富士吉田は、県南東部に位置し、人口5万人の都市、「吉田うどん」で知られているが、絹屋町であった。
織物で栄えた下吉田の中でも、本町通り(国道139号)の東側には絹織物問屋が軒を連ね「絹屋町」と呼ばれていました。毎月1と6のつく日に市が開催されると、全国から商人が集まって軒先で取引を行い、夜は西裏のまちを楽しんだと言われています。現在でもこの絹屋町界隈は“商人の町”という情緒ある街並みの雰囲気を感じることができます。
「富士山」
北半分をとりまくように位置する「富士5湖」-噴火で流出した溶岩が谷を堰き止めてできた云われている。
湖には、富士山の伏流水が湧出する。富士5湖の不思議な現象に、山麓に訪れる寒気と共に、山中湖と精進湖には、氷が張る。
西湖・本栖湖(精進湖とほぼ同じ高さ)氷結しない。湖面の温度差が要因か。
月江寺から見た富士山

富士山を一周すると、静岡県田子の浦・富士市・富士宮・人穴・朝霧高原・田貫湖・山梨県の本栖湖・精進湖・青木ヶ原・西湖・河口湖・富士吉田
忍野八海・山中湖・陸上自衛隊(須走)・静岡県の御殿場へ。

6月上旬、富士山は、雪が。

「月江寺」ー富士吉田・山号ー水上山。
臨済宗妙心寺派 の寺・本尊ー地蔵菩薩・札所ー甲斐百八霊場第二十九番。

市域を流れる「宮川の北西岸」に立地。
「甲斐国志」によれば、かつては下宮浅間神社(現在の小室浅間神社)の祈祷所であった天台宗寺院で、称光院と呼ばれており、後に廃絶したという。
甲斐国では中世に臨済宗向嶽寺派の本山である塩山向嶽寺(甲州市塩山)が開かれ各地に臨済宗を布教させていたが、開祖抜隊得勝の法嗣である絶学祖能は都留郡下和田(大月市)で花井寺を開いた後、上吉田において祥春庵を開き、富士道者から勧進して称光院を再興したと云う。
「称光院」は、臨済宗寺院として月江庵と改め、向嶽寺に属し富士北麓における拠点として富士道者に旅宿と神符を提供する御師的役割を果たした。
甲斐国社記・寺記・では日本武尊以来の霊場であったとする伝承を伝えつつ、再興を室町時代の1395年、であるとしており、富士北麓の年代記である「勝山記」では、戦国期の享禄2年の1529年、月江寺住職が向嶽寺の輪番を務めた記録を記している。
寺領の寄進や安堵の書状は残されていないものの、1591年、には加藤光吉から下吉田に2石を寄進した加藤氏判物状の写があり、
「国志」によれば小林尾張守の孫某から田8石余を寄進され、1649年、将軍家光から寺領16石を安堵する朱印状を得たという。
江戸時代には下吉田の現在地へ移転する。寛永年間には江戸の海禅寺から禅心聖悦が入寺し、臨済宗妙心寺派に転派した。
祥春院や正覚寺など市域をはじめ各地に20か寺の末寺があり、10数軒の門前町を形成したと云う。
江戸期には、国学において廃仏論が主張され、月江寺では宝永3年の1706年、鎮守社としていた下宮浅間神社との鎮守争論が発生し、江戸後期には収束するものの明治初期に再燃し、県内では類例の少な廃仏毀釈の事例となっている。
江戸期、1726年、1836年、数次の火災により伽藍を焼失・江戸後期には伽藍が再建され、この際に造られた多くの「仏像」を有していると云う。

山門

本殿ー2010年再建

富士火山石が

六道地蔵尊

「六道地蔵尊」
浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた。
際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあり、また小僧姿も多い。
賽の河原で、獄卒に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、中世より仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めた。
関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われ、また道祖神(岐の神)と習合した為、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。

富士山湧き水

池

「新倉山 (1180m)」
「御殿 (1184m)」・「 霜山 (1307m)」・「三角点峰「木山」 (1582m)」・「木無山 (1732m)」
「三つ峠山荘・ 四季楽園 (1730m)・ 三ッ峠山 (1785m)・ 屏風岩・ 八十八大師 (1590m). 馬返し (1310m)・ 股覗き・ 大曲り (1085m)
達磨石 (950m)・ 憩いの森公園・ 神鈴の滝・ 山祇神社・ 三ツ峠グリーンセンター (650m)ー富士急「三つ峠駅」。
屏風岩ルート 前方新倉山。

「大正寺」ー寶松山と号し、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する寺院。
約750年前(文永年間)に祖門六老僧の随一源誓上人に創設・宗祖親鸞聖人御真筆の無碍光如来の画像を安置した草庵。
宮の下にあった。

文安年間の1440年、本願寺中興の祖の「第8世蓮如上人」が当地を御巡錫した際、藤原氏の末裔であった当国城山(本郡福地村字新屋の南にあり
城主の「遠山伊豆守重正」が蓮如上人に帰依し法名乗欽を賜り、その後、草庵に入り、ここを念仏道場として水石山新念寺と称したとある。
文安3丙寅年(西暦1446年、約560年前)

第三代住職正念の時、寺号を新福寺と改悟号・1627年、本堂と庫裏を焼失し、1644年、寺基を現在地へ移転。
第五代住職正意の時、1668年、
号を大正寺と改めた。

山門・鐘楼

親鸞像

初代より約560年、前身の草庵も含めれば約750年の歴史を誇る(現住職、第17代正尊)

