syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

伯備線で旧道・城・古墳をみる

2014-05-20 | 気まま旅

「岡山」で吉備路、吉備津神社・高松城水攻築堤(首塚)・最上神社でUターンしたが、その先が「総社市」。
岡山市の西郊外と倉敷市から北郊外が総社丘陵田園地帯で古代の吉備路「備中国分寺」・桃太郎伝説古代朝鮮式山城「鬼ノ城」・JR吉備線が
総社駅で伯備線で、南に向かうと倉敷駅となる。

伯備線の総社駅と倉敷駅の間に清音駅を下車する。

福山城跡を見たかったがキツイ山登り、諦め下界から


山城の「幸山城」は、県総社市。城は山頂に福山城のある福山の北にせり出した形の尾根の頂部にあると云う。
眼下に山陽道を見下ろす、要衝と言える立地で、下界から。

幸山城は、1308年~1311年、前後に、庄資房によって築城されたらしい。
資房は、「元弘の変」では、北条仲時に従うも、安藤元理らと共に、1334年、近江の番屋で討ち死にしたとある(近江番場宿蓮華寺過去帳)。
庄資氏が継いで在城したが、庄資政以降、1394-1428年には、石川氏へと城主が替わった。
石川氏は備中守護・細川氏の被官となり、備中南部で有力な勢力を形成している。

戦国時代には備中の覇権は毛利氏と結んだ三村氏のものとなり、石川氏も三村氏の縁戚となってその一翼を担うようになる。
1567年、の「明禅寺合戦(三村氏と備前宇喜多氏との合戦)」では、幸山城の石川久智は5000の兵を率いて三村氏一万余軍に参加するも、備中勢は総崩れとなり久智は戦傷が元で死去。
1571年、尼子氏が備中に南下し幸山城にも攻め寄せた。このとき城主石川久智の子・久式は毛利勢として九州へ出陣しており、尼子氏に屈する。
その後、毛利氏の援軍を得て幸山城を奪還するが、やがて毛利氏と三村氏が不仲となる「備中兵乱」。
毛利氏が三村氏の松山城を囲むと、久式は義兄・三村元親を救援をするため、松山城へ援軍を送る。
しかし、毛利氏は松山城を落とし元親は切腹、久式も自刃した。
その後、幸山城には清水宗治が入り、天正3年から数年在城の後、備中高松城に居を移している。
高松城は、秀吉水攻めの城。

幸山城跡は、何もないとのこと


「福山城」は、総社市の城跡へ、下界から。
この福山は、「福山合戦」の地として「太平記」に記されている有名な山である。
後年室町幕府を開いた足利尊氏は、京都の戦いで敗れた後、一旦九州に逃れた。
その後尊氏は、勢力を盛り返しながら再び都を目指し、軍を瀬戸内海と山陽道二手に分けて攻めのぼる。
後醍醐天皇方の新田義貞軍先鋒隊の「大井田氏経」は福山を占拠し、足利軍の東上を阻むため、この城へ立てこもった。
足利尊氏の弟の「足利直義」率いる20万の軍と、福山を守る1500の軍との間に激しい攻防戦が行われ、その戦いは三日三晩続いたといわれる。
大井田軍はよく奮戦したが、福山城は火をかけられて落城した。
大井田氏経は、わずかに残った将兵と共に足利軍の布陣を無事突破し、7日後、「楠木正成が戦死した湊川の合戦」が行われている。

「湊川の戦い」は、南北朝時代の1336年、に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。

足利直義 1306-52 兄弟喧嘩で身を滅ぼした知将  兄足利尊氏と行動共に室町幕府に尽くした。が幕府内で尊氏派と直義派に二分し兄弟が相争う
「観音の擾乱」が勃発した。兄尊氏に毒殺された。 直義は、尊氏に「将軍が田楽にうつつを抜かすとは何事ぞ、、。」尊氏は、「月に3回に」。

栃木の足利軍が岡山まで来ていたとは、
  

「JR伯備線」
瀬戸内側の倉敷駅を出ると、右に大きくカーブをして北上する。
「高梁川」が左手に見え、新見駅まで高梁川の渓谷を遡る。総社駅を出ると谷間に入り、豪渓駅 - 新見駅間は国道180号とともに
高梁川の渓谷を眺める車窓が続く。このうち、井倉駅 - 石蟹駅間は高梁川が最も蛇行する区間で伯備線もその流れに沿って運転されていたが、
複線化に伴い経路が変更した。旧線跡は自転車道に転用。

新郷駅 - 上石見駅間にある谷田峠トンネルで岡山県から鳥取県に入り、
日野川に沿って日本海側に至る。伯耆溝口駅を過ぎたあたりから右手には大山を見ることができ、米子平野の中を進んでいくと、米子自動車道が近づき、左に大きくカーブして西向きに変えると伯備線の終点である伯耆大山駅に到着する。

鳥取の米子など
    

「高梁川」は、倉敷・総社市を流れる一級河川、高梁川水系の本流である。
吉井川、旭川と並ぶ岡山三大河川の一つ。岡山県下で最大の流域面積を誇り、その支流域は広島県にもおよび、かつては、河島川(川嶋川)・河邊川(川辺川)・総社川・松山川・板倉川・宮瀬川など時代や地域によって様々な名称で呼ばれた川。

