goo blog サービス終了のお知らせ 

syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

吉川広家と岩国城

2014-07-01 | 気まま旅

山陽本線で、広島から山口県岩国市に、最東端広島湾に臨む、岩国の名は、中世の荘園名「磐国・石国」と書いた。
「錦川」がつくる三角州からなる千拓平野、岩国湾に米軍基地・西海岸に錦川に沿って旧城下町になる。
「関ヶ原の戦い」後、「吉川広家」が3万石に移封されている。
藩は、殖産復興で千拓地を大造成し、又、紙・綿・米の「三白」を奨励した。
錦川の豊富な水を生かした政策であった。戦後も、石油コンビナート・重化学工業としといて発展している。
岩国と云えば「城と吉香・紅葉谷公園」で錦帯橋と夏の鵜飼と秋祭り「城攻踊・南条踊(無形民俗文化財)」などが知られている。

                                 JR岩国駅前


「史跡 鞍掛合戦古戦場」は、鞍掛山(240m)は戦国時代の古戦場。
1555年、安芸国の大名毛利元就は厳島の合戦で陶晴賢を滅ぼし、防長二国に進攻してきた最初の合戦が「鞍掛合戦」
大内氏の奉行三家老の雄、玖珂盆地の領主であった、3万石・鞍掛城主「治部大輔」「杉隆泰」は、部下2,600を率い、11月、毛利軍7,000を迎え討ち、
壮絶なる戦いを挑んだが、多勢に無勢、遂に部下の将兵1,370余と共に鞍掛山頂の砦をまくらに討死、落城。
城主杉隆泰、父入道宗珊の墓は「祥運寺」部下将兵は、山麓に三基の千人塚として合葬されている。(玖珂総合公園・岩徳線・玖珂駅)

岩国駅前西は、商店街、中通り商店街とその周辺に多数の商店が存在しており、商業の中心地。
駅周辺でのマンション建設などが著しい。2006年現在、貨物設備の跡地の一部が再開発中。
広島方面寄りにJR貨物の手で貸しビルが完成しており、テナントとしてヤマダ電機テックランド岩国店が営業。
1番ホーム寄りには、山口銀行岩国支店が2007年新築移転。
岩国市役所など公共の施設は1km程度離れた地域に集まっている。
駅東側は、「人絹町」と呼ばれる工業地帯と既存市街地である。
「人絹町」の由来は、帝國人造絹糸株式会社岩国工場が立地から。
南へ徒歩10分ほど行くとコンサートホールであるシンフォニア岩国が所在し、さらに進むとアメリカ海兵隊/海上自衛隊岩国基地がある。

日本三名橋「錦帯橋」  駅前国道2号線商店街が続く          錦川・臥竜橋付近で
    

吉川英治氏の小説『宮本武蔵』の一節
「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名は小次郎と親からもらい、また剣名を巌流ともよぶ人間は、かくいう私であるが、……。」
古くから佐々木小次郎がここ錦帯橋畔において柳の枝が燕を打つのを見て 燕返しの剣法「巌流」を自得したと言伝えられている。

          錦川の錦城橋を渡ると公園案内板と佐々木小次郎像・岩国城・鵜飼音頭の歌碑が


佐々木小次郎の碑と並んで「岩国城」・「鵜飼音頭」の碑、

                        「岩国城」
          桜吹雪が城下を染めて 瀬戸の内海春霞 吉川広家6万石 誉れも高き 岩国城 ツバメ返し柳の枝に 悟る小次郎 剣の技

                       「岩国鵜飼音頭」
          ハアー ちょいとおいで 錦帯橋に あの娘招くは 鵜飼の、、、、、。
                    
                           歌碑  
  

「岩国城」
慶長5年・1600年の「関ヶ原の戦い」に敗れた「毛利輝元」は、領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封。一族・毛利家存続に注力、毛利氏は領土を大幅に削減された。
「吉川広家」も、米子城から岩国に3万石で封じられた。

                       公園から見た岩国山城


岩国城主「吉川広家」
戦国時代後期 - 江戸時代前期 (1561年ー1625年)65才、別名ー次郎五郎、又次郎、蔵人頭 。
寺・洞泉寺。主君ー毛利隆元→輝元・藩ー周防岩国領主。
氏族ー藤原南家工藤流吉川氏 、父母ー父吉川元春、母熊谷信直の娘・新庄局 。兄弟ー元長、毛利元氏、広家、女(益田元祥室)、妻ー正室:宇喜多直家の娘・容光院。
                     吉川広嘉公銅像


