虚しく、里見の援軍を迎えぬまま本納城は落ち、大膳も自害し、本納の蓮福寺の裏山は「本城山」と呼ばれ、九十九里平野を見渡せるここに「黒熊大膳の居城」があった。

茂原市本納は、「荻生徂徠」1666-1728 ゆかりの地
儒学者で、父侍医、禄を失い貧因の少年時代を過ごしている。学問に親しむ、31歳で老中「柳沢吉保」の儒臣となる。
5代将軍綱吉に儒学を講じ、学者として天下に名を高めた。
赤穂浪士を切腹を論じている。綱吉も徂徠説を採用して。「彼らの行為は、義であるが、公儀の許しもなく騒動を起こした以上、法のよる処罰、、」
8代将軍吉宗の諮問を受け「政談」を執筆し、享保の改革の陰の人。

茂原市は、県中部、房総丘陵北東部と九十九里平野のまたがる市で、九十九里平野と海浜地域の「農水産物集積地・上総木綿生産地」である。

日蓮宗「実相寺」           仁王石像          日正稲荷大明神
    

創建ー1634年・三代将軍家光公時代で、開基ー旗本、中島彦右衛門(本山鎌倉圓覚寺)

                      本堂


                 茂原公園前(天の川)と桜並木  お花見の頃の写真です。
    

                     公園入口
    

                桜・つつじの名所ー茂原公園ー


               公園周囲に「染井吉野」約2850本


                     弁天湖


                全国お花見1000景選の名所


                     ライトアップされる


               JR「茂原駅」西約2km


                   弁天堂が          広場では、イベントが
    

              園内には・美術、郷土資料館
    

茂原は、古代遺跡が多い所で、藤原氏の荘園が開かれ、、中世、斉藤氏所領を経て、近世は、旗本領地となった。
1606年「六斎市」が開かれた。

  

本納城は、尾根を利用した城域の山城平山城ー1529年築城?1590年廃城で城主「黒熊大膳景吉・土気酒井氏」小田原の役を経て徳川直轄領に。

  

「酒井氏」は、戦国時代上総国ー東金城ー根拠として同国北部を支配している。
地方領主土気の「酒井胤治」は、里見氏方に寝返り、里見軍を後護して北条軍を阻止した。その子孫は、徳川氏の旗本として仕えている。

    

         人力車(南総鉄道)
    


            天然記念物・鶴枝ヒメハルゼミの発生地


「日蓮」 1222-82 安房生まれ、日蓮宗開祖・立正安国論・京都で「日像」が長年努力し、「妙顕寺」勅願寺とされた。

「本門法華宗大本山ー鷲山寺」
1276年領地「斉藤兼綱」の館を「寺」とし、「藻原寺」等が建立せれている。


鷲山寺、山号ー長国山、宗派ー法華宗本門流、本尊ー三宝尊。創建年ー1277年、開山ー日弁・開基ー小早川内記。
塔頭が、二院ある(観妙院、妙本寺)。

「日蓮大聖人御尊像」(伝 日法聖人御作)。

開山以来、四度の火災に遭い諸堂を消失、現在は、本堂、庫裏、開山堂、鐘楼堂、水行堂、仁王門、香神堂、長屋門、などを備えるが仮設のものが多い。元禄大地震による、大津波の犠牲者供養碑がある。
歴史ー1264年、日蓮は小早川内記の帰依を受ける。
   1277年、日弁は小早川内記の外護により、鷲山寺を建立。
   1535年、火災により、焼失・再建。
   1705年、火災により、焼失・再建。
   1862年、火災により、焼失・再建。
   1954年の昭和29年、茂原市主催の打上花火により、本堂は焼失すると、焼失・再建を。

                   仁王像
  

              元禄津波供養塔ー市指定有形文化財
    

「鎌倉時代」この地を支配していた領主斎藤兼綱は笠森に来ていた日蓮上人を館に招いた 。
日蓮は清澄寺で立教開宗宣言(1253)をした後地頭に追われて鎌倉に向かう途中 。
話を聞いて一族は日蓮に帰依し、ここに最初の法華道場を造った。

