syuの日記・気まま旅

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基地の町福生・牛浜ー多摩川散歩(25)

2016-02-22 | 気まま旅
「横田基地」
は、旧日本陸軍によって建設された航空審査部と航空整備学校などが所在した陸軍多摩飛行場。
1940年、「立川基地」の陸軍航空技術研究所から独立した飛行実験部が移転ー1942年、全長1,200メートルの滑走路の運用は、
飛行場は、当初「多摩飛行場」と名づけられ、職員や地元住民からは「福生飛行場」とも呼ばれていた。
多摩川に沿って関東平野の西の端に位置している飛行場周辺地域は、畑、林、荒地、そして幾つかの小さな村が点在しているだけの地域。
飛行場の中央には、「誠明学園」と呼ばれる「少年教護院」。南部分には、戦後米軍に接収されることになる陸軍航空立川支廠の熊川出張所という燃料倉庫があった。
多摩飛行場は、東京の中心に比較的近い場所にあるにも関わらず、1940年代の初期にはまだ遠隔の地、公にしにくい任務に適した場所で、飛行場に最も近い福生町中心部は1.6キロほど正門から離れ、産業は実質的に存在しておらず、周辺の町の道路は未舗装のままと云う。

多摩飛行場が最高機密の任務を担ったことと戦時中の環境の証として、近くを南北に走る八高線の乗客は飛行場を通り過ぎる時に、窓のブラインドを下ろすように指示されていたと云う。
昭和天皇は、昭和19年、その重要性を象徴するかのように同飛行場へ行幸されている。
「甲府岩」として知られる大きな栗色の石は、天皇の訪問の記念として多摩飛行場に置かれ、現在も飛行場内の庭園で見ることがでる。
当時の米軍が所有する日本地図の上にも多摩飛行場は載っていないと云う。
1944年後半に始まった航空機による日本本土偵察によって飛行場と1,200メートルの滑走路の存在を初めて知った。
その発見の後、アメリカ軍はその飛行場を「横田」と呼ぶようになる。

B-29による東京への空襲は1944年から始まりましたが、この飛行場への空襲の記録は現在まで見つかっていない。
それが意図的か否かは別にせよ、多摩飛行場の施設はほぼ無傷な状態に保たれ、1945年9月上旬に米陸軍が占領した時には飛行場の全ての戦時施設を直ちに使うことができた。
米陸軍に接収された多くの建物には飛行場地区にある格納庫も含まれ、それらの幾つかは米空軍によって今なお使われている。(早い返還を)

 JR青梅線福生駅                  玉川上水と「しんばし」                    
    

江戸期・地誌「新編武蔵風土記稿・福生村」
「高札場」小名 宿にあり。と記されています。「宿」とは名主家の屋敷を中心とした村内の一地域で、紺屋・味噌屋・足袋屋・さなぎ屋・下駄屋・屋根屋・鍛冶屋・車大工・酒造等の家々を含めた村一番の集落。
「福生の渡し」(多摩川の渡船場の一つ)を越えて、「上・下江戸道」「八王子道」「青梅」への道につながり、「下江戸道」の玉川上水に架けられたのがこの「宿橋」(平成5年、玉川上水に架かる橋梁であることからも、美観を十分考慮して、旧態を尊重し修復される)
橋長・12.30mー幅員・6.80m。

「新橋・しんばし」五日市のあきる野、方面から福生に通じる都道95号線。昭和27年、福生町・多西村が共同提出した
福生駅前より玉川上水を渡り、新設多摩川架橋ー永田橋、に至る延長550mなる。
昭和32年、着工した都道第95号(五日市から所沢線)改修工事は多摩川に架ける永田橋(長さ241.5m、幅6m)玉川上水に架ける

「新橋」の二橋新設を主な工事として、その間を総延長316.4mの道路で結ぶ。昭和36年に完成。

                   橋長・13.2mー幅員・16.0m
    

「古民家」工事中でした。
この古民家は明治35年建築と書かれた棟札が確認、古民家の面する「宿橋通り」は、遅くとも明治期より戦後まで福生村の中心地地域の目抜き通り。
市としてもこの場所に位置する明治期の勇壮なこの古民家には文化財的価値があるものと考え、福生市内の古民家の調査経験をもつ
横浜国立大学の大野准教授に調査を依頼ー明治35年、建築の母屋をはじめ、明治37年及び44年建築の土蔵2棟など建造物の保存状態の良好性や、全体として明治末頃の豪壮な屋敷景観が現在も良好に維持していると云う。

つるべ井戸                         古民家
    

「武蔵五日市線散歩」でも福生市掲載しましたので再度掲載。
都福生市は、都中西部、多摩川の北東側に位置し、3段川岸段丘からなる市、フサは麻のことで麻の原で福生と云う由来など諸説あり。
元は、神奈川県多摩市福生村で、1893年の明治東京府に編入、昭和15年町が成立している。
奥多摩湖埋め立ての代替地に選ばれた所でもある。1653年玉川上水が開削されている。
台地は、養蚕畑地・水田農村で、多摩川では、筏流し漁労が行われている。
昭和15年設置「陸軍航空審査部と整備学校」大戦後「米軍横田基地」で基地の町に。
鉄道は、JR青梅線・牛浜・福生駅ー八高線東福生駅・五日市熊川駅で国道16号線が。

