syuの日記・気まま旅

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松戸ー江戸川を下る 10

2016-05-31 | 気まま旅

千葉県松戸市・県北西の住宅都市。更級日記に「まつさと」とあるのが地名語源と云う。
市は、下総台地の西端部で丘陵地であるが、江戸川沿いは沖積低地が見られる。
常陸と武蔵へ通じる交通の要衝として発展してきた。江戸時代は、幕府直轄領、旗本領であり、江戸川沿いの新田開発が進められた地域。
台地上には「黄金牧」が置かれた。
江戸川と日光街道が交差する地点で宿場町として栄えた。特に江戸川舟運が、野田・銚子からの中継河岸であった。活況を呈していたであろう。
1896年の明治29年、-日本鉄道海岸線・現在の「常磐線・土浦ー田端」と1955年の私鉄新京成電鉄・松戸ー津田沼間開業により内陸部の開発が
進んだと云う。住宅と共に工業団地の建設が早くから行われた。
現在の鉄道は、JR常磐線・新京成・東武野田線・総武流山電鉄・北総開発が東松戸ー矢切り通過している。

「陸前浜街道」東京日本橋ー宮城県。
千住(都足立区)で、日光街道と分かれ、水戸ー平ー宮城県岩沼ー奥州街道に合流する。
明治以前「浜街道」・東京では、水戸までを「水戸街道」と呼び、水戸では「江戸街道」とも云っている。(五街道ー東海道・奥州街道・中山道
に日光街道・甲州街道)陸前浜街道も道中奉行支配街道であった。(参勤交代に利用)

              都葛飾区金町に「関所」があった。
    

松戸江戸川の向かいが埼玉県八潮で、中川と綾瀬川に狭まれた沖積低地で、山東菜で知られている純農村、地盤沈下で騒がれている。

「坂川・六間川」-流山・松戸・市川ー江戸川に注ぐ。
松戸柳原水門で洪水が、流山街道に沿って分水され、松戸市内に坂川と六間川が流れ桜の名所に。
    

「一里塚」
江戸日本橋を起点に一里の約4kmごとに設け、塚は道路の両側に設置され、「榎」などが植えられた。
榎は、根を深く広げることから、塚の崩壊を防ぐ役割が。一里塚の起源については諸説あり、現在の一里塚といえば、1604年、に設置が命じられ
江戸時代のものをさしている。
明治の末頃までは、塚の跡が残っていたが、今は、姿を消している。

 東京湾から、ここは約20.1km   川の一里塚の碑が
    

「葛飾区の工業」ー葛飾区が、現在のように工業地帯として発達を遂げた原因は、その立地条件にある。
明治・大正と、物資の運送手段は、陸運より水運が特に重要視され、江戸川、中川、荒川、綾瀬川に囲まれた葛飾区は最もその条件に適したと云う。
三菱製紙、江戸川化学(現在の三菱ガス化学東京工場)、日本紙業(現在の日本板紙)、日本建鉄(現在の森永乳業東京工場の場所)、浜野繊維、
宮本染色、新理研工業、那須アルミ、東洋インキ、ミヨシ油脂等の各工場は、いずれも中川、綾瀬川の舟運を利用する関係から設立された。
舟運のみならず、これらの川の水を利用する工業として製紙業、染色工業、布さらし工業などが集中。



          現在葛飾には、セルロイドの玩具中小の工場が


「松戸・排水機場、樋門」-昭和40年代からの松戸は、宅地開発が。
広大な水田を埋め立てられ、このため少しの雨でも浸水する地域ができ、これの解消のために排水路の整備が。
排水機場を設け、馬橋排水機場の他、4箇所の排水機場を建設し管理されている。
松戸排水機場 国土交通省 100m3/s 平成7年 ー古ヶ崎排水機場 国土交通省 15m3/s 昭和55年ー樋野口排水機場 千葉県 15m3/s 平成7年
柳原排水機 千葉県 26m3/s 平成7年ー馬橋排水機場 松戸市 5.1m3/s 平成7年ー栄町西排水機場 松戸市 1.66m3/s 平成7年
栄町排水機場 松戸市 3.7m3/s 平成6年ー中堀排水機場 松戸市 2.79m3/s 昭和52年ー矢切新田堀排水機場 松戸市 1.8m3/s 平成10年 。



「葛飾大橋」- 外環の葛飾区間の国道部は、昭和53年に着工し、平成17年、葛飾 大橋の千 葉方面行きが開通した。
又、同年には、三郷~松戸市間の約8.4kmが4車線で開通した。
高速道路部の千葉方面への延伸に向け、平成20年度から、東日本高速道路により、江戸川渡河部での橋脚工事が始まっている。

               これで葛飾橋の渋滞も、約3割転換しと云う。


「内国通運会社・通運丸」-明治・大正時代、利根川水系蒸気船。
貨物・旅客の定期貨客船(船の両側に大車輪・推進機として走る)-全長約20m・巾約3m・時速11km。
廃業までに40隻地殻造船している。



千住宿から二つ目の「松戸宿」
松戸宿は、江戸川に面しており、江戸側の対岸には金町松戸関所が置かれていた。
江戸時代には江戸川に橋は架けられておらず、渡船となって、松戸側にも渡船場跡付近に「天領」を示す御料傍示杭が建ち(現在はその付近に石碑が)
そこが松戸宿の江戸側の端となっていた。
歌で知られた「矢切の渡し」は、松戸宿の南、旧矢切村に位置。
松戸駅北側の松戸市根本(旧根本村)は駿河田中藩本多家の領地で松戸宿ではなかったと云う。松戸宿近在の農家には江戸川対岸に農地を持ち、
自家用船で川を往来する者もあったと云う。
松戸の宿場町は南北に約1kmほどの範囲に広がって、松戸はまた、物資集積地としても栄えた場所であり、数百軒の家並みが並ぶ大規模な集落を
形成していたと云う。
          運河としても使われた坂川が市街地を横切って流れている。
    

                  東京スカイツリーが
  

「戸定邸」
松戸宿は、江戸と水戸を結ぶ「水戸街道」の宿場町。
同邸そばの松戸神社には水戸藩二代藩主ー徳川光圀ゆかりの銀杏の樹があるなど、古くから水戸藩とつながりの深い土地。
1884年の明治17年、に完成し、昭武の生活の場として使われたと云う。
明治30年代に実兄である元将軍ー徳川慶喜が何度か訪れ、昭武とともに趣味の写真撮影などを楽しんだと云う。
多くの皇族が長期に滞在するなど、由緒のある屋敷として知られた。
明治25年、昭武の嫡男武定が特旨によって子爵を授けられると、以後は松戸徳川家の本邸となった屋敷。

                坂川河口、江戸川と合流する
    



                   御料松戸宿の碑が


松戸には、「本土寺」北小金にある日蓮宗の寺、山号長谷山、1277年鼻和地蔵堂が、アジサイ2万株と約5000株の菖蒲が植えられている。(紫陽花寺)
     「万願寺」馬橋、臨済宗の寺、山号法王山で開基行基ー千葉氏ゆかりの寺、1379年足利氏満が中興で一字の「満」。




次回は、野菊の墓・矢切りの渡しへ。

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