十二代住職正観の時(文化・文政年間)に鐘楼と庭園を建立

次回も浅間公園へ。
織物で栄えた下吉田の中でも、本町通り(国道139号)の東側には絹織物問屋が軒を連ね「絹屋町」と呼ばれていました。毎月1と6のつく日に市が開催されると、全国から商人が集まって軒先で取引を行い、夜は西裏のまちを楽しんだと言われています。現在でもこの絹屋町界隈は“商人の町”という情緒ある街並みの雰囲気を感じることができます。
「富士山」
北半分をとりまくように位置する「富士5湖」-噴火で流出した溶岩が谷を堰き止めてできた云われている。
湖には、富士山の伏流水が湧出する。富士5湖の不思議な現象に、山麓に訪れる寒気と共に、山中湖と精進湖には、氷が張る。
西湖・本栖湖(精進湖とほぼ同じ高さ)氷結しない。湖面の温度差が要因か。
月江寺から見た富士山

富士山を一周すると、静岡県田子の浦・富士市・富士宮・人穴・朝霧高原・田貫湖・山梨県の本栖湖・精進湖・青木ヶ原・西湖・河口湖・富士吉田
忍野八海・山中湖・陸上自衛隊(須走)・静岡県の御殿場へ。

6月上旬、富士山は、雪が。

「月江寺」ー富士吉田・山号ー水上山。
臨済宗妙心寺派 の寺・本尊ー地蔵菩薩・札所ー甲斐百八霊場第二十九番。

市域を流れる「宮川の北西岸」に立地。
「甲斐国志」によれば、かつては下宮浅間神社(現在の小室浅間神社)の祈祷所であった天台宗寺院で、称光院と呼ばれており、後に廃絶したという。
甲斐国では中世に臨済宗向嶽寺派の本山である塩山向嶽寺(甲州市塩山)が開かれ各地に臨済宗を布教させていたが、開祖抜隊得勝の法嗣である絶学祖能は都留郡下和田(大月市)で花井寺を開いた後、上吉田において祥春庵を開き、富士道者から勧進して称光院を再興したと云う。
「称光院」は、臨済宗寺院として月江庵と改め、向嶽寺に属し富士北麓における拠点として富士道者に旅宿と神符を提供する御師的役割を果たした。
甲斐国社記・寺記・では日本武尊以来の霊場であったとする伝承を伝えつつ、再興を室町時代の1395年、であるとしており、富士北麓の年代記である「勝山記」では、戦国期の享禄2年の1529年、月江寺住職が向嶽寺の輪番を務めた記録を記している。
寺領の寄進や安堵の書状は残されていないものの、1591年、には加藤光吉から下吉田に2石を寄進した加藤氏判物状の写があり、
「国志」によれば小林尾張守の孫某から田8石余を寄進され、1649年、将軍家光から寺領16石を安堵する朱印状を得たという。
江戸時代には下吉田の現在地へ移転する。寛永年間には江戸の海禅寺から禅心聖悦が入寺し、臨済宗妙心寺派に転派した。
祥春院や正覚寺など市域をはじめ各地に20か寺の末寺があり、10数軒の門前町を形成したと云う。
江戸期には、国学において廃仏論が主張され、月江寺では宝永3年の1706年、鎮守社としていた下宮浅間神社との鎮守争論が発生し、江戸後期には収束するものの明治初期に再燃し、県内では類例の少な廃仏毀釈の事例となっている。
江戸期、1726年、1836年、数次の火災により伽藍を焼失・江戸後期には伽藍が再建され、この際に造られた多くの「仏像」を有していると云う。

山門

本殿ー2010年再建

富士火山石が

六道地蔵尊

「六道地蔵尊」
浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた。
際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあり、また小僧姿も多い。
賽の河原で、獄卒に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、中世より仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めた。
関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われ、また道祖神(岐の神)と習合した為、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。

富士山湧き水

池

「新倉山 (1180m)」
「御殿 (1184m)」・「 霜山 (1307m)」・「三角点峰「木山」 (1582m)」・「木無山 (1732m)」
「三つ峠山荘・ 四季楽園 (1730m)・ 三ッ峠山 (1785m)・ 屏風岩・ 八十八大師 (1590m). 馬返し (1310m)・ 股覗き・ 大曲り (1085m)
達磨石 (950m)・ 憩いの森公園・ 神鈴の滝・ 山祇神社・ 三ツ峠グリーンセンター (650m)ー富士急「三つ峠駅」。
屏風岩ルート 前方新倉山。

「大正寺」ー寶松山と号し、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する寺院。
約750年前(文永年間)に祖門六老僧の随一源誓上人に創設・宗祖親鸞聖人御真筆の無碍光如来の画像を安置した草庵。
宮の下にあった。

文安年間の1440年、本願寺中興の祖の「第8世蓮如上人」が当地を御巡錫した際、藤原氏の末裔であった当国城山(本郡福地村字新屋の南にあり
城主の「遠山伊豆守重正」が蓮如上人に帰依し法名乗欽を賜り、その後、草庵に入り、ここを念仏道場として水石山新念寺と称したとある。
文安3丙寅年(西暦1446年、約560年前)

第三代住職正念の時、寺号を新福寺と改悟号・1627年、本堂と庫裏を焼失し、1644年、寺基を現在地へ移転。
第五代住職正意の時、1668年、
号を大正寺と改めた。

山門・鐘楼

親鸞像

初代より約560年、前身の草庵も含めれば約750年の歴史を誇る(現住職、第17代正尊)

十二代住職正観の時(文化・文政年間)に鐘楼と庭園を建立

次回も浅間公園へ。
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