1589年 北条氏は「真田昌幸公」の名胡桃城を攻めます。
これが、秀吉公の小田原攻めのきっかけを与えてしまいます。
その後、小田原攻めの準備は着々と進み、2月には徳川家康公、が先発隊を出陣させ、この段階で北条氏がもくろんでいた三国同盟の一角はくずれます。4月には秀吉公は小田原城を包囲。
石垣山登り口
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氏政公の弟氏照公の居城八王子城も落城します、北条氏が誇る支城システムは完全崩壊します。
「小田原評定」、1590年、北条氏は城の中で毎日毎日戦いを続けるか降伏するか、会議を開き意見がまとまらず日時が過ぎていた。
小田原相談、評議、談合ともいう。
石垣の上に生えた樹木
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四方を完全に包囲されてしまい、毛利水軍や長曽我部水軍や九鬼水軍が海からの包囲を実現。その軍勢総数20万と云われている。
北条は、抜け出る隙間もなく、完全包囲の結果、北条が誇る支城システムも機能せず、各個撃破されてしまう。
石垣山天守閣辺りからの小田原城方面
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6月に、伊達正宗公、秀吉の陣に到着。これには北条側もがっくりです、軍事的にも後詰のない篭城は城兵の希望もなくなり士気が喪失されてしまい、伊達氏が北方から援護してくれることをひそかに期待していた。北条氏側はその思惑の甘さにがあったようです。
北条早雲公から5代100年の歴史がここに幕を閉じます。
小田原戦役の折、早雲寺山内でもう一つの悲劇が、 千利休の高弟・山上宗二が秀吉の怒りに触れて惨殺されたのです。
境内に「山上宗二追善碑」が建てられている。
「山上宗二」は、秀吉公から、家を横領するばかりか、故主の妹御までも横領した。と罵倒したことで、茶頭を解かれ追放されている。
宗二は、流浪の身となり徳川家康や佐々成政を頼り、各地を放浪し、天正十六年に北条氏政の招きで、小田原城に赴いていた。
天正十八年、小田原攻めの本陣がある「早雲寺」に、千利休が滞在していることを知らされた宗二は、密かに早雲寺を訪れて利休と再会。
この時、利休の取り成しで秀吉の勘気を解かれた宗二は、茶会の席で暴言を吐いた。
「鶴を得て、更に楢柴を得るため、民の苦しみを顧みず兵を興した。こたびは関八州と云う名物を得るため、幼主を掲げて下向してきた」
罵詈雑言に慣れている秀吉も、国土から争いを無くし、民の安寧を願い、天下の仕置きを理解しない宗二を生かしては置けなかった。
・・小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申し、その罪に、耳鼻そがせ給せし・・と、長闇堂記は伝えている。
愛弟子を残酷な刑で処刑された千利休は、嘆きを抑えて仕候しており、秀吉は利休の立場を思いやって、笠懸山での茶会を催したという。
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「長興山の紹太寺」は、箱根登山鉄道、湯本駅一つ手前の「入生田駅」に近い、稲葉正則が形見に植えた「しだれ桜」で知られている寺。
宗派 禅宗、開山 鉄牛和尚ー大慈普応禅師、本尊 釈迦如来、開基 稲葉美濃守正則、本山 京都万福寺。
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小田原藩主、稲葉氏一族菩提寺、小田原城内にあったが二代目正則が1669年移建させ、父母祖母「春日局」の霊を弔った。
その当時は、東西14町70間、南北10町16間の広大な寺域に7堂と云う。
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稲葉正則の「春を忘れぬ形見・しだれ桜」は、樹齢340年樹高13m、4月上旬開花する。
「春日局」1578-1643 明智光秀の重臣斉藤利光の娘、徳川三代将軍家光の乳母、山崎の合戦で父討死し辛い少女時代を過ごす
稲葉正成に嫁ぎ4男をも受け離婚、26歳で乳母に、家光の信任を受け大奥の実力者に、実子稲葉正勝は、春日局で老中に。
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重要文化財ー稲葉一族と春日局の墓、鉄牛和尚の寿塔、しだれ桜、であるが、鉄牛和尚の血書(自らの血で書いたという大乗経10余巻と
釈迦如来像を製作している。
春を待つしだれ桜
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稲葉一族の墓所は、長興山(標高209m)の中腹にある。東西約20m、南北約9mの長方形で、三面を低い石垣で山際を区切り、堂々とした8基の墓石が横に並んでいる。
墓石は、正面向かって左から、稲葉美濃守正則、稲葉丹後守正勝の正室、稲葉丹後守正勝、春日局(正勝の母)、稲葉美濃守正則の正室、
稲葉丹後守正通の後室、稲葉美濃守正則の長兄、塚田木工助正家の墓および供養塔となっている。
塚田正家は、丹後守正勝の近臣で、正勝の一周忌に殉死し、忠節をたたえ藩主の墓地に葬られたという。
稲葉氏は、1632年から1685年まで、正勝・正則・正通の三代約50年間、小田原城主。
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鉄牛和尚は、長興山紹太寺の開山第一祖で、臨済宗の京都大徳寺の大龍和尚に参禅し、後に黄檗宗の本山宇治万福寺の隠元禅師に師事したが、1669年 長興山開発のため、稲葉正則に招かれ小田原に来て、紹太寺の開山となる。
