syuの日記・気まま旅

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根津神社と夏目漱石猫の家

2017-11-01 | syu散歩

「根津神社」
「御祭神」須佐之男命・大山咋命・誉田別命 「祭礼」9月中旬の土日・下町まつり・11月新嘗祭が。


                     華神輿と大太鼓


根津神社は、「日本武尊」が、1900年近く前に千駄木に創祀したと伝えられている古社、文明年間の1469年-1486年、には太田道灌により社殿が。
1658年-1661年、にこの地が太田氏の屋敷地となったため東方に移り、さらに団子坂上に遷座。
現在の場所は、宝永の1705年、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が兄綱重の子・綱豊(のちの第6代将軍・家宣)を養嗣子に定めた際、綱豊の産土神とされていたため綱豊の元の屋敷地を献納されたもの。
社殿が、宝永3年に完成し、遷座。
権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされ、社殿7棟(本殿・幣殿・拝殿、唐門、西門、透塀×3、楼門、)が国の

               重要文化財に指定。    鳥居


社地は江戸時代もと甲府宰相徳川綱重の下屋敷で、ツツジの名庭であった。
没後五代将軍徳川綱吉は兄綱重の子綱豊を嗣子と定めた時その氏神たる当神社の御神恩に感謝しこの邸地に当時の名工をすぐって世に天下普請と称せられる壮大な造営を行い、今に残る華麗な社殿、神門などを奉建 宝永三年、駒込の旧鎮座地より一品公辨親王司祭の下に遷座祭を斎行 神苑には更につつじを増植し 以来この地は「つつじが岡」と称せられた。
昭和45年「文京つつじ会」を結んで花季には「つつじ祭」を催行 その充実と発展とに努め 今や樹数 数千 本 その種類 頗る多く 
往時の「つつじが岡」に勝る盛観を見るに至っている。

                   鳥居を潜り左手の丘一面にツツジが


「徳川家宣胞衣塚」-六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。
「胞衣」-胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。
われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。
例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられ、関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所も。
一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われ、愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。
この胞衣は誕生の敷地内に納められ、徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なもの。
「家宣」の産湯の井戸と伝えられるものが、庭に、 家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。

                産土神ー6代将軍・家宜(綱豊)はここで、誕生


「塞の大神碑」-もと通称駒込の追分(向丘1-1)にあったと云う。
ここは現在の東京大学農学部前で、旧中山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で「追分」という。
追分は、日本橋から一里(約四粁)で江戸時代一里塚のあった所、
明和3年、に焼け、その跡に庚申塔がおかれたが、これも文政7年の1824年、の火災で欠損した。
その跡地に、「大神碑」が、明治6年、建てられ、同43年、道路の拡幅のため、碑は根津神社に移されている。
塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、みちのかみとも「道祖神」ともいわれる。

                  社領500石が与えられた。社殿




    根津神社をはさんで 北側の不忍通りから日本医科大に上っていく坂が「根津裏門坂」。


「根津」は、文京区。
本郷台と上野台に挟まれた侵食谷に位置し区の東端。
江戸時代徳川6代将軍家宣の屋敷に、根津権現が創建され、これが「根津神社」。
その門前町として発展してきた。昔の遊郭は明治時代に江東区の洲崎に移転した。
西隣が、東京大学。

藍染川と云う川岸に柳が植えられ風情があったと云う。くねくねと曲がった道「へび道」は元は川でした。


「夏目漱石旧居(猫の家)」 1867-1916 小説家・英文学者・本名ー金之助・牛込生まれ。
英国留学から帰国(1903年)し、漱石が1903年3月~1906年12月まで住んだ通称「猫の家」、根津裏門坂上。
当時は漱石の学友で第二高等学校教授の斎藤阿具氏の持ち家で、阿具のヨーロッパ留学中という条件で借りている。
教師生活のかたわら「吾輩は猫である・倫敦塔・坊ちゃん・草枕」など次々を作品を発表した。
その「吾輩は猫である」の舞台に。
「家屋」は、木造平屋建瓦葺、建坪39坪で3畳の女中部屋の他6部屋あるが、当時の一般的な中流住宅。
部屋同士は襖で仕切られ、女中部屋の前にわずかではあるが中廊下がある。
漱石の書斎「我猫庵」は玄関をはいって左の八畳間で、いつも来訪者が絶えなかったと云う。
上框に通じる掃出し口があり、猫のためのくぐり戸のようにもみえ、表通りに面して板塀と門があり、庭も広く畑もあったと云う。
南隣には車宿、新道をはさんで北隣には二弦琴の女師匠の家があった。

