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syuの日記・気まま旅

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駒ケ根・伊那、絵島事件の高遠城

2014-10-23 | 気まま旅

中央アルプス・木曽山脈最高峰、木曽駒ヶ岳・木曽駒。西駒とも呼び、36峰8千谷の名もある。高2931m。しらび平・千畳敷、氷河期の地形のカールが残っているは、ロープウエイ開設している。
駒ケ根市は、長野県南部・伊那盆地中央の市、天竜川が南北に貫通している。市名も駒ケ岳の麓にある所からきていると云う。
三州街道(国道153号)の宿場であった。駒ケ根高原は、東麓、北の天竜川水系の太田切川が流れている。
産業は農業で花卉・果実・山菜・米・薬用酒など。

「光前寺」赤穂北割にある天台宗の寺、山号ー宝積山。平安時代、本聖上人が開基。



本尊は、不動尊。武田家・徳川家の保護により江戸時代は100石の寺領を所有していた。

古記録-武田勝頼と織田信忠との戦いなど数々の罹災により失われたと云う。
貞観2年(860年)、円仁の弟子、本聖の開基と伝わる。創建時は現在より200メートル木曽山脈寄りのところにあったらしい。
天正慶長のころには武田氏、羽柴氏などの庇護を受け、また、佐久郡、諏訪郡にまでその寺領を広げた時期もあった。
江戸時代には、徳川家光から朱印地60石を受けた。明治に入り塔頭末寺の多くを廃されてしまった。

光前寺参道入り口


重文ー弁天堂(室町時代)・仁王門・山門・三重塔・本堂。
             仁王門                       参道
    

ヒヒ退治伝説の霊犬「早太郎の塚」がある。名勝ー寺庭園。

                         重要文化財 山門
    

   堂                手水舎                   本堂
    

「早太郎説話」
「早太郎の名」は、伝わる地方により異なり、遠江国では悉平太郎・駒ヶ根でも、疾風太郎という別名が伝わっている。
昔、光前寺に早太郎というたいへん強い山犬が飼われていた。その頃、遠江の見附村では、毎年田畑が荒らされ、その被害に困った村人は矢奈比売神社の祭りの夜に村の娘を人身御供として神様に差出し、これを鎮めていた。
1308年、この地を旅の僧侶が通りかかり、神様がそんな悪いことをするはずがないと祭りの夜にその正体を確かめると、現れた怪物が「信州の早太郎おるまいな、早太郎には知られるな」と言いながら娘をさらっていった。僧侶は、早速信濃へ行き、光前寺で早太郎を探し出し和尚から借受けた。
次の祭りの日、早太郎は娘の身代わりとなって怪物(老ヒヒ)と戦い、見事退治した。
戦いで深い傷を負った早太郎は、光前寺までたどり着くと和尚にひと吠えして息をひきとったと言われている。 早太郎を借り受けた僧侶は、早太郎の供養のために大般若経を光前寺に奉納した。
これは寺宝として経蔵に保管されている。また、本堂の横に早太郎の墓がまつられている。
遠江国見附村は、現在の静岡県磐田市見付である。この話が縁となり、 1967年から駒ヶ根市と磐田市は友好都市関係となった。

                本堂彫刻               霊犬早太郎の墓
    

                   重文三重塔                 早太郎の像
    

境内は、杉の林の中 樹齢数百年の巨木も多い。道隆式池泉庭園や築山式枯山水、築山式池泉庭園と三つの庭園があり、さらにはヒカリゴケが自生している。境内全域が、「光前寺庭園」の名で名勝に指定。

本堂 -1851年に再建、三門 - 1848年)に再建、十六羅漢を祀る。弁天堂 - 室町時代に建てられたもの(入母屋造。重要文化財。内部に弁財天と十五童子を安置。経蔵 -1802年に建てられた。唐破風造り。旅僧が奉納した大般若経が所蔵。三重塔 -1808年に再建された、約17メートルの塔。長野県宝に。
仁王門 - 安置されている仁王像は、1528年に作られたもので、駒ヶ根市の有形文化財に指定。賽の河原 - 三重塔南にある。三十体以上の地蔵尊が並ぶ。

