syuの日記・気まま旅

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稲葉山城  岐阜城 「金華山頂」

2014-08-01 | 気まま旅

「岐阜城」
長良川畔の金華山・山頂に天守閣を持つ城、鎌倉初期に小規模な城が創建され、戦国時代に美濃国守護の家臣斉藤氏が居城としたが、「斉藤道三」
が取得して山頂に天守閣のある大規模な城郭を建設。
1567年「織田信長」は、道三の子孫を滅ぼし、1576年、安土の移るまで「岐阜城」を本拠とし、ここで、楽市・楽座の制など城下町の建設を行っている。
「関ヶ原の戦い」だは、岐阜城主「織田信秀ー信長の孫」が西軍に属し敗北したため、撤去され、建築材は、「加納城」に使われている。
「織田信長」の居館は、金華山山麓の千畳敷(岐阜公園)礎石など復元している。

                 駅前に建つ「織田信長公像」  信長・道三公ゆかりの城へ


「織田信長」 1534-82 天下布武、目前で倒れた。織田政権の樹立者。織田信秀の子。
今川義元を「桶狭間の戦い」で討ち、将軍足利義昭を奉じて「室町幕府」を再興する。

「室町幕府」
成立時期は、建武式目によって新政権の施政方針が示された建武3年の 1336年と、尊氏が北朝の光明天皇によって征夷大将軍に補任された1338年
のいずれかに置かれるが、今日では実質面を重視して前者が有力。

1573年、織田信長が15代将軍義昭を京都から追放し、一般的にはこの時幕府が滅亡したと見なされている(学校教科書で書かれていることが多い)。
義昭はその後も将軍を解官されてはおらず、信長の勢力圏外においては依然将軍としての権威を有していた。
信長以前には、1553年に三好長慶が13代将軍義輝を京都から逐ってこれに代わる将軍を擁することなく政権を担った例もあり、1573年の義昭追放をもって幕府滅亡とするのは、その後義昭が政権に返り咲かなかった結果から遡った評価であるともいう。

              地の名「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地に


「斉藤道三」 ~1556 油売りから美濃の梟雄、土岐氏の家臣長井新佐衛門尉の子(異説あり)。
重臣長井長弘殺害し、守護代斉藤氏の名跡を継いで国の実権をは掌握した。又織田氏と抗争し、美濃国守護「土岐盛頼」を討ち、弟の斉藤頼芸を守護職
に据えたが、後に追放し奪う、、、。

初めて娘婿の信長と対面した時のこと、信長は、猿使いのような奇装でやってきたが、会見場には、見事な正装で現れ、滞りなく挨拶を済ませた。
道三は、帰り道「残念ながらわしの息子ども、あの信長に臣従する事に成ろう」と嘆いたと云う。
息子「斉藤義竜」対立し実権を奪われ、義竜は討死。

        油売りの行商から国盗り成功した「斉藤道三公」


「信長居館(千畳敷)は、岐阜城の山麓に築かれた屋敷跡。
1567年 織田信長は、稲葉山城主・斎藤龍興を追放し、「井口」から「岐阜」に名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。
金華山の西麓にあたるこの辺りには人工的な2から3段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下という。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なものとして紹介した。

発掘調査では、両側に板状の巨石を立て並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲がりながら上がっていく通路をはじめとし、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段・水路などが発見。
岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、1600年 関ヶ原合戦の前哨戦で落城するまで続くが、これら遺構の多くは、その出土品などから信長時代にその基本的な造作が完成したと考えられ、発掘調査では、これらの遺構の下にさらに古い時代の遺構群が存在することが確認されている。
石垣・石積施設・階段状遺構などで、これを破壊または埋めて作られた通路など上層遺構が信長によるものとすれば、稲葉山城に係る斎藤氏時代の可能性が高い。
数枚の整地した土層が上下に重複していることが確認されているが、この中にはいくつかの焼土面が含まれており、施設の焼亡を挟んで複数の城主による造成が行われたことを示唆している。
中世から近世への過渡期の様相を探る上で極めて重要な遺跡。

               織田信長居館(千畳敷)は、岐阜城の山麓に築かれた屋敷跡。


「金華山ロープウェー」
岐阜公園と金華山の山頂駅を約3分で結ぶロープウェー。眼下には自然林に覆われた金華山と長良川の自然美、岐阜市の街並みが一望
山頂駅付近には、リス村や売店、展望レストランも併設され、毎年夏季は夜間も運転され、夜景を楽しむ多くの人に利用されている。
(有料)