      吾輩は猫である、名無しで、主人、我が牌に「猫の墓」と書いている。


熊本では「2016年と2017年」、漱石記念年としていろいろな催しが企画されていると云う。
漱石は、何回も住居を移転しているが熊本市内に、一番長く住んだと云う。



明治維新後、ヨーロッパ・アメリカ文化に入り込め、英語を学ぶが、漢詩・漢文に興味、正岡子規を知り、漢詩・漢文・俳句を学ぶ。



正岡子規の病状はひどく悪化し、手紙執筆のひと月前の10月付の日記「仰臥漫録」に、

急に精神が高ぶり、半ば狂乱状態に陥ったことが記されている。
漱石へ手紙に「新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止」とあるように、「仰臥漫録」10月には「痛み堪へがたく号泣また号泣困難を窮む」と書き、翌29日は「曇」と天候を記したのみで翌年3月まで「仰臥漫録」の執筆は中断している。

手紙の一部
僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー  (こんな状態にあった子規が、漱石からの手紙を思い出し、このように書いている)
イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。
近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ気ニナツテ愉快デタマラヌ。
(病身をおして日清戦争の従軍記者になったのが子規。好奇心旺盛な自分が西洋を見るどころか、「病牀六尺」の世界に閉じ込められ、心身ともに弱り切っている。漱石がうらやましくてたまらなかった)
実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ
古白曰来(古白は、子規の4歳年下のいとこで俳人の藤野古白。明治24年23歳でピストル自殺。その古白が「来い」と呼びかけている)
(仰臥漫録には、鬼気迫る筆致で自死へと揺れる心の動きを書きとめ、「古白曰来」と大書し、
自殺に使おうと考えた小刀と千枚通しの絵を描いている。絶えず痛みに苦しめられ、死の誘惑に負けそうに、誰にも言えない苦悩も漱石になら言うことができた。
倫敦ノ焼キ芋ノ味ハドンナカ聞キタイ 僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ。
最後の手紙ー漱石は12月18日付で子規あてに手紙を出しました。子規の手紙を受け取ってから書いたようですが、とてもそうは思えないほどそっけない。4月と同じようにロンドンでの様子を淡々と書いただけでした。
神経質な漱石には子規にかけてやるべき言葉を選べなかったのか。神経衰弱に悩んでいた漱石には子規の命の叫びはあまりにも重いものだったということだったのでしょうか。これが二人の最後のやりとりとなります。

慚愧の至に候ー1年後、漱石は子規の訃報を高浜虚子から受け取ります。
音信を途絶えさせたままだった漱石のショックはいかばかりだったか。虚子への返書には次のように書いている。
小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候。
これは双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致。
只々気の毒と申より外なく候。但しかかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候。
漱石は、返事をしていなく、しばらくして子規は亡くなってしまう。
「亡友に対して慚愧の至に候」と書いている。



漱石は、追悼句を送ります。

筒袖や秋の柩にしたがはず
手向くべき線香もなくて暮の秋
霧黄なる市に動くや影法師
きりぎりすの昔を忍び帰るべし
招かざる薄すすきに帰り来る人ぞ

筒袖(洋服)を着て洋行中の自分は葬儀にも連なることができない、手向ける線香もない…漱石の忸怩たる思いがうかがえます。
そして子規が亡くなってから3年後、明治38年、漱石は「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を発表し、作家デビューを。
翌年、単行本化された中編の「序」に今回取り上げた子規の手紙の全文を紹介し、追悼している。

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