「香川家長屋門」
岩国藩五家老の一つ、香川家の長屋門。1693年 香川正恒が建立した。
当時の武家屋敷の構えをよく残し、(山口県の文化財に指 定)

香川家には、この長屋門のほかに通用門、平時門などもあり、身分、用件などによって使い分けられていたことを伝承している。
香川家長屋門の設計・建設は、大工の大屋嘉左衛門が行ったと云われる。 

                    大工大屋嘉佐衛門の長屋門 
    

大屋嘉左衛門は、18歳で吉川広嘉の錦帯橋架橋事業に参加し、元禄時代の大橋(錦帯橋)の架替では頭領を務めた人物。
大屋嘉左衛門による 1699年 の図面は現存する最古の錦帯橋設計図で、平成の錦帯橋の架替事業(2002〜2004)は、この元禄期の設計図を規範として射る。
香川家長屋門が建築されたのは、大屋嘉左衛門が円熟期の38歳。
長年の風雪にもびくともしない、その重厚な頑丈な造りからは、当時の城下町に在住していた大工たちの技巧がいかに優れていたかが想像できると云う。

                         長屋門


「城ロープウエー」
乗車料   往復¥540   (錦帯橋周遊券 岩国駅~錦帯橋バス・入園・ロープウエー・割引券¥1150・岩国駅でも買える)

                                       ロープウエーから見下ろす景色は素晴らしい。

                   ロープウエー山麓駅~岩国城
    

関ヶ原の戦い、1600年の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が石田三成、安国寺恵瓊らによって西軍の総大将とされた。

広家は徳川家康率いる東軍に加勢するよう提言したが、三成らの裏工作で広家が知らないうちに輝元が担ぎ出されたとされる。
外交に通じた恵瓊は広家を嫌っており、主家に背いても東軍加担を主張する広家と、一たび事を起こした以上、西軍総大将の立場を貫くべきとする
恵瓊は大坂城で激論を闘わせたとされる。
あくまで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は、同じく毛利重臣である福原広俊と謀議を練り、恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で
朝鮮の役以来の友人である「黒田長政」を通じて家康に内通し、毛利領の安堵という密約を取り付ける。
一方で、安濃津城攻略戦では主力として奮戦し長政が一時顔色を失う局面もあったと云う。

からくり時計                    徒歩5分で城に
    

家康に内通していた広家は南宮山に布陣、総大将の毛利秀元らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを拘束した。
あくまで西軍に加勢しようとする恵瓊や長宗我部盛親、長束正家の使者が来訪するが、広家は霧の濃さなどを理由に出撃を拒否、秀元にも
「これから弁当を食べる」と言って要求を退けたと言われる。
これを指して「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。

                          天守閣から
    

吉川広家は、家督を「広正」に譲って隠居した後も実権は握り続け、1617年には、188条にも及ぶ領内の統治法を制定するなど岩国の開発に力を注ぎ、
実高10万石(最盛期には17万石とも)とも言われる岩国領、そして現在の岩国市の基礎を築いた。
寛永2年(1625年)に死去。享年65。

広家の次男で吉見広頼の養子となっていた吉見政春が後に毛利姓を名乗ることを許され、毛利就頼と改名して、長州藩一門家老の大野毛利家を創設している。

                         城内展示太刀
  

先代 吉川元長 安芸吉川氏歴代当主1587年 - 1614年 次代 吉川広正
吉川氏岩国領初代当主 (1600年 - 1614年)
岩国領主ー吉川広家1600-1614 ・ 吉川広正1614-1663 ・ 吉川広嘉1663-1679 ・ 吉川広紀1679-1696 ・ 吉川広逵1696-1715 ・ 吉川経永1715-1764
吉川経倫1764-1792 ・ 吉川経忠1792-1803 ・ 吉川経賢1803-1806 ・ 吉川経礼1807-1836 ・ 吉川経章1837-1843 ・ 吉川経幹1844-1867
吉川経幹1868 ・ 吉川経健1868-1871 ・ 廃藩置県 。

    城案内板                          米軍基地・岩国空港が
  

                  錦帯橋・吉香公園など次回で
    

次回も園内を。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。