旅の続きです。
「満福寺」は、744年僧「行基」が開山した寺、京都大覚寺派真言宗。
この寺は、源義経の腰越状で世に知られた寺で。源義経伝説を語る際、満福寺は絶対に落とすことは出来ない。
一の谷、屋島、壇ノ浦と次々に平家の軍を破って、平家を滅ぼすという大手柄を立てた源義経であったが兄・源頼朝とは方針が合わず、
1185年、源義経は平家の捕虜を同行し兄・源頼朝に面会するために、京から鎌倉へ向かったが、源頼朝は義経が鎌倉に入る事を許さなかった。
源義経は腰越の満福寺に逗留し、1185年、義経は一通の嘆願状(腰越状)を書き、頼朝の信望の厚かった公文所別当・大江広元に差し出し
申し開きをするが、それも空しく、ついに鎌倉の門は開かれなかった。義経はそのまま京へ帰り、奥州・藤原秀衡を頼って姿を消した。
4年後、再び満福寺に戻った時に、義経は一個の首に成り果てていた。藤原氏4代目・泰衡の裏切りによって命を落としたのである
「鎌倉七里ヶ浜」は、1333年 、鎌倉攻めの新田義貞軍が稲村ヶ崎の断崖の海岸伝いに鎌倉へ突入、この奇襲攻撃が功を奏して鎌倉幕府の滅亡に
繋がったという言い伝えがある。
1409年 義貞の孫の新田貞方が、侍所千葉兼胤に捕らわれ、七里ヶ浜で嫡子の貞邦と共に斬られている。
1498年 明応東海地震(M8.2〜8.4)による大津波が来襲。大仏殿流失の記録があるから、七里ヶ浜の損害も大と思われる。
1703年 にも元禄大地震(M8.1)による大津波が来襲。大仏殿が流失している。
江戸時代には江の島と鎌倉を結ぶ観光ルートとなり、観光客を相手とする茶店などが稲村ガ崎付近に立地し、七里ヶ浜から江の島・富士山を望む光景は
浮世絵などにも多く描かれるようになった。
江の島 稲村ヶ崎
「稲村ヶ崎古戦場」の今は、美しい公園になっているが有名な古戦場である。1333年の新田義貞の鎌倉攻めの際の、鎌倉への突破口となった所。
北条軍の強固な守りにより、新田軍は鎌倉へ攻めあぐんでいた。5月21日の深夜、稲村ガ崎に至り、岩頭に立って、竜神に祈ったと言う場はここであった。
義貞は潮の引いたのを見て、6万騎を率いて稲村ガ崎の岸壁沿いに鎌倉へ突入し、源頼朝以来150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのである。
新田義貞 1301-38 鎌倉攻略、足利尊氏に敗れと討死、遺児義顕や義興も南朝方に尽くし悲劇的な最期を遂げた。
「十一人塚」新田軍の鎌倉攻めの時、新田方の将・大館宗氏は大軍を指揮し極楽寺坂切通しに攻め入る。
ところが北条方の猛反撃で窮地に落ち、宗氏らは奮戦の甲斐なく討死、最後まで残った11 人も自刃した。
この霊を弔うため1862年、石碑が建立された。場所は稲村ガ崎から極楽寺へ通じる道沿い。側には「新田義貞稲村ケ崎古戦場入口」の石碑。
江ノ電「極楽寺」は、単式ホーム1面1線、駅舎はかなり古い木造駅、、1999年、関東の駅百選に選ばれた。ホームの有効長は85m(約6両分)。
「極楽寺」は、1561年成立の『極楽寺縁起』によれば、当寺はもと深沢(現・鎌倉市西部)にあった念仏系の寺院、開山は1259年、
北条重時が当時地獄谷と呼ばれていた現在地に移したものであるという。
ここに極楽寺が建てられたのは、現実には死骸が遺棄されたり、行き場を失った者たちが集まったりする「地獄」いう場所になっていたためとの指摘がある。
北条重時は、北条義時(鎌倉幕府2代執権)の三男で、北条泰時(3代執権)の弟にあたる。
重時は六波羅探題として17年間にわたり京都の最高責任者を務めた後に鎌倉に戻り、1247年から鎌倉幕府の5代執権北条時頼を補佐した。
