syuの日記・気まま旅

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岐阜駅から加納天満宮 金神社 

2014-07-30 | 気まま旅

「美濃を制する者は、天下を制する」
冬は温暖、夏は高温太平洋型の特色、木曽川・長良川・揖斐川木曾三川が流れ広い「濃尾平野」である。主要部は、西濃・中濃に三川の下流部が集中している。古来から多くの水害を受け、堤防で囲む輪中がつくれてきた。
飛騨山脈と大河の「美濃」「飛山濃水」の表現される。
歴史で見ると、壬申の乱・不破関・東山道・戦国大名・関が原の戦いなど軍事的拠点、江戸時代も中山道ー東海道を結んで、東西の要衝であった。
遺跡・古墳も多く、先土器時代の多治見市西坂遺跡・縄文時代の美山谷洞屈遺跡・弥生時代の大垣市南一色遺跡・古墳時代の岐阜市龍門寺古墳
672年「壬申の乱で大海人皇子方の根拠地」・740年頃から飛騨の匠が東大寺造営に従事・887年美濃国分寺が炎上している。
1542年・天文時代に斉藤道三が美濃を支配・1567年織田信長が道三を破り支配した。

斉藤道三金華山に城郭を築き、織田信長が城の主になり、地名「井口」から「岐阜」と改めている。
岐阜城下町は、楽市・楽座等で繁栄し、ポルトガル宣教師「ルイス・フロイスは、パピオンの混雑に等しい」と云ったと云う。

「岐阜駅ー東京から396.3km」
中部運輸局が認定した「中部の駅百選」の第二回選定駅。
当駅の所属線である東海道本線と、当駅を起点とする高山本線が乗り入れ、分岐駅となっている。
現在、日中の東海道本線の普通(各駅停車)は名古屋方面から当駅で折り返し、特別快速・新快速・快速・区間快速が当駅以西の各駅に停車する。


「三尺坊御旧跡・曹洞宗 久運寺」
(加納天神町)本創建ー1469年、加納清水に小庵を建立,1573年~1592年の仮名草子「因果物語」に不思議な寺として記載されている。
1661年堂宇建立・1665年 加納城主松平光重より「お茶壺道中の本陣」を命じられるが拒否し、住職の玉葉は追放される。
が、境内に加納藩士の墓がある。「1580年頃の仮名草紙「因果物語」には不思議な鶏の寺として紹介されている。」

「本お茶壺道中」とは、
江戸時代、幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運ぶ行事を茶壺道中、あるいは宇治茶壺道中といつた。
1613年に、宇治茶の上納のために幕府が宇治採茶師を派遣、1633年には、茶壺道中が制度化され、毎年お茶の時期4月~5月にお茶壺を持って江戸から宇治に向かう10数人の道中になると云う。
茶詰めを終えると茶壺は封印され、羽二重で包み、さらにその上を綿入れの帛紗で包み、長棒駕籠の中に箱ができていて、それをその中に納めるというもので、その取り扱いには細心の注意が払われる。
茶壺道中は五摂家や宮門跡に準じる権威の高いもので、茶壺が通行する際には、大名らも駕籠を降りなければならず、街道沿いの村々には街道の掃除が命じられ、街道沿いの田畑の耕作が禁じられたと云う。

    

「加納天満宮」
1445年、斎藤利永が沓井城を築城。そのさい、城の守護神として天満宮を勧請。また、別説では、1350年ころには創建されたという。
1538年、沓井城が廃城となる。守護神であった天満宮は地元の人々により祀られ続け、1601年、「奥平信昌」加納城の築城したさい、現在地に移転。
1868年、明治元年 天満神社に改称、県社に。
主祭神ー菅原道真公

「松平 光重」は、江戸時代前期の大名。
播磨明石藩第2代藩主、美濃加納藩初代藩主。戸田氏の嫡流にあたる戸田宗家18代当主。戸田松平家3代。松平忠光の長男。

1634年、明石藩主であった叔父の庸直が嗣子なくして死去し、その封地を収公するところではあったが、父祖の勲功殊の他目覚しく、父祖康長は将軍家光幼少の折より仕えて功労多かった。
庸直の甥にあたる光重をもって戸田宗家の家督を継がせることを許され、遺領を与えられた。
1639年、明石より転じて美濃国加納城に入り、加恩1万石を合わせて7万石。1656年、大坂城代となり、1658年まで務めた。
1660年、再び大坂城代を勤め、1661年に罷め、1668年没した。享年47。

