syuの日記・気まま旅

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成東 城跡 落花生 栽培 発祥の地

2018-06-20 | 気まま旅
「日本武尊」 大和朝廷の勇者(生没年不詳)伝説上の英雄で、12代・景行天皇の皇子、王権強化のため、各地で賊と戦っている。
九州の熊襲・出雲建・東北蝦夷・東国各地遠征し帰りに死亡したと伝わる。魂は白鳥になり、人々は「白鳥陵」葬ったと云う。
静岡県焼津の豪族に襲われ、周りに火をつけられ時、尊は叔母から貰った守り袋の「火打ち石で」向かい火をつけ、敵を押し返され死んだと云う話は知られている。
「九十九里平野」
南北に約60km、東西に約10kmにわたる海岸平野で、九十九里浜の海岸線に沿って南西から北東に細長く延びる、弧状に曲がった細長い長方形。
北東端は、旭市の刑部岬付近から、南端はいすみ市の太東崎付近で、北側は下総台地、西側は房総丘陵に接する。
標高は、最高点でも10m以下で、海岸線と平行していくつかの旧砂丘列が見られ、現在平野となっている部分は、縄文海進の後に陸地が海側に拡大し作られたものであり、中世以前には玉の浦と呼ばれていた海であった。
そのため、現在でも平野に散在する池沼にわずかに含まれる塩分濃度が、内陸から海岸にかけて勾配を示すことが知られ、地表面には当時の堆積物の痕跡が見られ、弥生時代から中世にかけて顕著な海岸線の後退があり、水に恵まれていた中央部から北東側は早くからの稲作地帯。
北東端には椿海と呼ばれる湖があったが、江戸時代に干拓されて新田開拓が行われ、房総台地との境界が分水界となる南部の地域では、江戸時代に紀州漁民の入植があり、漁業によって発展、現在も海岸が後退し平野が拡大し続けているが、その拡大量は低下している。
この低下の原因は堆積土砂の供給源である利根川の河川改修の結果、流下する土砂が減少したことと、海食崖の屏風ヶ浦や大東崎での人間による侵食防止策の影響である。
「成東」は、九十九里平野の中央部に位置し、「日本武尊」が東征時、太平洋の荒波を見て「鳴涛」と名付けそれが「成東」に。
成東は、千葉県の中東、九十九里と下総台地にまたがっている。中世は、千葉氏の支配下・近世では「旗本領地」、両総用水が完成したのが1965年、
米作が安定したと云う。落花生栽培発祥の地・野菜・園芸・いちごも盛んに。最近になると工業団地が造成し、海岸では、潮干す狩りで民宿が増えている。東金寄りに「食虫植物の群落」がある。
                             観光マップ


「JR成東駅」
1897年の明治30年、総武鉄道の駅として開業している古い駅。明治40年、総武鉄道が買収され、国有鉄道駅・明治44年、東金線東金 で開業し、
昭和20年8月13日「太平洋戦争による空襲(機銃掃射)に遭い、駅に停車していた貨車に積まれていた高射砲四門と弾薬に引火、客車5両も焼失し、駅員や陸軍近衛第3師団将兵が消火作業に当たったが、爆発・炎上し、駅舎およびホームが全壊。
駅員15名、将兵27名の計42名が死亡した。駅前に慰霊碑がある。平成11年- 総武線快速電車乗り入れ開始。

                          JR総武本線成東駅ホーム

 
        昭和20年8月13日敵機グラマンの攻撃を受け犠牲者の 「礎の碑」

              
「勝覚寺」真言宗  947年創建  室町時代後期に再興したとある古刹

芭蕉は没後「俳聖」として崇拝、50年忌、100年忌と期にその崇拝者たちによって各地に芭蕉句碑が建立された。
勝覚寺の芭蕉句碑は、150年忌(天保14年)を記念して、3年早い、1840年に、俳諧愛好者たちによって建立されたもの。

       「ほととぎす鳴くや黒戸の浜ひさし」貞享3年の1686年の作・裏面には建立の中心となった勝覚寺44世真応など催主の名が。

                           芭蕉句碑


「荻生徂徠」 1666-1728 赤穂浪士を切腹させた儒学者、31歳で老中柳沢吉保の儒臣として召し出され、5代将軍綱吉に儒学を。
赤穂浪士では、法による処罰を論じた。「享保の改革」。

荻生徂徠は少年期を此処で過ごしている。その記録に、釈迦堂は、1326年鎌倉時代末期で、現在の釈迦堂は江戸中期に再建で「天竺」は、「毘首羯磨」
が彫った像を受け継ぐとある。ご本尊「釈迦如来像」が祀られている。

                          釈迦堂


「釈迦如来像」を守るように、像高2m強の「四天王像」周囲に安置は、伝説で仏師「運慶」が彫ったと伝わる。
その説話はいろいろ伝わっている。

四天王像高 持国天・213CM、広目天・204CM,増長天203CM,多聞天・207CM いずれも2mを超えている。
寄木造り彩色・玉眼が入っている。
                     持国天像(213CM)


「四天王」 仏教を守護する四つの神・東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天。

「空海」 774-825 真言宗開祖 讃岐生まれ。
空海の伝説は多く足跡は各地にある。がとりわけ四国に集中「88ケ所巡礼・四国遍路」今でも盛んである。
空海と共に修行「同行二人」帷子を着て巡礼。空海は、書は三筆の一人で著書多い。

