「流山」は、千葉県北西部・江戸川に沿って埼玉県に接する市。
流山の市名の由来は、江戸川の流れで山が削られ出来た土地と、群馬県赤城山の土砂が流れて来たとの伝説・諸説がある。
「万葉集」に「にほどりの 葛飾早稲をにへするとも その愛しきを 外に立てめやも」と詠まれるように、古代から江戸川沖積低地の稲作地域
であった。江戸時代には、江戸川水運の河港として栄え、新田開発により良質米が増産された。
この米を利用して酒造業が。又、「みりん製造」が盛んとなり、今でも流山は主要産業。
廃藩置県により葛飾県庁が置かれたが「千葉県成立・1873年」県庁、千葉市に移転した。
JR常磐線の通過を拒否し、後一時衰退した。
現在は、JR武蔵野線南流山・東武野田線「初石・江戸川台・運河」・総武流山電鉄「流山・平和台・鰭ヶ崎」近郊住宅都市として発展している。
「利根運河」
流山市と野田市の境界に明治期に掘削した「利根運河」は、江戸川と利根川を結ぶ全長8.5Kmの遺構が保存されている。
江戸川河川事務所が管理する水路で、散策路もよく整備され両岸に展開する手付かずの里山を貫く。
土木遺構は、貴重な存在と云う。
運河の竣工は明治23年、パナマ運河竣工の24年前、徳川中後期にかけて江戸は既に世界一の人口を擁する百万都市であり消費物資の物流路は
唯一舟運に頼っており、この大動脈が銚子から利根川、関宿から江戸川へ、小名木川、隅田川経由で、東北や関東各地の米穀、木材、魚介物その他
産品が大量に供給され江戸の生活が成立していた。
舟運には利根川筋に難点が、江戸川流頭の分流点関宿から鬼怒川合流点付近の部分に冬季渇水や土砂堆積でしばしば航行不能になり木下河岸から
陸路行徳河岸へ、布佐から松戸、布施から流山など3ルートを馬の背に頼り、更に江戸川で船に積み替えていた。
鮮魚など急送産品は時間短縮の為に常時、木下街道などの鮮魚街道を経由したとも云う。
利根運河の掘削案が明治14年、茨城県会議員・広瀬誠一郎が発案し、が、数代に亘る千葉、茨城両県知事も巨額工事の賛否が定まらず内務省は
鉄道建設を物流の本旨とし、この件案には否定的で公費建設は断念し、運河会社を設立した。-利根運河株式会社を設立した。
流山橋(向かいは埼玉県吉川市)
流山6丁目に小山があり、その名は、「赤城山」-群馬県赤城山の土砂が流れて出来たと云う。流山の地名伝説になっている。
その小山に、「赤城神社」もあると云う。
運河河口公園ー海から35km
「流山線」
大正元年、地元数人の商工人が発起人で鉄道建設、それが「流鉄・流山線」-5.7km-
流山ー平和台ー鰭ヶ崎ー小金城址ー幸谷(武蔵野線)-馬橋(常磐線)6駅で都心通勤電車に、ワンマンで、単線。
使われていない「利根運河」
「流山三輪茂侶神社のチンガラ(神賀楽)餅神事」
正月新春イベントー5升の鏡餅を若者が割れるまで激しく揉み合い・奪い合うと云う。その餅の割れ方でその年の豊作を占うと云う。
工事中で砂利トラック
野田の関宿・中の島工事で運ばれた土砂の山
江戸川河川敷下の小さな「稲荷神社」
「愛宕ふえあいの森」
愛宕神社に隣接する市民の森。
園内には多くのサクラの木があり、開花の頃には多くの花見客でにぎわう。
面積ー 約0.8haある。
「埼玉県三郷市早稲田ーJR武蔵野線の三郷駅」
「丹後神社・稲荷神社」がある。そこの石碑がー万葉集に歌われた「葛飾早稲」の発祥の地と云う。
ーにほ鳥の葛飾早稲を饗すとも その愛しきを外に立てめやも
「にほ鳥(鳰鳥)」は 水鳥の「カイツブリ」の古名で“葛飾”へのかかりことば「(葛飾でとれる)早稲米を神様に供えるおめでたい夜は 身も心も清く
保たなければならないのに, 愛しいあの人が来たら 外に立たせておくことはできない, 迎え入れてしまうでしょう」という一種の恋歌。
「葛飾」は、 東京・葛飾区から 千葉県市川市~流山市, 埼玉県三郷市などを含む 江戸川流域の一帯を云う。
万葉集が編纂された8世紀ごろには 早稲米の産地として知られていたのであろう。
この神社のあたりは かつて“早稲田村”と呼ばれ, 現在も“早稲田”の地名が 残っている。
丹後神社の他に、 千葉県流山市の「諏訪神社」「茂侶神社」 野田市「中根八幡前遺跡」にも 同じ万葉歌の石碑が建っていると云う。
埼玉三郷には、新撰組近藤勇陣屋敷跡がある。
愛宕ふれあいの森
東武野田線「江戸川台」駅
「一茶双樹記念館」ー市指定史跡「小林一茶寄寓の地」の保全及び文化の振興を。
一茶は、この地を数十回訪れている。
茶会・句会等に利用できる双樹亭・往時を偲ばせる主庭を中心に、商家を再現し、みりん関係資料などを展示している。
「小林一茶」(1763-1827)江戸時代を代表する俳諧師ー北総地方には、悠々自適の境地を楽しもうという、俳人山口素堂の一派である「葛飾派」の俳人が多く、馬橋で油屋を営む俳人大川立砂もその一人で、一茶もはじめは葛飾派に属している。
流山の秋元三左衛門(俳号:双樹)と知りあったのも、おそらく立砂を通じてではなかったか、北総地方は、一茶にとってはいわば第二のふるさとであり、流山の双樹のもとには、 50回以上も来訪したことが知られている。
「秋元双樹」-流山で醸造業を営み、(みりん)の開発者のひとりと言われている、秋元家5代目三左衛門(1757~1812)。
秋元三左衛門は家業の傍ら俳句をたしなみ、俳号を双樹と号しました。
秋元双樹の俳句は、「伊勢派撰集」(1780)に入選する程。石碑ー「夕月や 流残りの キリギリス」
今回は、江戸川から離れているので次回とする。
JR流山駅前
松戸市に
次回は、松戸から江戸川を下ります。
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