1700年に死去しましたが、1712年の13回忌に朝廷から生前の功績をたたえられ、大慈普応禅師の称号を賜わった高僧。
寿塔は、貞享4年(1687)に鉄牛和尚の長寿を祝福して、その門人で紹太寺二世であった超宗和尚が建立した。
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小田原は、中世の平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な「藤原秀郷」の子孫、「佐伯経範」が1030年頃に秦野に移り住んで波多野氏を名乗っていた。
後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部。
波多野城は一族の居館である。波多野城のあった田原の、その支城として「小田原」が設置された。
平安時代の末期1180年に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らとの、石橋山の戦いが行われた。
戦国時代に入り、伊勢平氏流を称する「北条早雲」が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭し、
鎌倉府足利氏、関東管領上杉氏、常陸国守護佐竹氏、下野国国司宇都宮氏、が。
関東の統治体制を転覆した。下野国守護小山氏は後北条氏により滅亡に追い込まれていく・・・・・。
県西部における中心都市、城下町とかまぼこの街「小田原」。東京から東海道線で1時間半、新宿駅からも小田急ロマンスカーで1時間半という微妙な立地にある小田原の街は、箱根観光の通過点として沢山の観光客が訪れる。
小田急線とJR線は共同の駅舎で改札が隣り合っており近代的な駅である。私は、小田急改札口を出た。
私鉄小田原駅
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北条早雲 1432-1519 小田原北条氏初代、京都伊勢氏説。今川氏から下田興国寺城を奪う。後に大森氏の小田原城を、三浦・新井氏を滅ぼし
相模国併合。農民租税は四公六民とした。88歳の長生き。
北条綱成 1515-87 北条氏重臣、氏綱、氏康、氏政の三代に仕えた猛将であった。
北条氏綱 1486-1541 二代目早雲の子 扇谷上杉朝興を破り武蔵国を制圧、今川、里見氏を圧迫して領土拡張する、下総国府台で足利義明を 討つ古河公方足利晴氏に娘を嫁がせ傀儡化を図る。鎌倉鶴岡八幡宮再建。勝って兜の緒を締めよ、の言葉は有名。
北条氏康 1515-1571 三代目氏綱の子 関東南半を支配、税制改革と検地を推進した。
「河越の夜戦」は、三大夜戦の一つ。綱成が扇谷上杉・山内上杉氏・古河公方8万の連合の囲まれ、氏康は兵8千を何度か 出兵させるがすぐ退去させ、和を乞うて、相手が油断し、気の緩んだところに夜襲を掛けている。上杉は頼りない、再び 武田と同盟せよと遺言して没した。
公園全体図
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小田原城は、室町時代、大森氏によって築かれたのが起源と考えられている。この頃の小田原城の位置は、八幡山付近と想定されている。
1498年、北条早雲は伊豆を平定したのち、相模国への進出を目指して大森氏を攻め小田原城を奪い、北条氏は勢力の拡大と合わせて小田原城の規模を拡大していき、1590年に豊臣秀吉が小田原城を包囲した時には、全周9kmもの総構が城下町を包みこむまで発展した。
馬出門
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小田原城址公園及び、その近辺が、主要部。石垣を用いた総石垣造りの城である。
佐倉城や川越城などのように、土塁のみの城の多い関東地方においては特殊と言え、関東の入口としての小田原城の重要性が伺える。
現在のような総石垣の城になったのは1632年に始められた大改修後のこと。
本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、4方向の守りを固めていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出として機能した。
建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられている。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。
駅前にある「つちあげ」の碑 蓮池堀 堀
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二の丸総堀は平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がったものである。
三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、南側の天神山丘陵の尾根を走る空堀、そして最西端の小峰大堀切によって構成される。
小峰大堀切は中世城郭部最大の遺構である。東側へと伸びる八幡山丘陵、天神山丘陵、谷津丘陵が集まる点にあり、各丘陵と西側の山地部を切断している。
小田原の町全体をとりかこんだ、連続した空堀と水堀である。
山地部の空堀は小峰大堀切よりさらに西の小田原城最高所となるお鐘の台をとりこんでおり、ここから北西部の桜馬場、稲荷森の総構堀は比較的よく残る。平地部の水堀は消滅、あるいは暗渠化したが、南西部の早川口や東部の蓮上院近辺に辛うじて土塁が残る。
中世の城の規模では、驚く。
城前の堀と橋 めがね橋