                       空海巡礼像


勝覚寺に近い「御中主神社」
創建は高倉天皇の時代と云う。
承安元年の1171年、九十九里地方指折りの名社である。
源頼朝公・水戸光圀公・堀田相模守やその他の領主地頭からの崇敬が篤く、寄進も数多く受けていると云う。

       千葉一族の守り神「如見菩薩」 県佐倉市もあり、如見信仰が盛んな土地


                           社殿


「正福寺」 真言宗の寺

地域の108の氏子の手で厄除け大師108体が御堂に祀られている。

門前の脇には庚申塔がある。(奉祈造立石塔・現世安穏所・二人延宝八年庚申十月吉日 本須・院と刻まれている。)


「庚申塔・庚申塚」は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことで、 庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。 塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。

                        庚申塔


                         本堂




「成東城ー別名鳴戸城」
当地に勢力を張った千葉氏の家臣「印東四郎師常(南郷師常)」により、応永年間の1394年-1427年、築城されたと伝わる。
その後、城は一時廃止されたが、1530年、「千葉勝胤」により再興・子「胤定」が入り、「成東八郎」を称したと伝わる。
1590年、小田原征伐の際に成東城も落城し、同戦役後、二万石を以って成東に封じられた「石川康通、青山忠成等」が入城した。
1620年、青山氏が岩槻城に移封され、成東城も廃城。
作田川右岸の独立丘陵上に占地し、空堀および土塁により大きく五つに区画されていた。主郭は、愛宕神社が祭られる丘陵東端の郭と考えられ、台地に繋がる二方に土塁、堀が巡り、北西および南西に虎口が開く。
主郭北西には二郭が設けられ、西側に土塁が設けられている。
この二郭の土塁は南に伸び、主郭西方では主郭の土塁と合せ二重土塁を構成している。
二郭の西方には空堀を経て三郭が置かれ、北西面に土塁が設けられ、西端は櫓台状に広くなっている。
二郭および三郭の周りには、台地方面に空堀が巡る。
三郭西方では主郭西方と同様堀が二重となっており、その内外側の空堀は北に伸び、台地を遮断、三郭が主郭部であるが、台地北東端には複数の腰郭が設けられ、本行寺付近から主郭に至る城道を守る構造に、台地西端には横堀が巡り、台地全体に城域は拡がっていたものと考えられている。

                         別名 鳴戸城・平城


              印東氏・成東・千葉氏・石川康通・青山忠成  1620年廃城


「印東氏」
桓武平氏である日本の氏族・下総国印旛郡印東荘を領したことから、地名を名字とする。
桓武平氏良文流、上総権介平常澄の二男、印東次郎常茂(常義)を祖とする。
上総広常は常茂の八弟にあたる。上総氏。千葉氏支流と記載されることもあるが誤り。
子孫に伝わる異伝によれば平将門の子孫との口伝えもある。平良文が将門の叔父でありながら猶子となったことによる系譜か。源頼朝が挙兵した際、初代常茂は平家方、息子たちは源氏方へ付き、子孫は御家人として鎌倉幕府へ仕えたと云う。
鎌倉幕府成立後、房総平氏の総領であった上総広常が謀反の疑いで誅されたことにより、幕府内における上総一族としての印東氏の勢力は減退し、代わって千葉氏が房総平氏の総領となり、その被官となることを余儀なくされた。
宝治合戦では千葉氏と共に三浦氏方に与したため、所領の多くを失うこととなる。
鎌倉幕府滅亡後は、鎌倉公方足利氏、里見氏へ仕えた記録から。
江戸時代には南部藩(南部家)、前橋藩(松平家)、喜連川藩(喜連川(足利)家)、上総久留里藩(黒田家)、薩摩藩(島津家)へ仕官していることが資料からも判明している。
                        成東城跡公園入口


千葉氏の内紛「千葉 勝胤」 戦国時代の大名。本佐倉城城主・千葉孝胤の嫡男。
延徳4年の1492年、父孝胤が出家したため家督を継ぐ。
孝胤(又は祖父の輔胤)が古河公方の支援の下で千葉氏当主を名乗ったため、勝胤も千葉氏当主とされている(後期の千葉氏、詳細は不明)
古河公方足利政氏・高基親子と千葉孝胤・勝胤親子が不和となり、1502年、から1504年、にかけて政氏親子が千葉氏討伐に向かい、本佐倉城に近い
篠塚陣を拠点として千葉氏を攻めたが、両上杉氏の対立の激化によって和睦に至った。
その直後に発生した「立河原の戦い」では、勝胤は対立関係にある千葉守胤との対抗上、上杉顕定側について大敗。
1505年、子の昌胤の元服式は盛大に執り行われたことから、下総の諸豪族からは千葉氏当主としての支持を集めていたと思われている。
1509年、隠居し、子の昌胤に家督を譲ったが、実権は保持しており、古河公方家の内紛にも関与したとある。

                           本丸


                           土塁


                           土塁


                           空堀


                           老木


                      城の守りの  愛宕神社


                       中腹から街並みが


                        広場に


                     本行寺から隣接し、登り階段が


                           外堀は川に


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