河口部は、倉敷市水島と玉島の間を流れ水島灘に至るが、下流域は時代によって大きく河道や河口部が変わっていると云う。古代から近代にかけて高瀬舟による水運に利用され、備中国域の経済の大動脈として重要な河川であった。
新幹線の「新倉敷駅」は、高梁川を渡った先になる。川を渡らずに国道270号線吉備路に、

古墳群を見ていると古代人です。
    

岡山県蔵元
備前(岡山・瀬戸・西大寺)、宮下酒造他15社       備中(児島・倉敷・玉島・笠岡・高梁)、三宅酒造他32社
美作(久世・津山・美作)辻本店他8社。          県内55社と多い。

訪問した三宅酒造は、「備中国分寺」尼寺に近い。工場見学、試飲も出来る。

備中国分寺の中にある酒屋
  

吉備路。その裏を固めるように存在するのが「鬼ノ城」。
鬼ノ城は、温羅と呼ばれる朝鮮からの渡来の一族の居城であったと 伝えられている。
吉備津彦神社のご祭神である吉備津彦命が、大和朝廷の将軍として 温羅一族と闘った顛末が、後の桃太郎の鬼が島伝説になったと言われている。
闘いは壮絶であったらしく、矢喰宮、鯉喰神社などにその痕跡があり、 総社町の北上に温羅の山城鬼ノ城はある。
鬼の城らしく、まず出迎えてくれるのは鬼の釜。そこから、周囲数キロの鬼ノ城へと 散策コース。
巨石群の配置や 裏手にある鬼の岩屋との関連で考えると、鬼ノ城という山そのものに 何か大きな意味を持っていると云う。
鬼ノ城頂上から眺められる吉備路と吉備平野。瀬戸内の山々と四国丸亀の飯野山、剣山が連なるのも天気次第で見ることが出来と云う。
 
この写真は、国分寺に。

伝説桃太郎が「鬼ノ城」へ鬼退治に。
  

「備中国分寺 五重塔」
江戸時代後期の、1821年、20数年をかけて建立されたもので、奈良時代の備中国分寺の塔とは別のところに建っている。
総高約34mで、3層までは総欅造りですが、四・五層は松材が主体となっている。
心柱はは大面取りをした松材が用いられており、床下の礎石から塔の中心を貫いて相輪に達し、初層の四面、頭貫の上には、十二支の禽獣彫刻がはめこまれており、また尾楼の上には龍の彫刻なども施されている。
内陣には、仏壇を設けて、像・馬・鳥などの動物に乗った金剛界の五智如来像(大日、阿弥陀、宝生、阿問、不空成就各如来像)が安置されている。

(文部省 岡山県教育委員会)

田園風景になじむ、吉備路の五重塔 (重文)               京都東寺の五重塔と比べていた


聖武天皇によって、諸国に建立された「国分寺」の一つ。
現存は、江戸時代に再建されたもので、吉備路の代表的景観である。

「備中国分尼寺跡は、礎石が残っているのみ。寺領は、東西約108m・南北216mと推定されている。

            五重塔には、五智如来像安置している。     東京国分寺より広い
    

「市指定_宿寺山古墳 - 総社市」
市指定 史跡. 時代, 古墳時代. 旧山陽道の北側の 平地に築かれた前方後円墳で、作山古墳に続く5世紀後半の吉備の大首長の墓と云う。

奈良の「山辺の道」を思い出した
  

「作山古墳」
全長286m,後円部の径174m,高さ24m,前方部の幅174mという県下では造山古墳に次ぐ規模を誇る前方後円墳。
丘陵地を造成し3段に築かれた墳体の中には,円筒埴輪が立て並べられていた。5世紀の典型的な前方後円墳で,全国的には第9位の大きさ。

中型の古墳群が
  

吉備は古代、畿内や出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。
優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされ、古事記中巻、孝霊天皇の段などに兵庫県の加古川以西が吉備であると捉えられる説話があり、加古川を国境としていた時期があると考えられている。
吉備勢力は出雲征服を試みるも完遂寸前に出雲東部の意宇王の前に失敗。
以後、ヤマト政権と同盟して列島の統一・治世に貢献し、古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重視された。
河内王朝時代には、ヤマト政権中央部に対抗するほどの勢力を誇ったが、これがヤマト政権の警戒を呼んだのか、後はヤマト政権の謀略などで勢力が削減されていったと云う。

角力取山古墳の頂上に歴史を積んだ見事な大木が一本


「角力取山古墳」
古墳時代中期の頃(5世紀代)美しい墳形をした方墳で、相撲の土俵を思わせる形状であるところから角力取山古墳と呼ばれている。
東西36m,南北38m,高さが4~5mの大きさ。規模から見て地域の豪族のものとみられる。 所在地:総社市岡)

5~6人の老人がベンチで雑談、道を尋ねた。
    

総社市岡谷の「角力取山古墳 と ぎりぎり山古墳」
角力取山古墳・方墳 方墳・(前)東西 37m・ギリギリ山古墳・南北 30m 高・7mで、 5世紀の古墳。

石棺
  

次回は、吉備考古館から倉敷駅へ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