                    石間から光の反射で光る苔
  

「太田切川」一級河川
木曽山脈・木曽駒ヶ岳を水源。
千畳敷カールからの中御所川、伊那前岳からの北御所川、空木岳からの本谷が合わさり、さらに駒飼池・濃ヶ池からの黒川を合わせ、東に流れて中央自動車道・国道153号をくぐり、天竜川へ合流する。
天竜川は太田切川合流点付近で大きく東側に蛇行しているが、これは太田切川が増水した勢いで天竜川の流路を押し出した結果と云う。
太田切川の源流は花崗岩地帯の雪渓で、川底に転がる岩石は大きく、かつ美しく、建築材料として利用。
源流から黒川合流点までの間の河川勾配は2分の1から5分の1という急勾配、それより下流は、勾配を緩め、河口に近付くと川幅が広くなり、砂礫が散乱した状態。

河川流量は常時流量8.0立方メートル毎秒と比較的多く、既往最大流量は160.4立方メートル毎秒で、降雨後増水までの時間は比較的短い。
駒ヶ根市や宮田村の広い範囲を潤す灌漑用水として利用、その一部は上水道用水。
上流では水力発電も行われており、現在は新太田切発電所・中御所発電所という2か所の水力発電所が中部電力によって運営。

太田切川は天竜川へ                三州街道一里塚碑(駒ヶ根)
    

中央自動車道を潜り、三州街道(国道153号線)を、塩尻方面に向かい権兵衛街道(361号線)突き当たりが杖突街道、県伊那市「高遠城址公園」
三峰川・美和湖がある。

「三州街道」信州塩尻で中山道から分かれ、伊那谷・飯田を経て、三河(三州)岡崎に至る街道(飯田街道・伊那街道とも云い、運送で中馬街道とも)
「高遠」長野県上伊那郡は、県中央部の天竜川支流三峰川・藤沢川・山室川の流域にある。
江戸時代は、高遠藩の居城があり上伊那地方の政治・経済の中心地として発展した。

 1000m級な山々 月蔵山は1100m・高尾山911m、、、。         高遠城櫓が
    

「高遠城」
平山城跡、高遠氏を破った「武田信玄」が、前線基地として川・断崖などの自然地形を利用1547年築城している。
江戸時代は、「保科・鳥居氏を経て1691年以降内藤氏が城主に。
高遠ダム周辺一帯は、ダム湖である高遠湖や、上流の美和ダム(美和湖)とともに三峰 川水系県立自然公園に指定,城址公園に通じる橋から高遠湖全景。

            三峰川と隣接の高遠城
    

高遠氏ー武田氏に、約10年、織田時代に毛利長秀が城主になるが3か月後「本能寺の変」で、木曽義昌が占領する。徳川家康と攻防の舞台となる。
木曽義昌撤退、江戸時代に入り、京極氏・保科氏・鳥居氏と交代する。
1691年内藤清枚(3万3千石)で入封し8代続く

城主は、-高遠氏、秋山氏、武田氏、仁科氏、下條氏、保科氏、毛利氏、京極氏、鳥居氏、内藤氏
  

「絵島事件」
生島新五郎との密通を疑われた。
事実であるかどうかは分からない。全くの冤罪であるという説、事実であったという説。中には、絵島が生島新五郎を大奥に入れるため、長持ちに潜ませて連れ込んだという話もあるが、これは疑わしい。

絵島は死罪。生島新五郎は三宅島に流罪。絵島の兄である白井平右衛門も妹の監督責任を問われて斬首。
絵島を山村座に案内した奥山喜内は死罪。山村座は廃され、座元の山村長太夫、作者の中村清五郎も流罪。絵島の弟とその子供は追放。
月光院派の女中たちは着物や履物を取り上げられ、不浄門である平川門から裸足で追放。
その他連坐刑も含め遠島・改易・永の暇を下された者は1500人以上だったという。
山村座以外にも、市村座、森田座、中村座、の3座にも風紀の乱れを理由にそれぞれお咎めがあった。
ただし、月光院の嘆願により、絵島本人については、罪一等を減じて、高遠藩お預けとなった。

