湯島天神の春日通り・本郷三丁目見送り見返り坂・菊坂・東京大学赤門を過ぎると向丘町・漱石の猫の家跡がある。
「夏目漱石旧居跡・猫の家」は、文豪漱石(1867~1916)の旧居跡、住所千駄木。
イギリスから帰国後の明治36年から3年間住んだと云う。
この間、東京大学英文科・第一高等学校の講師として活躍する一方、 処女作「我輩は猫である」を執筆し、この旧居は作品の舞台。
「倫敦塔・坊ちゃん・草枕」等を次々に発表したところでもあると云う。
(家屋は愛知県犬山市にある「明治村」に移築)
「都内七富士」-江古田富士(茅原浅間神社)、音羽富士(護国寺)、下谷坂本富士(小野照崎神社)、品川冨士(品川神社)、千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社)、長崎富士(富士浅間神社)、十条冨士(冨士神社)
「冨士神社」 本駒込5,
富士神社はもと、旧本郷村にあったと云う。
1573年ー 本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請したと伝わる。
寛永6年の1629年、加賀藩前田候が上屋敷(現東京大学構内)を賜わるにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転。
東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。
社伝によれば、延文年間(1356~61)には既に現在の社地には富士塚と呼び、大きな塚があったといわれ、この塚は一説によると、前方後円の古墳という。
神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。
山嶽信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生し、旧五月末になると富士講の仲間の人々は、六月朔日(ついたち)の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行ったと云う。
富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。
富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来たと云う。
文京区内では「駒込のお富士さん」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」白山神社の「白山の富士」があった。
区教育 -郷土愛をはぐくむ文化財-より。
本郷村に鎮座した富士神社
「駒込天祖神社」
江戸時代には駒込神明宮と呼ばれ、駒込村の総鎮守として信仰を集めた社.
祭神が天照大御神であることから伊勢神宮の流れをくむ神明造りの社殿である。
社伝によれば、1189年、源頼朝が、奥州藤原泰衡追討の途中この当りに寄った折、夢で松の枝に幣がかかっているという神託があり、
家臣藤九郎盛長に探させたところ、松の枝に大麻が見つかった。頼朝は、神明を祀ったという。
江戸砂子によれば、直径4尺(1.2m)余の神木であったが、1716-36年、に枯れたと云う。
その後、宮守りもなく神社は跡絶え神木のもとに小さな祠のみとなったが、1648-52年、堀丹後守利直が再興したという。
昭和20年の空襲により焼失したが、戦後再建し、参道敷石の整備や大鳥居の建設、植樹などに心がけ、緑濃く落ち着いた雰囲気を持つ境内。
近隣には駒込富士神社が、初めは、この社で管理していたと云う。
駒込天祖神社
「藤九郎盛長」は、1160年の「平治の乱」に敗れ伊豆国に流罪となった源 頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉 幕府の樹立に尽力した人物。
盛長の父は、「尊卑分脈」魚名公孫によれば「小野田三郎兼広」で あると云う。
「神事」例大祭(9月16日に式典、前後の土曜日日曜日に町神輿渡御)氏子13町会の連合神輿が本郷通りに並び、一斉に宮入を行う。
神幸祭(4年に一度)大正11年に製作された本社神輿は、台座三尺八寸の千貫神輿とも言われる大神輿(本所・大倉竹次郎製作)と云う。
平成12年には氏子会の熱意によって修復され(本行徳・十六代浅子周慶)、44年ぶりに氏子区域内を渡御した。以来4年に一度神幸祭が行われている。
本社神輿は氏子13町会の全ての地域で引き渡されながら渡御が行われ見ごたえあり。
神事ー9月連合神輿宮入
「本郷山・浄心寺」江戸観音札所10番寺
1612年、徳川2代将軍秀忠の頃、畔柳助九郎氏が大旦那となり、還蓮社到誉文喬和尚を開山上人とし、湯島妻恋坂付近に創建。
その後、八百屋お七の振り袖火事として知られる江戸の大火により焼失し、現在の地に移転。
第二次世界大戦でも空襲に遭い、第23世住職・小池政雄和尚と千代夫人が檀信徒の協力を得て、復興。
政雄和尚は、江戸観音札所の第10番に指定されている「子育て桜観音」こと十一面観世音菩薩像、阿弥陀三尊像、四天王像、虚空蔵菩薩像等、
仏像の建立に力を注ぎ、戦争で受けた傷から右足をなくし「一本足の和尚」と呼ばれていた。
江戸観音33番は、第一番 金龍山浅草寺 台東区浅草・第二番 江北山清水寺 台東区松が谷・第三番 人形町大観音 中央区日本橋人形町
第五番 新高野山大安楽寺 中央区日本橋小伝馬町・第四番 諸宗山無縁寺回向院 墨田区両国・第六番 東叡山清水観音堂 台東区上野公園
第九番 東光山定泉寺 文京区本駒込 ・第八番 東海山花陽院清林寺 文京区向丘・第二十三番 金龍山大圓寺 文京区向丘
