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早川町と七面山

2013-10-16 | 富士山麓日記

七面山1989mから見た富士山と朝日(パンフレットより)


緑濃い山峡と様々な歴史、伝説を秘めた「早川」、天平時代の孝謙天皇が病気治療の為逗留し、大宝年間に「西山温泉」が発見されている。

「孝謙天皇」 718-770 聖武天皇の皇女、父の後を受け皇位につく「称徳天皇、名乗る」、仏教政治を展開、妖僧の弓削道鏡を引き立て
たことでで知られている。権臣藤原仲麻呂を除いて、道鏡一派による思いのままの仏教保護政治が成されたという。
後の光仁天皇が、官寺の僧の権限を削っている。

早川は、身延山、七面山の信仰によって栄えた「講中宿」が集中し歌人の若山牧水も訪れている。
また、松本清張は、「考える葉」で雨畑硯を題材にしている。かっては、金山開発で賑わっている。

早川町付近の案内地図                        公園下は早川
    

山梨県南巨摩郡「早川町」は、県南西端で、赤石山脈と巨摩山地に狭まれた「早川」沿いの山岳地帯にあり、堅最大の面積であるが95%山地
南アルプス巨摩県立自然公園と身延山域に属す信仰の山「七面山」など観光資源が豊富な地域。
特に江戸時代は、保金山をはじめ18か所に及ぶ鉱山で賑わったところ。
春木川の赤沢は、昔ながらの村落が残っている。

赤沢への下り道で最初に出会う寺が、「十万部寺」「妙福寺」、やがて視界が開け赤沢が姿を現す。四方を山で囲まれた山腹の宿場。

赤沢宿案内板


「久遠寺奥の院思親閣」は、日蓮聖人が9年の永きにわたり法華経の読誦と門弟たちの教導に終始した身延山久遠寺。
その身延山の山頂(標高1153メートル)に、奥之院思親閣があります。
日蓮聖人は身延在山の9年の間、故郷のことを思い出されては、西谷のご草庵より50丁の道なき道を登られ、遙かに房州小湊のご両親、師の道善房を追慕されました。奥之院思親閣は思親大孝の霊場で、日々多くの参詣者が訪れています。

白糸の滝・於万の方像案内板


信仰の山 七面山


雨畑硯の起源は2つある、1297年に、日蓮の弟子である「日朗」が七面山を開く際早川支流の雨畑川で蒼黒色の石を発見し、この石で良質の硯が作れると伝えたのが始まりとされている説と、1690年に、「雨宮孫右衛門」が身延山へ参拝した際に早川で黒色の石を発見し、これを硯にして1784年に将軍徳川家治公へ献上したという説がある。
どちらの説が正しいかは定かではないが、発見した石が「玄晶石」と言われる粘板岩であることは共通していると云う。

現在、硯の文化は衰退、雨畑地区で製造されている工房は「硯匠庵」1件のみとなっており、職人も1人のみと後継者不足に悩まされている。
一方で富士川町の旧鰍沢町域でも同じ岩石・製法で雨畑硯が作られており、こちらでは加工業組合も結成されているほか、数件の工房と数人の職人がいると云う。

七面山登山口                     赤沢宿 
    

赤沢宿は、日蓮宗総本山・身延山・七面山を結ぶ参道に位置する、美しい自然の中に中世集落の面影がある。

早川                     於万の方の碑        白糸の滝の奥の弁天堂入口
     

白糸の滝の階段


七面山の登山口に、「白糸の滝」がある。滝のそばに、お万の方の像が(家康の側室)、その奥に、雄滝弁天堂が。足場は、崖道。

於万の方は、長勝院 1548 -1620 戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。
江戸幕府の初代将軍徳川家康の側室。於万の方、小督局とも。結城秀康の生母。

「白糸の滝とお万の方」は、女性禁制だった七面山に初めて登った女性が、徳川家康の側室「お万の方」であった」
於万の方は、ここ白糸の滝でその身を清め「七面山」に参詣したといわれている。
七面山登山口を見つめている石像。

お満様の像                    滝              滝壺
    

富士川水系雨畑川・湖のダム湖、「雨畑湖」。
ダム型式 アーチ式コンクリートダム、流域面積 99.7 km²、湛水面積 0.6 ha、総貯水容量 11,000,000 m³、発電ダム、

雨畑湖ダム


トンネルを抜けると湖畔に、町営キャンプ場などがある。


「早川」は、南アルプス山域を流れ、芦安村の野呂川から下流の早川町を経て富士川に合流する長さ61kmある。川名は、流れが速いので
早川と呼ばれている。奈良田や湯島には段丘が、新倉や中富町飯富には広い氾濫原が分布している。水量も多く水力発電が盛ん、
西山・奈良田は古くから温泉地で知られている。

湖に出る途中の早川                砂利トラックが出入り
    

昔奈良田に腕の良い曲物「吾平ッ」職人がいたろっち・・・・売り歩いていた先に「琴路」と云う娘と恋仲になったが、親、親戚から地元以外のおなごと結婚はさせないと猛反対され、吾平の家では、きびしく息子に言い渡した。
「これ以上、その娘を家に入れては世間体が悪い。 たったいま、娘と別れろ」。吾平は困った。“どうしたら、いいかなあ(どうしたら、いいろ。)”と、思い悩んだ。
・・・琴路は、通い路の湯島峠の崖に渡した 丸木橋を渡って、ここにくるはずだ。そう思うと、意を決した。 恐ろしい覚悟だった。
のこぎりを懐にして、丸木橋に向かい、下から3分の1を切った。 これで橋は崩れるはずだ!急いで家に引き返すと、遺書を書いた。
自分を慕って通いつめてくる恋人の心根を思い、 今夜彼女の上に間違いなく降り掛かる辛酷な運命を思うと、 気がおかしくなりそうだった。そのまま家を飛び出すと、「西のはば」という断崖から、早川に身を投げた。

吾平は、遺書に書いた。“他郷の者と結婚させないという規則は、どう考えてもおかしい。この世で添えないならば、あの世で琴路さんと一緒になりたい。”

そんなことをつゆ知らぬ琴路は、いつものように丸木橋を渡り始めた。 ギシッ、嫌な音がした。 次の瞬間、丸木橋はまっぷたつに折れ、
琴路は谷川に転げ落ちた。19の、花の命は断たれた。

二人が亡くなった場所は離れていたが、不思議なことに、遺体は同じところに並んで上がってきた。村人は、“あの世で添い遂げたろ。”と、話した。
吾平の遺書によって、その後、奈良田では他郷の者と結婚してもよい、ということになったとさ。おわり。

人里離れた早川の上流
    

次回は、中富和紙の町へ。

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