江戸中期、流罪となった大奥女中「絵島」囲屋敷跡が残っている。
  

小説家田山花袋は、「高遠は、山裾の町古き町ゆきあう子等の美しい町」と歌っている。
高遠藩主内藤家に伝わった家宝の兜や高遠城をはじめとする郷土の歴史を語る資料を展示。
絵島囲み屋敷(絵島の暮らした囲み屋敷を当時の見取り図を元に復元したもの)併設。

名君保科正之公の像、母お静の顕彰碑もある。(保科正之は、徳川二代将軍秀忠の子で三代将軍家光の異母弟。
保科家の家督を継ぎ高遠藩主となった後、出羽山形藩主・会津藩主となり四代将軍家綱の後見人に。

桝形虎口形式の櫓門が建てられ長塀の囲まれていたと云う。保科正之公像が


高遠と云えば桜、4月初旬の問屋門付近、約1300本のコヒガン桜の満開は、天下一と云う。

           公園内にはいろいろ碑が建っている
    

「高遠城の戦い(古戦場跡)」
1582年、織田信長は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて、一気呵成の攻略に転じた。伊那口から嫡男信忠率いる5万の兵の進攻に、恐れをなした伊那谷の諸将城主は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。

時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落して追い返し、わずか3千の手兵をもって敢然としてこの大軍を迎え撃った。
古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われるが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわらず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、3千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。
城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁になげつけて果てたと古書は伝える。
武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。
高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後の場となったのである。

   傾斜の土塁                  古戦場跡
  

城は三峰川と藤沢川の合流する要害の地に、1547年 武田信玄が山本勘助等に命じて築かせた平山城。
構成は本丸を中心として東に二の丸、三の丸、南に南郭、法幢院郭、西は一段低く笹郭、勘助郭となっている。
これらは深い空堀によって隔てられ、周囲には高い土塁が築かれ、石垣は少ない。
明治2年 版籍奉還によって廃城となったが、土塁など多少改変された所はあるが、よく戦国的な城郭の構えをとどめている一つ。
城主は武田氏、保科氏、鳥居氏、内藤氏等である。
城内の三の丸には、「藩学校進徳館」の建物がある。
当時の規模そのままではないが、城内に残る藩校としては、全国でも例の少ない貴重なものと云う。
城跡と進徳館を昭和48年「史跡」に指定。

                 城内の神社(城主はここで戦勝祈願を)
    

「保科正之」1611-72 会津藩主、二代将軍秀忠の四男・高遠保科氏養子、四代将軍家網の後見役幕政の参画、会津23万石の藩祖・名君と称された。
父秀忠とは正式な対面は無いと云う、正之は大奥女中との子で認知しなかったと云う。見性院(武田信玄の娘)のもとで養育されている。
家訓15か条は、会津藩の基本法になる。

                谷深く攻めずらい高遠城
  

「会津藩15の家訓」
一、 大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
一、 武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱すべからず。
一、 兄を敬い弟を愛すべし。
一、 婦人女子の言、一切聞くべからず。
一、 主を重んじ法を畏るべし。
一、 家中風義を励むべし。
一、 賄を行い媚を求むべからず。
一、 面々、依怙贔屓(えこひいき)すべからず。
一、 士を選ぶに便辟便侫(べんぺきべんねい)の者を取るべからず。
一、 賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。
一、 近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。
一、 政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。 甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
一、 法を犯す者は宥すべからず。
一、 社倉は民のためこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれをすくうべし。 これを他用すべからず。法を犯す者は宥すべからず。
一、 若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、 土地を領せんや。必ず上表蟄居すべし。
右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり 。