第十一番 南縁山圓乗寺 文京区白山・第十番 湯山常光院浄心寺 文京区向丘・第七番 柳井堂心城院 文京区湯島
第十二番 無量山伝通院寿経寺 文京区小石川・第十三番 神齢山悉地院大本山護国寺 文京区大塚 ・第十四番 神霊山金乗院 豊島区高田
第十五番 光松山放生寺 新宿区西早稲田・第十六番 医光山長寿院安養寺 新宿区神楽坂 ・第十八番 金鶏山真成院 新宿区若葉
第二十四番 長青山梅窓院 港区南青山 ・第二十二番 補陀山大本山永平寺別院・ 長谷寺 港区西麻布
第二十番 光明山和合院天徳寺 港区虎ノ門 ・第二十一番 大本山増上寺 港区芝公園・第二十八番 勝林山金地院 港区芝公園
第二十五番 三田山魚籃寺 港区三田 ・第二十六番 周光山長寿院済海寺 港区三田・第二十七番 来迎山道往寺 港区高輪
第二十九番 高野山東京別院 港区高輪・第三十一番 海照山普門院別格本山・ 品川寺 品川区南品川
番外 龍吟山千躰荒神殿海雲寺 品川区南品川 ・第三十番 豊盛山延命院一心寺 品川区北品川
第十九番 医王山東圓寺 杉並区和田 ・第十七番 如意輪山宝福寺 中野区南台・第三十二番 世田谷山観音寺 世田谷区下馬
第三十三番 泰叡山瀧泉寺 目黒区下目黒 。
本郷山・浄心寺 本堂
「諏訪山・吉祥寺」
曹洞宗の寺・本尊ー釈迦如来・開基ー青巌周陽・文化財ー絹本着色翠竹図、 二宮尊徳の墓碑、 榎本武揚の墓、 川上眉山の墓がある。
室町時代1458年、に太田持資(太田道灌)の開基で江戸城内に青巌周陽を開山に招いて創建。
道灌は、江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得、これを瑞祥として青巌を請じて西の丸に建立した。
山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによる。
戦国時代には古河公方足利義氏の実母で北条氏綱の娘でもある芳春院の位牌が安置されていたという。
徳川家康の関東入府にともなって駿河台(現在の都立工芸高校の周辺)に移り、明暦の大火と江戸大火によって現在の駒込の地に移転した。
吉祥寺門 釈迦坐像
「春日局」 1579-1643 三代将軍徳川家光の乳母・明智光秀重臣「斉藤利三」の娘
「山崎の合戦」で父利三討死、つらい少女時代を過ごす。小田原稲葉正成に嫁ぎ4男をもうけ離縁、26歳で家光の乳母、信任を集め大奥の実力者に。
家光よりも弟忠長を推す動きがあり、春日局は自分の手で育てた家光お思い駿府で隠居の家康に直訴している。
俗説ー家光は、家康と春日局の間に生まれたとも云う説。
因幡正勝はと養子の堀田正俊は、春日局のコネで老中まで出世した。
境内の梅 春日局御愛祈お地蔵さん
「八百屋お七・吉三郎の比翼塚」
八百屋お七ー1666-83 天和2年暮れ、お七一家は、大火で焼きだされある寺に避難している。その避難先で「生田庄之助(吉三郎)」と出会い結ばれ、家に戻ってからは、庄之助(吉三郎)に再開できず、再会するには放火を企て、実行してしまう。
放火で捕えられ火炙りの刑に処されたと伝わる。(歌舞伎狂言)
火炙るの刑は事実のようで、西鶴・鶴屋南北のどが大幅に脚色していると思われる。「お七」は、丙午の生まれで、丙午の女性は、近年まで、忌避されていたと云う。
八百屋お七・吉三郎比翼塚
「二宮尊徳」 1787-1856 通称金次郎 財政改革を請け負った農政家
相模国足柄農家に生まれ、16歳両親を失う、荒廃地の開墾に開墾し、その土地を小作人に出して大地主になる。農政改革家として名声を得る。
諸藩がら招かれ「財政改革」を推進し、56才で幕臣登用、少年時代は、働きながら夜に「論語」の読み書きに耽ったと云う。
「鳥居 耀蔵」1796ー1873 幕府ー江戸幕府中奥番、徒頭、西丸目付( 目付・勝手掛、南町奉行、勘定奉行勝手方 )・主君ー徳川家斉→家慶
氏族ー林家(大給松平氏)→鳥居氏 ・父母ー父林述斎、母前原氏・ 養父鳥居成純・兄弟ー林檉宇、鳥居耀蔵、林復斎 ・妻ー登与(鳥居成純の娘)
実父は大学頭を務めた江戸幕府儒者の林述斎。父方の祖父の松平乗薀は美濃岩村藩の第3代藩主である。
旗本鳥居成純の長女・登与の婿として養嗣子となり、鳥居家を継ぐ。弟に日米和親条約の交渉を行った林復斎が、甥に同じく幕末の外交交渉に当たった岩瀬忠震、堀利煕がいる。
榎本武揚(五稜郭に夢を見た英才)・川上眉山(小説家)・赤松則良 - 森鴎外と離縁し他家に嫁いだ長女・登志子も生家・赤松家の墓に葬られている。
二重・堂 二宮尊徳の墓碑
「旃檀林学寮」
江戸期には境内に後の駒澤大学となる学寮「旃檀林」が作られ、卍山道白が規則を制定して大いに繁栄し、幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となった。
多くの学寮・寮舎を備え、常時1,000人余の学僧がいたと云う。
各寮には学徳兼備の者が選ばれて寮主となり、寮主はさらに役員を選び、役員によって学問の指導や日常生活が合議によって運営された。
教科目は内典(仏教)と外典(漢学)で、江戸の中期以降は漢学が重視された。そのため僧侶以外でも、寺院に縁故のある旗本の子弟・寺侍が聴講した。
寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていたが、東京大空襲で焼失し、わずかに山門と経蔵を残すのみ。
現在は復興され、本堂、客殿、庫裏などが点在する。
鐘楼 本堂
次回は、駒込六義園へ
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