            福生市熊川の古式の門構えの家


多摩川合流地点(東京都福生市・あきる野市・八王子市・昭島市境)ー 武蔵五日市駅(東京都あきる野市)
秋川、この美しい名前を持つ川は多摩川最大の支流、多摩川に合流するが、支流と言っても37.6kmもある。
位置的には、北に多摩川、南に相模川と2つの大きな川に上下を挟まれる。
拝島駅ー多摩川と秋川の合流地点。

「多摩川緑地福生南公園」
多摩川沿いにある河川敷公園。
一日中遊べる公園。 野球場、テニスコート、アスレチック遊具、ジョギングコース など。

                 福生南公園と睦橋。


「多摩川暴れ川」
堤防が、洪水から暮らしを守るために、昔の人々が努力して造り上げ続けてきた多摩川。大雨のたびに氾らんを繰り返し、あばれ川・多摩川、
堤防の決壊で、先住民が立ち上がって現在に、今の多摩川は、あばれ川のおもかげも薄れ、めったなことでは大きな洪水は起こりません。
それは、現在の私達に残してくれた遺産です。明治40年の大水害で水びたしになった川崎町・明治43年の大水害で破損した六郷大橋、 道路となった
有吉堤のなごり・昭和49年の狛江水害で濁流に飲み込まれる家 、、、。記録をたどると。
1550年ー 大洪水、伊豆美神神社流失・1590年ー 大洪水で多摩川の流路変わる・1600年ー 六郷大橋、架橋。以後洪水のため度々流失・再架橋
1627年ー 羽田、川崎水害 ・1644年ー 大洪水で六郷水害 ・1650年ー 羽田・野毛周辺水害 ・1688年ー 大洪水で六郷大橋流失、架橋をやめて渡船に。
1694年ー 川崎水害・1699年ー 川崎水害・1723年ー 六郷水害(以後、度々水害起こる)・1781年ー 享保以来の大洪水・1790年ー 矢口・菅村堤防決壊
1803年ー 川崎堤決壊・1816年ー 川崎、八王子など水害・1868年ー 六郷用水取入口壊滅・1875年の明治8年、 洪水で六郷橋、弁天橋流失、堤防決壊
1878年ー 数ヶ村で堤防決壊・25ヶ村で水害、横浜~東京間鉄道不通 ・1889年ー 各地で堤防決壊 ・1894年ー 各地で堤防決壊 日清戦争開始
1896年ー 河川法公布・1898年ー 布田で堤防決壊、二ヶ領用水締切元付近決壊。高津村、久地村で堤防決壊、 二ヶ領用水宿河原取入口大破損
1904年ー 日露戦争開始 ・1907年ー 大洪水、各地で堤防決壊、横浜~東京間鉄道不通  被災市町村数は50、川崎町は全町浸水
1910年ー 下流部、未曾有の大水害。被災市町村数55 ・1911年ー 洪水で六郷大橋流失
1914年の大正3年、 早期築堤を求めたアミガサ事件 ・1916年ー 代用堤防の有吉堤完成・1917年ー 洪水。高潮と重なり被害甚大
1918年ー 多摩川下流改修工事開始(1934年に完成)
1945年昭和20年ー 太平洋戦争終結 ・1974年ー 狛江水害・1997年ー 河川法改正した。

                熊川付近の多摩川と川岸


秋川・平井川・多摩川・湧水の名水、その周囲の田園、夏のとうもろこし、秋のお祭り、、、。

                   玉川上水ー 分水路


名水地域には「美味い酒がある」。
清酒「多摩自慢」と東京地ビール「多摩の恵」の製造元「石川酒造」
多摩の恵を醸造する石川酒造は、1863年(文久3年)創業の長い歴史を持つ老舗の造り酒屋で、
地元の水と空気から生まれた銘酒「多満自慢」(たまじまん)の蔵元です。
1880年(明治13年)にここ熊川の地に酒蔵を建造以来、造り酒屋としての歴史を積み上げて来て、
1997年に、地ビール「多摩の恵」の製造を開始しました。

                 石川酒造工場ー1880年・明治13年
    

石川酒造の入口を入ると正面に、本蔵が。
創建から100年以上が経つ酒蔵、近代酒造工場と昔ながらの蔵と日本建築のすばらしさを調和。
石川酒造を代表する清酒「多満自慢」の「たま」の字が、地元「多摩」ではなく「多満」としているのは、広くみなさんに満足してもらえるお酒に、、。
という思いが込められて「多くの満足」から「多満」となったと云う。
石川酒造では、酒蔵の見学も、事前予約すればよいと云う。
酒蔵をはじめビールの醸造所や100年以上前に使用したと言るビールの醸造釜など見どころ多い。