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北条幻庵 1493-1589 早雲の三男 幼少で僧籍近江国三井寺で修行し、箱根権現別当金剛王院に、北条軍の一将で国府台の戦い、平井城
攻めに参加している。僧であり武将で文化人であった。北条五代に仕え、同家滅亡直前で97歳で逝った。
幻庵の作成した「鞍」、「一余切」尺八は、家康が所望したという。
馬出門から見た天守閣
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北条氏政 1538-90 四代目、氏康の長男、国府台で里見・大田連合軍を破る、武蔵国制圧し北関東へ勢力を伸ばす。長男氏直の家督を譲るが
実権を掌握、秀吉の上洛要請に応じなかった為に切腹、首は京の一条戻橋に晒された。汁を飯にかける氏政を見て
「北条家も終わりだ・・」と、父氏康は、嘆いたという。
北条氏直 1562-91 五代目、氏政の長男、本能寺の変後、上野国信長重臣滝川一益撃破し信濃国へ攻め入り、小県・佐久郡占領、甲斐国
で、家康と争うが鴻和し、娘督姫を娶る。名胡桃城を攻撃したため、秀吉の怒りを買い征伐され降伏する。
翌年、秀吉と謁見して、一万石を賜り大阪に住んだが同年30歳で没している。
城跡内の梅並木(3分咲き)
北条氏規 1545-1600 氏康の五男 伊豆国韮山城主 秀吉との和睦に尽力、家康の竹馬の友、北条氏と徳川家の対立時は、氏規が講和に
奔走している。家康を信じて開城し降伏を勧告したが、約束は守られず、氏直は高野山へ追放され、兄の氏政と
氏照の介錯を命じられている。一度自殺するが失敗、高野山に幽居後、河内国7千石を賜っている。
城内から見た堀 井戸・ 馬屋曲輪付近に 雁木
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三国同盟は、1545年、今川、武田の連合軍が富士川を越えて北条が守備していた富士市に乱入。
北条軍は各地で惨敗し小田原に撤退した。氏康はこの地をばんかいするため今川義元が三河に出兵した時、駿河の留守を狙って乱入したが、武田晴信(信玄)が南下してきたため、あっけなく敗戦また相州に撤退した。
撤退して間もなく、今川義元の軍師から小田原城の氏康に和睦の申し入れがあった。
相・駿・甲の三国同盟の提案である。寝首を掻かれることも心配したが、同盟が成立すれば有利になることもあろうと同盟を結んだ。
婚姻を交わす。義元は正室に信玄の姉を迎え、義元は信玄の正室に公家の三条殿をめあわせ、その後、義元の長女は信玄の嫡男義信に嫁ぎ、北条氏政には信玄の長女黄院が嫁いだ。
今川義元が桶狭間の戦いで戦死してからは三国同盟も亀裂を生じ、女性三人はそれぞれ国元に帰っている。
昔の銅門
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二の丸御殿 城内には古木が
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小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀に見る規模の大きな縄張りを持った城郭であり、現在は鉄道、道路が、中央を分断されている。
銅門の土台石 壁の内臓
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堅城の小田原城,栄華を誇った北条時代も、平家時代と同じ諸行無常の運命にあった。
武田軍に、小田原城包囲、1569年1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している。
同年8月に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、滝山城などの北条方の拠点を攻撃したのち10月には北条氏康の小田原城を囲んだ。
当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城である。
篭城策は手堅く、武田軍は包囲を開始して4日後に城下に火を放ち軍勢を引き上げている。
「三増峠の戦い」は、1569年、神奈川県愛甲郡愛川町三増周辺、結果は、武田軍の勝利、武田信玄対北条氏照、氏邦で、武田軍勝利している。
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「関東の雄」と呼ばれた北条氏は、戦国時代随一の実力と勢力を誇る大名であった。
関東圏は独立した存在として考えられ、後に豊臣秀吉が北条氏を攻めたのは、北条氏の関東における存在感の大きさを無視できなかったためと考えられている。
北条市初代の北条早雲は、叔母が嫁いでいた今川氏の家督争いの解決を足がかりに関東を平定した下克上の見本といえる人物でした。
早雲の孫である北条氏康は、北条氏を最も栄えさせた大名であったといわれている。
税制をはじめとする行政の改革など、武力のみならず国力の強化にも努め、「領民含めて一枚岩の北条」を構築した名君であった。
本丸に一番近い堀跡 二の丸から本丸へ 石垣山方面
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北条氏康は1545年の扇谷上杉家の上杉朝定・関東管領の上杉憲政・古河公方の足利晴氏・今川義元の「北条包囲網」を切り崩して、朝定を討死させて晴氏に古河公方を引退させたが、上杉憲政(1523-1579)は越後の上杉謙信に支援を求めて落ち延びた1552年。
1550年代初頭、東国の有力武将として武田信玄・今川義元・北条氏康が突出した実力を蓄えて領土を拡大していくが、それぞれの軍事的計画を実現するために「甲・相・駿」の三国同盟を政略結婚を通して結ぶことに。
