syuの日記・気まま旅

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伊能忠敬 17年間43000kmの男 佐原

2018-06-17 | 気まま旅
江戸との交流によって、文人墨客達が「佐原の街に滞在」。

「伊能忠敬」 1745-1818 50歳で隠居し、天文学者高橋至時の門下となり「測量術」を習得、17年かけて全国測量を行う。
「大日本沿岸輿地全図」編纂する。

「山県大弐」 1725-67 尊王思想の先駆けとなった浪士で、甲府の与力の子として生まれている。27歳で浪人、儒学・兵学を講じて門弟を集め
「柳子新論」を書いて、尊王大義を説いた。幕府謀反の嫌疑を受け捕縛され、処刑された。吉田松陰らに影響を与えた。

「小林一茶」 1773-1827 俳諧師・俳人、信濃国の農民の子、15歳で江戸に出って奉公人に、「我と来て 遊べや 親の無い雀」8歳児の句
父死後、継母らと12年間遺産相続で争う。最後は大火で家を失いその土蔵で死の床に。

「松尾芭蕉」 1644-94 旅の俳諧師・俳人 伊賀国上野城下町で生まれる。23歳で俳諧師の道に、自立し「奥の細道」の旅に出る。
最後の句「旅に病んで 夢は枯野を かけ回る」大阪で客死した。

「渡辺崋山」 1793-1841 江戸後期の武士・画家、三河国田原藩士、後家老、蘭学に親しみ、「谷文晁」に画の才能を引き出される。また、朱子学
を学んでいる。昌平坂学問所にも通い「佐藤一斉」の指導を受けている。
(谷文晁 1763-1840 老中の武士・絵師・狩野派の画法を学ぶ・後半生は衰退期と酷評されている。)

「勝海舟」 1823-99 幕臣 本所生まれ、神戸海軍操練所長し徳川家存続に尽力、江戸無血開城した。

 「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」      忠敬没後3年目の画像


行動・功績は、異能の地理学者か地図学者の大先達。

                   伊能忠敬像


7歳で母に死なれた忠敬は、養子だった父は、実家に戻ると、一人残されて苦労したと云う。1762年18歳で佐原の伊能家の婿養子に入る。

                   街の中心的忠敬橋


伊能家は、米問屋・酒造・運送などを営む旧家であったが、「天明の飢饉」・凶作で、自家の米・金を供出し、家運は不幸続きであったと云う。
忠敬の勤勉な努力で実り、盛り返し、栄えたと云う。

             小野川・忠敬橋中心にした街並み地図


忠敬出生地は、県九十九里小関・海岸から3km入った農村、徳富蘇峰筆の碑が立っている。

                 小野川沿いの柳が年々大きく成長


「一身にして二生を経る」50歳を境に全く異なった分野で活躍を。

                  二人分の人生を送っている。












                     史跡ー旧宅と店舗


                       昔ながらの宿


忠敬の天文学的測量についての勉強は、家督を長男に譲り隠居し、江戸に出て「幕府天文方、高橋至時」の弟子になってからのものである。
高橋至時32歳・忠敬51歳である。
                         旧宅の土間


                          座敷


車の回転数から距離を算定する「量程車」が用いられた。



旅行日数、17年間・3700日を超え・距離約4万3000km・自費半分以上補足している。

                      山の頂上を基点


忠敬死後3年目にして「大日本沿岸輿地全図」は完成した。

                      明治以降も活用された。


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