「藻原妙光寺」
    

「日弁」1239- 1311
鎌倉時代の法華宗(日蓮宗)の僧。日辨とも。越後房。越後阿闍梨。中老僧の一人。
1239年、駿河国富士郡に生まれ、1251年、天台宗の滝泉寺にて出家。
名を宥弁と称す。1275年、身延山に日蓮を訪ね、「真言亡国とはいかなる義なりや。」と詰問、ものの見事に論破されると云う。
弟子となることを許され、「日弁」の名を賜る。
1277年、小早川内記の外護により、鷲山寺を開山。
1308年、山城国へ赴き布教し、青柳山本門寺(現・宥清寺)を開山。
1310年、陸奥国へ布教の旅に出、陸奥国伊具郡(現・宮城県角田市)で折伏を終え鷲山寺への帰途、暴徒に襲撃され凶刃に倒れる。享年73歳。
遺体は弟子の手で鷲山寺を目指したが、常陸国赤浜(現・茨城県高萩市)で荼毘に付し、供の者たちは残灰で像を造り、像のみ鷲山寺に帰山した。
角田市に殉難碑。高萩市に墓所、赤浜願成寺52世日有代に願成寺壇信徒と寶塔寺、成願寺等の有縁者による墓域整備がされている。

「小早川内記」
小早川氏は日蓮と1264年,「小松原法難」の後、鎌倉への帰途、かつて茂原の領主であった小早川内記の屋敷に招かれ一夏九旬の期間を過ごされた。
その時の縁をかたちにせんものと、1277年、弟子の日弁に命じて 上総鷲巣の地に一寺を建立された。
日弁聖人は堂舎を創建して「長国山鷲山寺」と命名し、七堂伽藍を供え法華宗の大本山としての威容を誇ったという。

     日蓮上人は山中腹に立像ー日弁・小早川氏は正座合掌し日蓮に向っている二体の像
  

「藻原寺」
1312年、 藤原範綱は大檀那となり、妙光寺を建立。1511年、 地震により、祖師堂は倒壊する。その後、再建。1630年、身池対論に妙光寺から日東が臨む。1868年、 寺号を「藻原寺」と改称。

1932年、 藻原寺78世・日我の発願により、山門を再建。
 
  

文化財ー鋳銅鰐口(千葉県指定有形文化財)・藻原寺文書(茂原市指定有形文化財)・石造釈迦如来立像(茂原市指定有形文化財)
藻原寺本堂唐門向拝彫刻(茂原市指定有形文化財)・武志伊八郎信常彫刻など。

    

旧末寺は、全国に、(日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。)
市場山妙弘寺(茂原市茂原)塔頭・藻原山東光院(茂原市茂原)塔頭・寂光山本照寺(宮古市愛宕)・常寿山雲山寺(仙台市宮城野区小鶴)
常光山本敬寺(千葉市中央区本町)・増長山高伝寺(千葉市若葉区加曽利町)・本覚山上行寺(千葉市緑区茂呂町)・法龍山浄泉寺(千葉市緑区)等。

    

建治3年の1277年、日蓮大聖人の直弟中老である日弁上人により、この地の小早川内記の邸宅に建立。
日蓮大聖人が小松原の法難の後、鎌倉への帰途、笠森観音堂で一夜を過ごし、翌朝この地の城主小早川内記が訪れ、大聖人を自宅に迎え、大聖人が身延に入山した4年後、弟子の越後阿利日弁上人に命じ、鷲山寺建立を託された。
    

「戒壇塚」-多宝塔式、高さ25m。茂原市のシンボルとして親しまれている。


「大堂(祖師堂)」- 間口12間、奥行き14間4尺、176坪を有する本堂。 開山、日蓮大聖人生身の御影(ご尊像)をお祀りしていると云う。
「華経殿」-当山の守護神「華経房日徳尊儀」が安置。
「石像」 釈迦如来立像ー1691年造立。茂原市文化財。胴部で継ぎ合わせた丈六の丸彫立像。

                   鐘楼堂は、1688年建立
    

                「藻原寺の裏手・茂原公園」


「石造釈迦如来立像」ー市文化財
胴部で継ぎ合わせた丈六の丸彫立像で、合掌印を結び、衣文の彫法も浅く、整然としている。
慈愛に満ちた童顔で、現世を静かに見守る姿は素晴らしく、かなりの石工の手になるものであることがうかがわれる。
釈迦如来の印相は、通常説法印であるが、この像のように合掌印は珍しい。
これは石彫りの制約から彫り易さや、強度の点を考慮したものと思われる。
台座は蓮華座で、銘文によると元禄四年の1691年、に造立したとある。

          市内に現存する石仏中最大のものでかつ彫技も


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