本丸の 「太鼓櫓」
藩幕時代に時を知らせた太鼓があった櫓。

                  城内の太鼓櫓
  

城址公園の中は、二の丸、本丸、笹曲輪、南曲輪、法幢院曲輪の5地区に別れており、「無字の碑」、「靖国招魂碑」などをはじめ、記念碑、句碑、歌碑などが多数建っている。
新城藤原神社という小さな社もある。
                          城内の基礎台が
    

二の丸北側の入り口に立つ木製の看板。
「国指定史跡 高遠城跡 県指定天然記念物 コヒガンザクラ樹林 高遠城址公園 高遠町」と書かれていた。

                   古戦場となった白兎石橋
    

「廣瀬奇璧の句碑」ー 斑雪高嶺朝光鶯鳴いて居ー
高遠出身の鉱山業者で、高遠閣建設に尽力されたことで知られている廣瀬省三郎(俳号奇璧)の句で、遠く東の方、仙丈ヶ岳を眺めて詠んだものである。

題字の「嶽色江聲」は高遠出身の近代洋画界の奇才で、独特のスタイルをもつ書家でもあった中村不折の揮毫によるものと云う。
「裏面は河東碧梧桐の句碑」 西駒は斑雪てし尾を肌脱ぐ雲を
奇璧と交流があった河東碧梧桐の句で、西方、駒ヶ岳の残雪が、駒(馬)の姿に見えるようになった情景 

「荻原井泉水の句碑」- 花を花に来て花の中に坐りー昭和35年建立。

白兎橋から中央アルプス(木曽山脈)がよく見える。
  

「杖突峠」
伊那市高遠町と茅野市の境界にある峠。標高1,247m。国道152号が。
茅野(諏訪盆地、側は糸魚川静岡構造線による地溝によって直線距離が3kmに満たないにもかかわらず高低差が400m以上にもなる急傾斜)
道が険しいことから峠の名が付けられたとの説があるが、本当の名の由来は、杖突峠の南に位置する「守屋山」は諏訪大社のご神体であり、かつてこの峠では神降ろしの儀式が行われていた。
降りてきた神がはじめてその杖を突く場所がこの峠であることから、「杖突峠」という名が起こった。
峠は、晴ヶ峰の別名を持つ(名前の由来、「ハレ」の儀式が行われる峰)
茅野側の展望が良く、八ヶ岳を一望できる他、霧ヶ峰、美ヶ原、北には北アルプスの山並までの展望が望める。また眼下には諏訪湖を望むことができ、
夜景も楽しめる。信州三景観の一つ。戦国時代の武田軍の軍事上の要所として知られ、杖突峠を通る茅野 - 高遠 - 伊那の街道は、杖突街道とも呼ばれ古代東山道の一部であるとされていると云う。

                杖突峠から見た諏訪・茅野方面


「守屋神社」
神社の由来は相当古いと云う。祭神は、物部守屋。飛鳥時代、 大和政権の有力豪族だった物部氏と蘇我氏は、仏教を日本に 取り入れるかどうかで対立し戦争し、物部氏が敗れ去った。
その物部氏の長、守屋の鎮魂のため作られた神社だという。
古代の諏訪地方は、実は 日本の中でも先進的な場所の1つ。尖石遺跡に見られる ように縄文時代から文化が発展し、諏訪大社を中心に一つの 古代の「クニ」を形成していた。
大和との往来も盛んで、この杖突峠 の道は「東山道」として交通のメインルートだったと云う。
物部氏の影響は全国に及び、東北の福島県にも守屋神社が ある。相当な力があった。
おそらく古代の諏訪のクニと物部氏の、密接な関係がこの 神社を残したのであろう推測した。
戦国時代には武田や織田の軍勢が往来したこの道だが、はるか 昔の坂上田村麻呂の東北遠征の軍勢も、ここを通ったと言われている。
歴史深い峠・街道である。
                  山道の小さな守屋神社(参拝)
    

次回は、茅野・諏訪(湖)でこのシリーズ終了します。

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