1552年には、今川義元の娘が信玄の嫡男・義信に嫁ぐことになり、1554年には北条氏康の娘が義元の嫡男・氏真に嫁ぎ、その12月に、武田信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぐことになる。
三者が相互不可侵の誓約を守る暫時的な同盟関係が成立した。(三国同盟)
珍しい「銅門」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/7b/33f617efa037bfb39b42a039a6c8fa09.jpg)
1546年、武蔵国河越城の戦い、北条軍の勝利、北条軍・山内上杉家、 扇谷上杉家、 足利古河公方。北条氏康、綱成、 多目元忠
上杉憲政、朝定、 足利晴氏。8万0000。
「河越城の戦い」は、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦い。
北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は、武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年から4度にわたる争奪戦が展開された。
有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の 1546年の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」。
北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。
本丸 城内へ
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「小田原評定」は、1590年豊臣秀吉連合軍が、北条軍の軍団がこもる小田原城を攻めた際、城中の北条氏家臣団の間で、戦い続けるのか降伏するかなかなか意見がまとまらず、いたずらに日時が過ぎて被害を大きくした。
秀吉連合軍は、箱根山中での持久戦を想定した戦略で、 小田原包囲 戦が始まると秀吉は、余裕を各方面に見せ付けるかのように、石垣山に石垣山一夜城を 築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。
大道寺政繁は、 嫡男を脱出させ自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に降伏。
相模湾方面 神社近くの曲輪北堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/ff/1cc1fa5c1821819034c5825297685068.jpg)
石垣山は、笠懸山と呼ばれていたが、1590年 豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになる。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われている。
実際にはのべ4万人が動員され、約80日間が費やされたという。
本丸を囲む石垣 駅側は発掘調査中 貴重な資料が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/dd/10859e796d8433f52c88232fa83b2beb.jpg)
箱根外輪山山麓の台地にある小田原城、土肥、小早川、大森、北条、大久保、居城。城下を堀と土塁で囲み総延長10KMの外郭の難攻不落を誇っていた。現在本丸近辺の発掘調査で立ち入り禁止区域もある。
庭園跡から出土したのは、池に水を引き入れるための石組水路や築山、庭石などで、礎石建物跡と石組水路の軸線がほぼ一致していることも分かった。石組水路には地元の風祭石や鎌倉石が使われているほか、五輪塔の火輪部分だけを貼り付けた護岸遺構も見つかっている。
発掘裏に弁財天石像が、 城山競技場方面、間に鉄道道路が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/be/1eafcdc0fffe3a8af56e1af1766d16af.jpg)
「北条氏政・氏照の墓所」市指定史跡。 小田原合戦の責任を取って自害させられた4代氏政と弟氏照 (八王子城主)は、この場所にあった伝心庵に葬られ、後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまい、稲葉氏の時代に、追福のために作り直されました。
しかし、それも関東大震災で埋没し不明となり、翌年地元の有志によって復興された。
墓地内には、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石がある。
小田原駅に近い商店街の隅に
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/a5/70249ac2c0e4b543a52de8b8cdee3757.jpg)
北条氏の寺がここに
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/d1/c500364c3b83910e220b2c5781e24b9f.jpg)
「報徳二宮神社」は、明治27年 1894年、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、
翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に創建された神社。