    
                     加納天満宮 本殿


加納地区には9台の山車があったと云う。1台を除き太平洋戦争の戦災で焼失。唯一残った山車「鞍馬車」は加納天満宮に保管、
岐阜市の有形重要民俗文化財に指定されている。

境内には、岐阜和傘を始めた松平光重をたたえる、「傘祖彰徳碑」等がある。
    

「白龍山・雲端寺」真宗寺 天満宮に隣接
「天満橋」
清水川に架かる天満橋は、JR岐阜駅南から新荒田川に流れる市内でも有数な清流。
その清流に間近まで迫ることのできる、親水的な施設として木桟橋・自然石を使用した景石を配し、護岸にも自然石を使い、温かみのある都会的な河川広場とし、桜の並木が、付近には江戸と京を結ぶ中山道が通り、清水川に沿って歴史と緑をたどる散策道も一体となって整備。
街の喧噪を忘れ、歴史・文化に思いを馳せる憩いの道が続いている。

駅表玄関口は、北口になる。
    

南口から北口へ。駅前に織田信長公の像・繊維問屋街・文化センター・右に鶯谷トンネル金華山・左に神田郵便局、市役所前・256号線本町ー下大桑
ー長良川、金華橋と続く。
金華山329m頂上に「岐阜城天守閣」・長良川は5月~10月「鵜飼」が、国道21・22・156・248・256が交差する市。

                                         岐阜市役所
    

開運厄除の星祭御祈祷 2月3日。厄難消除の内壇護摩祈祷・豆まき式。大きい赤鬼が山門に

  

JR岐阜駅(北口)を出ると、 駅ビル・北口前・東方向は、現在再開発中。北口前の商店街は、繊維街が形成されている。
JRと名鉄岐阜駅を結ぶ通り・北方向は、オフィスビルや商業施設が並ぶ 。
名鉄岐阜駅前交差点より南方向が、エクト、名鉄岐阜駅と連結されている 。

金神社を過ぎると、フローレンス柳ヶ瀬商店街 、 劇場通り商店街、 高島屋岐阜店を中心として栄える商店街になる。

    

「金公園」
昭和12年、「金公園」開設、昭和28年に、岐阜市文化センター開設(1985年中部建築賞受賞)市政100周年事業で噴水を、平成4年、長良川の水位表示塔設置された。



「金神社」
古来より産業繁栄、財宝・金運招福、商売繁盛の御神徳神として、信仰を集めており、鎮座の年代は遠く昔、135年に、 物部臣賀夫城命が国府をこの地に定め篤く「金大神」を崇敬されたと伝えられる。
神社の主祭神渟熨斗姫命は、景行天皇の第六皇女で伊奈波神社の主祭神五十瓊敷入彦命の 妃。
伊奈波神社に伝わる縁起によれば、
五十瓊敷入彦命は、朝廷の詔を受け奥州を平定したが、その成功を妬んだ陸奥守豊益は一足先、都に戻り謀反の心ありと報告したため、 朝敵とされこの地に至り討滅された。夫の死を聞いた渟熨斗姫命は深い悲しみの中、 都を発ち御跡を慕ってこの地を訪れ、夫の御霊を慰めつつ生涯を終えられた。
その間命は、 地域住民を母の如く労り、私財を使い町を開拓され産業・農業の発展に寄与され、後に、 岐阜の街の基盤となった。
慈悲深い命の功績を慕い人々が集まり財をもたらす神として 信仰されるようになり、この地に金大神と称され祀られたと云う。

    
                              拝殿


次回は、岐阜城へ。

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2 コメント

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恐縮ですが・・・ (matsubara)
2014-07-31 08:18:33
岐阜を詳しく紹介して頂きありがとうございます。
少し訂正してほしいことがあります。

4行目の「飛山農水」は、
「飛山濃水」です。

「新岐阜百貨店」は10年くらい前に撤退し、
改築され、今は、「エクト」となり、
その中のスーパーは、「ペアマルシェ」です。

「市民センター」は1984年に改築し、
「岐阜市文化センター」と
名前も変わり、この建物は、
1985年に中部建築賞」を受賞しました。
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matsubaraさま (syu)
2014-08-01 08:27:06
大変失礼いたしました。
地元の者ではないので知らなかったとはいえ
すみません。訂正いたしました。
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