                     金華山ロープウェーで山頂へ(329m)
    

この場所は,伝一ノ門跡で、現在は倒れた巨石や石垣が一部残っている。

               鎌倉時代1200年頃「二階堂行政」軍事目的で築城と伝わる。


「二の丸の跡地、閻魔堂」

金華山のえんま大王は、福えんまさんと呼ばれて人気。
651年前 「土岐頼康」4代目守護職として美濃にきたときに、「厄払い・悪病退散」を念じ、美濃が豊かでひとびとが安心して暮らせるように祈願して、えんま堂を安置したと云う。

「戦国時代の軍用井戸」
山城では貴重な井戸である。

土岐 頼康は,南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃・ 尾張・伊勢守護。
土岐氏の一族土岐頼清の長男で土岐頼貞の孫。頼雄、康貞、直氏、 頼忠の兄。
子に娘「二条良基室」、養子に康行。

              道三の父「斉藤妙椿」(歌人としても知られている)応仁の乱へ出陣
    

           1550年「道三」修復して入城
  

1540年頃、斉藤道三、稲葉山城修築して入城(諸説)ー義龍34歳で病死ー龍興 竹中半兵衛・織田信長に攻められ開城。
稲葉山城を岐阜城に改める。



「織田信忠」 1557-82 信長の嫡男、清洲城で誕生、信長と転戦、尾張国・美濃国譲渡、武田勝頼を追い詰め天目山で自害させた。
武田征伐先鋒大将で、天下の堅城「高遠城」で自ら城塀によじ登ったと云う。
明智光秀謀反の時、京都妙覚寺で自害している。信長の後継者であった。

            1567年「織田信長」尾張小牧から岐阜城入りする
    

「織田秀信」 1580-1605 信忠の嫡男・信長の孫、幼名 三法師。関ケ原の戦いで西軍に加担。池田輝政・福島正則軍に攻められ落城。
秀信は、家臣らに「労いの感状」を与えている。(主従の縁を切り士卒の命を助けようと思ってのことであると云う)
若将であったが信長の嫡孫であった。高野山へ落ちたと云う。

           1576年「織田信忠」父信長の後を継ぐ、岐阜繫栄
  

天守からの眺望は素晴らしい。
鵜飼で有名な長良川が岐阜市を貫通し、東には恵那山・木曽御嶽山が、北は乗鞍・日本アルプスの山脈が連なり、南に、濃尾の大平原と木曽川が
伊勢湾に、、、、。
岐阜城は夜景が楽しめると云う。

           1592年「織田秀信」安土城から移り徳川軍に攻められ開城する
    

現在の城は、鉄筋造り、三層4階構造、延べ461.77m2、1階武具の間・2階城主の間・3階信長公の間・最上階が「望楼の間」。

             江戸時代に入り、城郭なし


「山城」
高地は軍事的防御に有利、山に城郭を築く行為は場所と時代を問わず普遍的に行われ、
城は、防御に有利な地形に築くことが望ましく、険しい山はその条件を満たすが、住むには不便、守るべき対象である人の居住地から離れている。
したがって、山城は防御専用として造られる。城主は、平時には麓に住民と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方が一般。

3種類
古代山城ー 飛鳥時代から奈良時代の近畿から九州北部にかけて築かれた。
中世山城ー 中世・戦国末期まで全国的に築かれた(戦国末期のものを戦国山城ということもある)。
近世山城ー 安土桃山時代後期から江戸初期までに築かれた。

中世の山城は、山上に城郭、麓に下館(居館)を築いたといわれる。山上の城は主に防御施設であって、日常生活は麓の館で行っていたようである。山上の城には、掘立柱建築や簡易な櫓を建てただけで、長期間居住するための建物は建てられていなかったと云う。

                平成23年国の史跡に指定金華山一帯公園
    

「岐阜公園」岐阜市管理
岐阜城を頂に構える金華山、鵜飼で知られる長良川に囲まれた公園。
四季折々の風景が楽しめる「信長の庭」や中国をイメージした「友好庭園」などがある。
「信長公の鼓動が聞こえる歴史公園」として整備、平成21年に武家屋敷を模した正門総合案内所が完成している。