二宮尊徳翁にあやかり学業成就・五穀豊穣・商売繁盛・経営などに御利益があるとされ、毎年多くの参拝者で賑わう。
城跡公園と隣接にある
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これが、秀吉公の小田原攻めのきっかけを与えてしまいます。
その後、小田原攻めの準備は着々と進み、2月には徳川家康公、が先発隊を出陣させ、この段階で北条氏がもくろんでいた三国同盟の一角はくずれます。4月には秀吉公は小田原城を包囲。
石垣山登り口
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/17/4c39203ee63e4a69eaddfff6c29ddc1a.jpg)
氏政公の弟氏照公の居城八王子城も落城します、北条氏が誇る支城システムは完全崩壊します。
「小田原評定」、1590年、北条氏は城の中で毎日毎日戦いを続けるか降伏するか、会議を開き意見がまとまらず日時が過ぎていた。
小田原相談、評議、談合ともいう。
石垣の上に生えた樹木
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四方を完全に包囲されてしまい、毛利水軍や長曽我部水軍や九鬼水軍が海からの包囲を実現。その軍勢総数20万と云われている。
北条は、抜け出る隙間もなく、完全包囲の結果、北条が誇る支城システムも機能せず、各個撃破されてしまう。
石垣山天守閣辺りからの小田原城方面
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6月に、伊達正宗公、秀吉の陣に到着。これには北条側もがっくりです、軍事的にも後詰のない篭城は城兵の希望もなくなり士気が喪失されてしまい、伊達氏が北方から援護してくれることをひそかに期待していた。北条氏側はその思惑の甘さにがあったようです。
北条早雲公から5代100年の歴史がここに幕を閉じます。
小田原戦役の折、早雲寺山内でもう一つの悲劇が、 千利休の高弟・山上宗二が秀吉の怒りに触れて惨殺されたのです。
境内に「山上宗二追善碑」が建てられている。
「山上宗二」は、秀吉公から、家を横領するばかりか、故主の妹御までも横領した。と罵倒したことで、茶頭を解かれ追放されている。
宗二は、流浪の身となり徳川家康や佐々成政を頼り、各地を放浪し、天正十六年に北条氏政の招きで、小田原城に赴いていた。
天正十八年、小田原攻めの本陣がある「早雲寺」に、千利休が滞在していることを知らされた宗二は、密かに早雲寺を訪れて利休と再会。
この時、利休の取り成しで秀吉の勘気を解かれた宗二は、茶会の席で暴言を吐いた。
「鶴を得て、更に楢柴を得るため、民の苦しみを顧みず兵を興した。こたびは関八州と云う名物を得るため、幼主を掲げて下向してきた」
罵詈雑言に慣れている秀吉も、国土から争いを無くし、民の安寧を願い、天下の仕置きを理解しない宗二を生かしては置けなかった。
・・小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申し、その罪に、耳鼻そがせ給せし・・と、長闇堂記は伝えている。
愛弟子を残酷な刑で処刑された千利休は、嘆きを抑えて仕候しており、秀吉は利休の立場を思いやって、笠懸山での茶会を催したという。
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「長興山の紹太寺」は、箱根登山鉄道、湯本駅一つ手前の「入生田駅」に近い、稲葉正則が形見に植えた「しだれ桜」で知られている寺。
宗派 禅宗、開山 鉄牛和尚ー大慈普応禅師、本尊 釈迦如来、開基 稲葉美濃守正則、本山 京都万福寺。
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小田原藩主、稲葉氏一族菩提寺、小田原城内にあったが二代目正則が1669年移建させ、父母祖母「春日局」の霊を弔った。
その当時は、東西14町70間、南北10町16間の広大な寺域に7堂と云う。
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稲葉正則の「春を忘れぬ形見・しだれ桜」は、樹齢340年樹高13m、4月上旬開花する。
「春日局」1578-1643 明智光秀の重臣斉藤利光の娘、徳川三代将軍家光の乳母、山崎の合戦で父討死し辛い少女時代を過ごす
稲葉正成に嫁ぎ4男をも受け離婚、26歳で乳母に、家光の信任を受け大奥の実力者に、実子稲葉正勝は、春日局で老中に。
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重要文化財ー稲葉一族と春日局の墓、鉄牛和尚の寿塔、しだれ桜、であるが、鉄牛和尚の血書(自らの血で書いたという大乗経10余巻と
釈迦如来像を製作している。
春を待つしだれ桜
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稲葉一族の墓所は、長興山(標高209m)の中腹にある。東西約20m、南北約9mの長方形で、三面を低い石垣で山際を区切り、堂々とした8基の墓石が横に並んでいる。
墓石は、正面向かって左から、稲葉美濃守正則、稲葉丹後守正勝の正室、稲葉丹後守正勝、春日局(正勝の母)、稲葉美濃守正則の正室、
稲葉丹後守正通の後室、稲葉美濃守正則の長兄、塚田木工助正家の墓および供養塔となっている。
塚田正家は、丹後守正勝の近臣で、正勝の一周忌に殉死し、忠節をたたえ藩主の墓地に葬られたという。
稲葉氏は、1632年から1685年まで、正勝・正則・正通の三代約50年間、小田原城主。
