syuの日記・気まま旅

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成東の浪切不動尊(海から見えた?)と野菊の墓

2018-06-22 | 気まま旅

「山武杉」千葉県山武郡山武町の山武杉は、ここから。
高さ50m以下の平坦な下総台地、単純地形の山武、が、林野率は高い、半分は林野その半分が、杉の人工林。
江戸時代は、80%を占めていたと云う。主は農業であるが、林は副業的地位ある。樹齢200年を超える杉の巨木がそびえている。
農業と製材業者と建具業者がいる農村地帯はないのでは。冬季低温と乾燥は杉の生育に良い条件と云う。育林の仕方に特色があり、初めに乾燥に強い
黒松を植え、数年後に挿し木によって育てた杉苗を松の陰に植える。
松は、日陰を提供し風や乾燥から杉を守り、この松・杉の二段杉で、松の幹が太くなり、10年め頃から松を伐リ始め、松薪に利用。
しだいに杉の純林に仕上がる。丹念に育った杉は、木目が詰み材質が良いと云う。江戸時代は、木材の市場が九十九里浜「上総戸」の名で出荷時期もあったと云う。成東・八街・・三武市に。

「浪切不動尊・長勝寺」
奈良時代の僧・行基が諸国行脚で、「成東」に立ち寄り、この近海に海難の多いことから海難除けの不動明王尊像を刻み、寺を建立したのが始まりと伝わる。江戸中期、この不動尊の常夜灯の明かりが荒波を切るように沖合の漂流していた漁船に届き救ったことから「浪切不動尊」と呼んだと云う。

「行基」 668-749 奈良時代の百済系渡来氏族出の僧侶 社会事業の高僧。
行基年譜ー僧院34・尼院15・橋6・樋3・布施屋9・船息2・池15・溝7・堀川4・道路など。僧侶から弾圧を受け、第二の行基は出なかったと云う。

                          長勝寺


                           山門


弘法大師が石塚山に移し開眠供養し寺を建てたとされ、山門をくぐり長い石段を登ると鮮やかな紅色の本堂がある。
ここから山武市成東の町並みが一望、県指定天然記念物の「石塚の森」の中腹に位置している。

                   九十九里海岸から見える不動尊堂


浪切不動尊 火渡り祭 煩悩を不動明王の智慧の炎で焼き尽くし、災厄を祓い清める厳かな火渡り祭は、9月
ほら貝を合図に、山伏姿の修験者により行われ、 弓矢、刀剣などの儀式が行われ、境内高く積まれた柴材に点火。
僧の儀式が終わると、一般の参加者が、燃え尽きた灰の上を裸足で各種の祈願を唱えながら渡り歩きます。

                           本堂


                         境内 毘沙門天


                         空海・弘法大師像


「本行寺」 長勝寺・城山公園と隣接している。
                            日蓮宗の寺                         


                         鐘楼


                         本堂


「伊藤左千代」 1864-1913 アララギ派歌人・小説家

明治22年「乳牛改良社」開業、明治31年35歳正岡子規と論争後37歳で門下、「山会」メンバーに。明治35年子規死亡・39年処女小説「野菊の墓」
ホトトギスに発表、
                   伊藤左千代生家付近のマップ


                    市民俗資料館(有料)


14歳で漢学を学び、18歳で明治法律学校入学、がその9月眼病で退学帰郷している。

                  明治18年、左千代22歳 家出


                 左千代と牛(錦糸町駅前で牧場時代)


                       記念館展示場


42歳で親鸞に傾倒し神崎の寺田憲と交友・ホトトギス島木赤彦・斎藤茂吉・中村憲吉・古泉千樫・土屋文明ら多くの門人を要請している。

                    正岡子規門下「中村不折」


左千代の原稿から
短歌の創作に非常に熱中しているころであった。予は一友と共に、滝の歌を作ると云う目的で、わざわざ日光まで遊びに行ったことがある。
第一に先ず華厳の滝壺へ降りてみた。只見るひた白に白に滝壺は、地軸もゆるぐ轟を間断なく続けている。・・・・・
岩角に取りつき、草にしがみつきながら、尻を滝壺へ向けつつ、あと去りの態度で、滝壺に達することを得た。・・・・。婦女界(白き印象)

                        生家


                        生家


                        生家


「茶室・唯真閣」
     正岡子規が「塵一つない」と無一塵なる扁額を贈り、左千夫は「無一塵」と命名したと云う。


「伊藤左千代記念公園」
山武市文化会館と隣接した公園で「野菊の墓」の二人の像が中央にある。

毎日七日なぬかの間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。
その翌あくる日に僕は十分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校へ出た。民子は、余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。
民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙はるけく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。

                          二人の像                        


成東と八街よ九十九里海岸「山武市」
八街地区は、「佐倉七牧開墾で、8番目の新田開発で「八街」。40mほどの下総台地とそれを刻む狭い谷津・東九十九里、西印旛沼低地の分水界をなすところ江戸時代、柳沢牧と小間子が開かれている。落花生が盛ん。

                         国道126号線が


「伊藤左千代記念公園」
                        野菊の墓の歌碑 


「境川・作田川」山武市を流れる二級河川。作田川水系作田川の支流。
県道121号と交差する境川は、水田の間を流れ山武市街を通り山武市富口付近で作田川に合流する。
名称の由来は、大和朝廷と蝦夷の地の境であったからだと言われ、日本武尊が命名したとされている。
日本書紀卷第七景行天皇四十年十月の条には「爰に日本武尊、即ち上総より転りて、陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路より葦浦に廻る。
横に玉浦を渡りて、蝦夷の境に至る。」との記述がありそれがこの地であると言われている。

                  二級河川   延長9.5km・標高29m


「賀茂神社、大杉」
山武成東インターの西北西約1.5km・作田川右岸の山裾に、賀茂神社が鎮座。
市天然記念物の大杉は、参道の途中。向かって右手。注連縄が掛かり、「御神木」の立札、樹齢500年以上で、足利義政(1436~90)の時代に植えられたと伝えられている。
                          神木


                    樹高 約35m 幹囲 約6.5m


松尾藩と松尾城
明治元年1868年、駿河遠江・徳川家達70万石は、新政府が移封で安房に国替えに。松尾藩の旧掛川藩が現在の山武市北部に移った。
当初「芝山・観音教寺」を仮藩庁としていた。4ケ村の村域に新たに城郭を構築し城下町を建設している。
明治3年藩庁と藩主の居城完成している。明治4年「廃藩置県」で廃城した。

次回は、佐倉へ。

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