                石川酒造工場内・本蔵(1890年玉川上水ー熊川分水)
    

「日本酒のきき酒」いろいろの酒を口にしましょう。
1)瓶・容器に張られたラベルをよく読みましょう。
2)人に聞いてよい物を知って下さい。
3)先ずは欠点から、減点。
4)きき酒の言葉を知りましょう。
5)自分のものさしを作りましょう。
6)長所・欠点を書き留めておきましょう。
7)酒の温度はs、20℃位(ビールは10℃)
8)きき酒の直後に甘辛・刺激の強い物は口にしないでおきましょう。
9)先入観・話をしながらのきき酒は避けましょう。
10)着色グラスなどを使いましょう。(色が濃い・濃厚・番茶色・黄色・赤・・・薄い・水のよう・雑味。酒の特徴があり、気を付ける事)

           玉川上水ー 熊川分水
  

「香」
1)新酒ばな・こうじばなー生・活性・おり酒を好む人もいます。
2)吟醸香ー高度に精白(精米歩合50%以下)作り手の技術を要求されます。
3)老ね香・熟し香ー古酒で特有の香り・ひねすぎ・熟し過ぎ。
4)びん香ーガラスの匂い。逆で2~3年貯蔵し適度の老ね香を付ける酒もある。
5)つわり香ーチーズ・バターなどの香りは、発酵不完全の場合な。
6)火落香ー貯蔵中・びん詰品に細菌が繁殖して生じる香
その他ー酸臭・木香・炭香・油・ゴム・袋・濾過・・・・・。

   仕込み水(地下約150m)                雑蔵・資料館
    

「味」
濃い・薄い・雑味・ごくみ・ガラが悪い・きたない・後味・後味が悪い・ハリがある・甘みが残る・苦みが残る
若い・未熟・荒い・過熟・甘い・すっぱい・しぶい・苦い・ぼけ
香と味の調和・香りと味の不調和・調和取れている・香味良好・・・・・。

お酒・かまぼこ・スープ・清涼飲料、、・口にするもの全て、品質の判定に化学分析を導入研究に時間費用を費しますが、如何しても人間の
「官能」に優る方法は発見されておりませんし永久にないでしょう。
我が国では、大昔から先人達が残してくれました。また、これは「日本の文化」です。

            麦酒釜              麦酒工房
    

「順序」
1)色沢とサエ(透明度)
2)鉄分・過熱・貯蔵・精米歩合・アミノ酸・・・・不調和は、色が濃くなる。
3)青ザエした澄明な酒ー育ちが良い、貯蔵管理が上手い(薄くてうま味が無いのも)
4)サエが悪いーなんとなくスカッとしていない・照りが悪い(精製濾過が不十分な場合・瓶底にオリが生じる場合が)
5)白く濁っている酒は、火落ち(酸敗)の可能性が
味は、口に含んで、多からず少なからずで、試験官は、5mL程度と云う。
人間の舌の部位と味覚は、舌先から甘味・辛味・奥に行って酸味・奥の中央で苦味。
後口さっぱりがー普通は口から吐き出すのですが、喉越しを見るのには飲み込む場合も。

           工場内                古井戸(酒は水が命)
    

「熊川神社」
神社は、福生市熊川にある。創建年代は不詳ながら、礼拝明神社と号し、生石命を神体としていたという歴史あり。
明治3年「熊川神社」と改めている。祭神ー大国主命 ー境内社・琴平神社、稲荷神社、山神社、天神社、八雲神社

祭日ー例祭日9月1日 、社伝によると、夜ごと多摩川に雷光を放ち、のち一老翁が現われ、この付近に守護神ありといって姿を消し、
そこに一個の御神像をみつけ、これを生石命と尊称し、大国主命を祭神として一社を創設したという。
日本古来の漂着神、寄り神信仰の姿を伝えている。
もと礼拝大明神と称していた。都神社名鑑より
                    熊川神社 
    

「奥多摩街道」
奥多摩を走る道筋と勘違いされるが、立川の 日野橋交差点で甲州街道から分岐し、昭島、福生、羽村を経て青梅に至る道筋。
大正 時代の終わり頃からそう呼ばれるようになったと云う。

JR五日市線、拝島駅ー「熊川」ー東秋留ー秋川ー武蔵引田ー武蔵増戸ー武蔵五日市駅

拝島の次の駅であるが無人駅
    

              福生・牛浜駅と米軍横田基地


             国道16号線沿いに米軍横田基地が
   

横田基地の前身は、旧日本陸軍によって建設された航空審査部と航空整備学校などが所在した陸軍多摩飛行場。
1940年、立川基地の陸軍航空技術研究所から独立した飛行実験部が移転し、1942年、飛行実験部は航空審査部となり、全長1,200mの滑走路。
米軍は、1944年後半に始まった航空機による日本本土偵察によって飛行場と1,200mの滑走路の存在を初めて知り、発見の後、アメリカ軍は
その飛行場を「横田」と呼ぶようになったと云う。

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