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鉄牛和尚は、長興山紹太寺の開山第一祖で、臨済宗の京都大徳寺の大龍和尚に参禅し、後に黄檗宗の本山宇治万福寺の隠元禅師に師事したが、1669年 長興山開発のため、稲葉正則に招かれ小田原に来て、紹太寺の開山となる。
1700年に死去しましたが、1712年の13回忌に朝廷から生前の功績をたたえられ、大慈普応禅師の称号を賜わった高僧。
寿塔は、貞享4年(1687)に鉄牛和尚の長寿を祝福して、その門人で紹太寺二世であった超宗和尚が建立した。
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小田原は、中世の平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な「藤原秀郷」の子孫、「佐伯経範」が1030年頃に秦野に移り住んで波多野氏を名乗っていた。
後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部。
波多野城は一族の居館である。波多野城のあった田原の、その支城として「小田原」が設置された。
平安時代の末期1180年に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らとの、石橋山の戦いが行われた。
戦国時代に入り、伊勢平氏流を称する「北条早雲」が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭し、
鎌倉府足利氏、関東管領上杉氏、常陸国守護佐竹氏、下野国国司宇都宮氏、が。
関東の統治体制を転覆した。下野国守護小山氏は後北条氏により滅亡に追い込まれていく・・・・・。
県西部における中心都市、城下町とかまぼこの街「小田原」。東京から東海道線で1時間半、新宿駅からも小田急ロマンスカーで1時間半という微妙な立地にある小田原の街は、箱根観光の通過点として沢山の観光客が訪れる。
小田急線とJR線は共同の駅舎で改札が隣り合っており近代的な駅である。私は、小田急改札口を出た。
私鉄小田原駅
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北条早雲 1432-1519 小田原北条氏初代、京都伊勢氏説。今川氏から下田興国寺城を奪う。後に大森氏の小田原城を、三浦・新井氏を滅ぼし
相模国併合。農民租税は四公六民とした。88歳の長生き。
北条綱成 1515-87 北条氏重臣、氏綱、氏康、氏政の三代に仕えた猛将であった。
北条氏綱 1486-1541 二代目早雲の子 扇谷上杉朝興を破り武蔵国を制圧、今川、里見氏を圧迫して領土拡張する、下総国府台で足利義明を 討つ古河公方足利晴氏に娘を嫁がせ傀儡化を図る。鎌倉鶴岡八幡宮再建。勝って兜の緒を締めよ、の言葉は有名。
北条氏康 1515-1571 三代目氏綱の子 関東南半を支配、税制改革と検地を推進した。
「河越の夜戦」は、三大夜戦の一つ。綱成が扇谷上杉・山内上杉氏・古河公方8万の連合の囲まれ、氏康は兵8千を何度か 出兵させるがすぐ退去させ、和を乞うて、相手が油断し、気の緩んだところに夜襲を掛けている。上杉は頼りない、再び 武田と同盟せよと遺言して没した。
公園全体図
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小田原城は、室町時代、大森氏によって築かれたのが起源と考えられている。この頃の小田原城の位置は、八幡山付近と想定されている。
1498年、北条早雲は伊豆を平定したのち、相模国への進出を目指して大森氏を攻め小田原城を奪い、北条氏は勢力の拡大と合わせて小田原城の規模を拡大していき、1590年に豊臣秀吉が小田原城を包囲した時には、全周9kmもの総構が城下町を包みこむまで発展した。
馬出門
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小田原城址公園及び、その近辺が、主要部。石垣を用いた総石垣造りの城である。
佐倉城や川越城などのように、土塁のみの城の多い関東地方においては特殊と言え、関東の入口としての小田原城の重要性が伺える。
現在のような総石垣の城になったのは1632年に始められた大改修後のこと。
本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、4方向の守りを固めていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出として機能した。
建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられている。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。
駅前にある「つちあげ」の碑 蓮池堀 堀
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二の丸総堀は平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がったものである。
三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、南側の天神山丘陵の尾根を走る空堀、そして最西端の小峰大堀切によって構成される。
小峰大堀切は中世城郭部最大の遺構である。東側へと伸びる八幡山丘陵、天神山丘陵、谷津丘陵が集まる点にあり、各丘陵と西側の山地部を切断している。
小田原の町全体をとりかこんだ、連続した空堀と水堀である。
山地部の空堀は小峰大堀切よりさらに西の小田原城最高所となるお鐘の台をとりこんでおり、ここから北西部の桜馬場、稲荷森の総構堀は比較的よく残る。平地部の水堀は消滅、あるいは暗渠化したが、南西部の早川口や東部の蓮上院近辺に辛うじて土塁が残る。