                天守閣からは、長良川・伊吹山、、で期間限定で夜景も楽しめる
                                  

「山内一豊」 1546-1605 内助の功で一国の主に。初代土佐藩主。信長・秀吉に仕えて功名を建てる。
近江国長浜・若狭国・遠州掛川と加増、関ケ原の戦いで家康から土佐国を。朝倉戦で顔面に矢を受けたが奮戦し首級を挙げている。
関ケ原戦で、一豊は、家康の許に馳せ参じ居城の提供を申し出している。
一豊・千代婚礼の地の碑が

「板垣退助像」
岐阜事件、1882年(明治15年)4月6日に岐阜で、自由党党首板垣退助が暴漢(相原尚褧)に襲われた事件。
板垣退助遭難事件、岐阜遭難事件ともいう。「板垣死すとも自由は死せず」の由来となった事件として知られる。

公園内には、板垣退助像・信長居館跡・芭蕉句碑・白秋歌碑・川端康成文学碑・歴史館・鵜飼観覧船乗り場・古い街並み等が
    

「常在寺」 斎藤家の菩提寺。
斎藤道三とその父・長井新左衛門尉が二代にわたり美濃国を制する拠点とした寺。
長井新左衛門尉は、京都から美濃へやって来た商人出身と言われている。
 
                             本殿


「鷲林山常在寺」 日蓮宗、京都妙覚寺の末寺。
室町時代の 1450年土岐家守護代として権力を持ち、当時事実上美濃を支配していた斎藤妙椿が建立。
後に道三が菩提寺とし、道三以後三代の菩提寺となっている。

毎年4月の第一土曜日には道三まつりにあわせて「斎藤道三公追悼式」が営まれ、まつりの2日間は無料開放されると云う。

絹本著色斎藤道三像(国指定重要文化財)・絹本著色斎藤義龍像(国指定重要文化財)。
斎藤道三公供養碑、斎藤家五輪塔。

    

「岐阜市内・八幡神社」

祭神ー応神天皇
仲哀天皇第四子。母は神功皇后。諱は誉田別尊。仲姫を皇后とし、仁徳天皇等が子どもである。応神天皇は、仲哀天皇九年二月に筑紫で生まれたが、
仲哀天皇の死後、神功皇后が事実上政治を行い、応神天皇は皇太子となり、神功皇后の死後即位した。応神天皇の時代には、日本国内で皇権が拡大。

「伊奈波通り」市伊奈波神社参道の車道,枝垂れ桜の街路樹が、
                            八幡神社
    

「伊奈波善光寺」。美濃四国第1番札所。
岐阜市にある真言宗醍醐派の寺院。山号は愛護山。本尊は善光寺如来。善光寺安乗院ともいう。

                           伊奈波通りへ
    

善光寺の本尊は、甲州征伐後、織田信長の手で 1582年に、岐阜城下の「伊奈波神社」の近くに移されが、同年、本能寺の変により織田信長が亡くなると、織田信雄により尾張国甚目寺(現・愛知県あま市)へ移された。
善光寺如来は後に徳川家康の手に渡り遠江国の鴨長寺へ、さらに 1597年、豊臣秀吉の手に渡り、方広寺の本尊にされる。
1598年、信濃国に戻る。

信長の孫・織田秀信が、かつて善光寺如来が祀られていた地に伊奈波善光寺堂を建立し、善光寺如来の分身を祀ったのが始まりという。
建立時期は不明だが、織田秀信が岐阜城主であった 1592年から1600年頃と推測される。
江戸時代初期、善光寺安乗院に改称する。

善光寺如来の分身は、安乗院と満願寺(伊奈波神社の境内の寺院)で交代で守られていたが、1868年に廃仏毀釈、神仏分離のため満願寺は廃寺となる。
本尊は安乗院単独で所有。

                              善光寺
  

次回は、市内伊奈波神社から。

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1 コメント

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再び・・・ (matsubara)
2014-08-01 14:05:41
>道三の父「斉藤妙椿」(歌人としても知られている)応仁の乱へ出陣

と言う説明がありますが、道三と妙椿は父子の
関係はありません。二人は全く別の斉藤氏です。
これは岐阜の人も間違えている人が多いです。

妙椿は代々岐阜の人ですが、
道三は油を売りに京都から岐阜に来ました。

前回は直して頂きありがとうございます。
次もよろしくお願いします。
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