syuの日記・気まま旅

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岐阜善光寺・伊奈波神社

2014-08-03 | 気まま旅

「金鳳山・正法寺」   京都万福寺の末寺
大仏、江戸時代の寛政の頃、金鳳山正法寺の第11代惟中和尚は、相次ぐ大地震や大飢饉に心を痛め、これらの災害で亡くなった人々の菩提のために、
大釈迦如来像の建立をはかる。
1791年頃から、大仏に使用する経本を集めだすが、思うように集められず、各地を托鉢し、1800年には堂が完成。
その時には大仏の頭部のみが完成していた。1815年、惟中は志の半ばで亡くなる。
中断したが、第12代肯宗和尚はその後を継ぎ、引き継いで13年後の1832年、遂に大釈迦如来像は完成。
建立に38年かかったことになる。胎内仏として、薬師如来像が安置、薬師如来像は、室町時代、美濃国厚見郡革手(現在の岐阜市正法寺町)の革手城の城下にあった、土岐氏氏寺の霊正山正法寺(現在は廃寺)の本尊である。平安時代の円仁(慈覚大師)作との伝承がある。
(開眼供養の際には、織田信長居住以来の盛儀だったと伝えられている)

像高13.63m、顔の長さ3.63m、目の長さ0.66m、耳の長さ2.12m、口幅0.70m、鼻の高さ0.36m。
(像高13.63mは、古仏で、東大寺(毘盧遮那仏)の14.86mに次ぐ像高。鎌倉高徳院(阿弥陀如来)の鎌倉大仏は11.387m)

岐阜大仏は、市の黄檗宗金鳳山正法寺にある仏像「釈迦如来像」県指定重要文化財
                     
                          金鳳山・正法寺は、京都万福寺の末寺
    

「伊奈波神社」
美濃国三宮で、旧社格は国幣小社。式内社「美濃国厚見郡 物部神社」の論社。

                              伊奈波神社
    

祭神ー垂仁天皇の第一皇子で、この地の開拓神である五十瓊敷入彦命を主祭神。
妃の淳熨斗媛命・母の日葉酢媛命・外祖父の彦多都彦命・臣下の物部十千根命を配祀する。伊奈波大神と総称する。

社伝ー五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したが、五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれたという。
                                楼門


1539年、斎藤道三が稲葉山に稲葉山城を築城するにあたり、現在地に遷座。
その地にあった物部十千根命を祀る物部神社を合祀し、稲葉山城の鎮守とした。
以降も、岐阜の総産土神として篤い崇敬を受けた。明治6年に県社に列格し、昭和14年に国幣小社に昇格。

「延喜式神名帳」
美濃国厚見郡の神社として「伊奈波神社」の社名は記されていない、小社として「物部神社」の社名がある。
「美濃国神名帳」には「正一位 伊奈波大神」・「従五位下 物部明神」と記載。

         境内                             拝殿
  

「市寸島比売命 別名ー狭依毘売命・瀛津嶋姫命・市杵島姫命・市岐嶋毘賣命・中津島姫命、、、」で、筑前地方の海人豪族である
宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱で、全国に祀られている厳島神社、宗像神社、松尾神社の祭神。海の神であるため
神社境内の池の中に祀られることが多い。

    

「林稲荷神社」  主祭神ー 宇迦御魂神・摂末社祭神ー 稲荷神社
市大仏町にある。創祀不詳。
元稲荷神社と称して稲葉郡那加町桐野字山屋敷に鎮座、
維持上の都合に依り崇敬者多き現在の地に移転し、且社名を林稲荷神社と改称したとある。
大正11年、許可、移転している。
                          林稲荷神社
  

「妙照寺」ー梶川町、
創建は、1534年で、本堂は、1662年に建てられた。
1600年、当時の岐阜城主の「織田秀信」から、「竹中半兵衛」(豊臣秀吉の家臣)の屋敷跡を寄進され、現在の位置に移されたとある。
この寺の庫裡は岐阜県内に現存している神社・仏閣の中で最古のもので、本堂も庫裡も(岐阜市指定重要文化財)

                          妙照寺
    

妙照寺は、日蓮宗寺院。身延山久遠寺を総本山、1534年に、厚見郡今泉村に開創。
1600年、当時の岐阜城主 織田秀信公より当地の寄進を賜り、1662年、本堂建立に伴い移転し現在に至る。
岐阜城下 富茂登  松尾芭蕉、竹中半兵衛 臼井岩入 矢島周一 のゆかりの寺。
(松尾芭蕉が貞享五年(1688)六月来訪し約一ヶ月滞在、実際使用された 庫裏奥の十二畳座敷「芭蕉の間」現存)

           本堂
    

「端華山・本誓寺」 総本山知恩院直轄寺院、  古文書類や信長の鐘も
開山は、1446年頃、円誉上人によって現在の岐阜県羽島郡岐南町に開かれた。
その後、1528〜32年に現在の地に移転、釈誉上人によって、1581年に本誓寺となる。
釈誉上人の母親は、徳川家康の、加納城主奥平信昌公の乳母、その母親や信昌の手厚い保護を受け、本誓寺の繁栄ぶりは目を見張るものだったという。

寺は総本山知恩院の直轄寺院として美濃国を代表する寺院、知恩院や寺社奉行(幕府の職名)から出される伝達事項は、初めに一国一地方の知恩院直轄の寺に伝えられ、その後、その国やその地方の各寺院に伝えられる、という組織があった。
その直轄寺院を本誓寺が担っていたと云う。
活動を裏付ける古文書類や資料がおよそ600点あまり現存、福島正則安堵(所有・領有権などを確認、認証)状や本田正信書状などがあり、
関が原の合戦当時、交通の要所にあたる寺院としても注目されていた。
寺には、織田信長ゆかりの梵鐘もある。信長の命によって、尾張の甚目寺にあった鐘を岐阜城に納めさせ、その後の落城の折、本誓寺が引き取ったという“信長公報時の鐘”が玄関脇においてある。すでに割れており、音色を聞くことはできないが、当時を偲ぶことはでると云う。
幼稚園を兼ねている。

                本誓寺                 岐阜市役所前長良橋通り
    

                    本誓寺 本尊 阿弥陀如来
    

                閉ざされた入口の日蓮宗・正興寺。
    

浄土真宗本願寺派、木造町「蓮生寺」。
1882年、板垣退助、演説会で遭難・1891年濃尾大地震・1896年美濃地方大洪水・1945年昭和20年岐阜・大垣空襲・1959年伊勢湾台風で大被害
1983年、県人口200万を超える。電機・自動車・工作機械などが増加し発展している。

                           蓮生寺
  

「美濃を制すは、天下を制す」天下取りの夢が駆け巡る戦国時代の歴史の町でした。

次回は、大垣方面へ。

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