中世の城の規模では、驚く。
城前の堀と橋 めがね橋
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北条幻庵 1493-1589 早雲の三男 幼少で僧籍近江国三井寺で修行し、箱根権現別当金剛王院に、北条軍の一将で国府台の戦い、平井城
攻めに参加している。僧であり武将で文化人であった。北条五代に仕え、同家滅亡直前で97歳で逝った。
幻庵の作成した「鞍」、「一余切」尺八は、家康が所望したという。
馬出門から見た天守閣
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北条氏政 1538-90 四代目、氏康の長男、国府台で里見・大田連合軍を破る、武蔵国制圧し北関東へ勢力を伸ばす。長男氏直の家督を譲るが
実権を掌握、秀吉の上洛要請に応じなかった為に切腹、首は京の一条戻橋に晒された。汁を飯にかける氏政を見て
「北条家も終わりだ・・」と、父氏康は、嘆いたという。
北条氏直 1562-91 五代目、氏政の長男、本能寺の変後、上野国信長重臣滝川一益撃破し信濃国へ攻め入り、小県・佐久郡占領、甲斐国
で、家康と争うが鴻和し、娘督姫を娶る。名胡桃城を攻撃したため、秀吉の怒りを買い征伐され降伏する。
翌年、秀吉と謁見して、一万石を賜り大阪に住んだが同年30歳で没している。
城跡内の梅並木(3分咲き)
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北条氏規 1545-1600 氏康の五男 伊豆国韮山城主 秀吉との和睦に尽力、家康の竹馬の友、北条氏と徳川家の対立時は、氏規が講和に
奔走している。家康を信じて開城し降伏を勧告したが、約束は守られず、氏直は高野山へ追放され、兄の氏政と
氏照の介錯を命じられている。一度自殺するが失敗、高野山に幽居後、河内国7千石を賜っている。
城内から見た堀 井戸・ 馬屋曲輪付近に 雁木
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三国同盟は、1545年、今川、武田の連合軍が富士川を越えて北条が守備していた富士市に乱入。
北条軍は各地で惨敗し小田原に撤退した。氏康はこの地をばんかいするため今川義元が三河に出兵した時、駿河の留守を狙って乱入したが、武田晴信(信玄)が南下してきたため、あっけなく敗戦また相州に撤退した。
撤退して間もなく、今川義元の軍師から小田原城の氏康に和睦の申し入れがあった。
相・駿・甲の三国同盟の提案である。寝首を掻かれることも心配したが、同盟が成立すれば有利になることもあろうと同盟を結んだ。
婚姻を交わす。義元は正室に信玄の姉を迎え、義元は信玄の正室に公家の三条殿をめあわせ、その後、義元の長女は信玄の嫡男義信に嫁ぎ、北条氏政には信玄の長女黄院が嫁いだ。
今川義元が桶狭間の戦いで戦死してからは三国同盟も亀裂を生じ、女性三人はそれぞれ国元に帰っている。
昔の銅門
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二の丸御殿 城内には古木が
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小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀に見る規模の大きな縄張りを持った城郭であり、現在は鉄道、道路が、中央を分断されている。
銅門の土台石 壁の内臓
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堅城の小田原城,栄華を誇った北条時代も、平家時代と同じ諸行無常の運命にあった。
武田軍に、小田原城包囲、1569年1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している。
同年8月に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、滝山城などの北条方の拠点を攻撃したのち10月には北条氏康の小田原城を囲んだ。
当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城である。
篭城策は手堅く、武田軍は包囲を開始して4日後に城下に火を放ち軍勢を引き上げている。
「三増峠の戦い」は、1569年、神奈川県愛甲郡愛川町三増周辺、結果は、武田軍の勝利、武田信玄対北条氏照、氏邦で、武田軍勝利している。
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「関東の雄」と呼ばれた北条氏は、戦国時代随一の実力と勢力を誇る大名であった。
関東圏は独立した存在として考えられ、後に豊臣秀吉が北条氏を攻めたのは、北条氏の関東における存在感の大きさを無視できなかったためと考えられている。
北条市初代の北条早雲は、叔母が嫁いでいた今川氏の家督争いの解決を足がかりに関東を平定した下克上の見本といえる人物でした。
早雲の孫である北条氏康は、北条氏を最も栄えさせた大名であったといわれている。
税制をはじめとする行政の改革など、武力のみならず国力の強化にも努め、「領民含めて一枚岩の北条」を構築した名君であった。
本丸に一番近い堀跡 二の丸から本丸へ 石垣山方面
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北条氏康は1545年の扇谷上杉家の上杉朝定・関東管領の上杉憲政・古河公方の足利晴氏・今川義元の「北条包囲網」を切り崩して、朝定を討死させて晴氏に古河公方を引退させたが、上杉憲政(1523-1579)は越後の上杉謙信に支援を求めて落ち延びた1552年。
1550年代初頭、東国の有力武将として武田信玄・今川義元・北条氏康が突出した実力を蓄えて領土を拡大していくが、それぞれの軍事的計画を実現するために「甲・相・駿」の三国同盟を政略結婚を通して結ぶことに。
1552年には、今川義元の娘が信玄の嫡男・義信に嫁ぐことになり、1554年には北条氏康の娘が義元の嫡男・氏真に嫁ぎ、その12月に、武田信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぐことになる。
三者が相互不可侵の誓約を守る暫時的な同盟関係が成立した。(三国同盟)
珍しい「銅門」
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1546年、武蔵国河越城の戦い、北条軍の勝利、北条軍・山内上杉家、 扇谷上杉家、 足利古河公方。北条氏康、綱成、 多目元忠
上杉憲政、朝定、 足利晴氏。8万0000。
「河越城の戦い」は、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦い。
北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は、武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年から4度にわたる争奪戦が展開された。
有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の 1546年の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」。
北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。
本丸 城内へ
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「小田原評定」は、1590年豊臣秀吉連合軍が、北条軍の軍団がこもる小田原城を攻めた際、城中の北条氏家臣団の間で、戦い続けるのか降伏するかなかなか意見がまとまらず、いたずらに日時が過ぎて被害を大きくした。
秀吉連合軍は、箱根山中での持久戦を想定した戦略で、 小田原包囲 戦が始まると秀吉は、余裕を各方面に見せ付けるかのように、石垣山に石垣山一夜城を 築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。
大道寺政繁は、 嫡男を脱出させ自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に降伏。
相模湾方面 神社近くの曲輪北堀
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石垣山は、笠懸山と呼ばれていたが、1590年 豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになる。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われている。
実際にはのべ4万人が動員され、約80日間が費やされたという。
本丸を囲む石垣 駅側は発掘調査中 貴重な資料が
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箱根外輪山山麓の台地にある小田原城、土肥、小早川、大森、北条、大久保、居城。城下を堀と土塁で囲み総延長10KMの外郭の難攻不落を誇っていた。現在本丸近辺の発掘調査で立ち入り禁止区域もある。
庭園跡から出土したのは、池に水を引き入れるための石組水路や築山、庭石などで、礎石建物跡と石組水路の軸線がほぼ一致していることも分かった。石組水路には地元の風祭石や鎌倉石が使われているほか、五輪塔の火輪部分だけを貼り付けた護岸遺構も見つかっている。
発掘裏に弁財天石像が、 城山競技場方面、間に鉄道道路が
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「北条氏政・氏照の墓所」市指定史跡。 小田原合戦の責任を取って自害させられた4代氏政と弟氏照 (八王子城主)は、この場所にあった伝心庵に葬られ、後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまい、稲葉氏の時代に、追福のために作り直されました。
しかし、それも関東大震災で埋没し不明となり、翌年地元の有志によって復興された。
墓地内には、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石がある。
小田原駅に近い商店街の隅に
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北条氏の寺がここに
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「報徳二宮神社」は、明治27年 1894年、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、
翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に創建された神社。
二宮尊徳翁にあやかり学業成就・五穀豊穣・商売繁盛・経営などに御利益があるとされ、毎年多くの参拝者で賑わう。
城跡公園と隣接にある
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