1256年には剃髪して仏門に入り、観覚と号している。1261年に重時が没した後は、その子の北条長時(鎌倉幕府6代執権)北条業時が父の遺志を継いで、
極楽寺の伽藍を整備したという。
極楽寺駅 駅前 神の橋
寺に残る室町時代の極楽寺絵図と最近の発掘等をみると、中世の仁王門発掘の際、90cmぐらいある塑像の金剛力士像の足の部分が出てきたという。
裏の稲村ヶ崎小学校の敷地に方丈などの中心部が、まわりの谷々には法華寺尼寺など百を超える極楽寺の末寺が展開して後述する円覚寺の門前と、
極楽寺の門前にも多くの町屋が並び、一大門前町を形成していたと推測される。
極楽寺山門 庭園
次回は長谷寺方面へ。
「満福寺」は、744年僧「行基」が開山した寺、京都大覚寺派真言宗。
この寺は、源義経の腰越状で世に知られた寺で。源義経伝説を語る際、満福寺は絶対に落とすことは出来ない。
一の谷、屋島、壇ノ浦と次々に平家の軍を破って、平家を滅ぼすという大手柄を立てた源義経であったが兄・源頼朝とは方針が合わず、
1185年、源義経は平家の捕虜を同行し兄・源頼朝に面会するために、京から鎌倉へ向かったが、源頼朝は義経が鎌倉に入る事を許さなかった。
源義経は腰越の満福寺に逗留し、1185年、義経は一通の嘆願状(腰越状)を書き、頼朝の信望の厚かった公文所別当・大江広元に差し出し
申し開きをするが、それも空しく、ついに鎌倉の門は開かれなかった。義経はそのまま京へ帰り、奥州・藤原秀衡を頼って姿を消した。
4年後、再び満福寺に戻った時に、義経は一個の首に成り果てていた。藤原氏4代目・泰衡の裏切りによって命を落としたのである
「鎌倉七里ヶ浜」は、1333年 、鎌倉攻めの新田義貞軍が稲村ヶ崎の断崖の海岸伝いに鎌倉へ突入、この奇襲攻撃が功を奏して鎌倉幕府の滅亡に
繋がったという言い伝えがある。
1409年 義貞の孫の新田貞方が、侍所千葉兼胤に捕らわれ、七里ヶ浜で嫡子の貞邦と共に斬られている。
1498年 明応東海地震(M8.2〜8.4)による大津波が来襲。大仏殿流失の記録があるから、七里ヶ浜の損害も大と思われる。
1703年 にも元禄大地震(M8.1)による大津波が来襲。大仏殿が流失している。
江戸時代には江の島と鎌倉を結ぶ観光ルートとなり、観光客を相手とする茶店などが稲村ガ崎付近に立地し、七里ヶ浜から江の島・富士山を望む光景は
浮世絵などにも多く描かれるようになった。
江の島 稲村ヶ崎
「稲村ヶ崎古戦場」の今は、美しい公園になっているが有名な古戦場である。1333年の新田義貞の鎌倉攻めの際の、鎌倉への突破口となった所。
北条軍の強固な守りにより、新田軍は鎌倉へ攻めあぐんでいた。5月21日の深夜、稲村ガ崎に至り、岩頭に立って、竜神に祈ったと言う場はここであった。
義貞は潮の引いたのを見て、6万騎を率いて稲村ガ崎の岸壁沿いに鎌倉へ突入し、源頼朝以来150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのである。
新田義貞 1301-38 鎌倉攻略、足利尊氏に敗れと討死、遺児義顕や義興も南朝方に尽くし悲劇的な最期を遂げた。
「十一人塚」新田軍の鎌倉攻めの時、新田方の将・大館宗氏は大軍を指揮し極楽寺坂切通しに攻め入る。
ところが北条方の猛反撃で窮地に落ち、宗氏らは奮戦の甲斐なく討死、最後まで残った11 人も自刃した。
この霊を弔うため1862年、石碑が建立された。場所は稲村ガ崎から極楽寺へ通じる道沿い。側には「新田義貞稲村ケ崎古戦場入口」の石碑。
江ノ電「極楽寺」は、単式ホーム1面1線、駅舎はかなり古い木造駅、、1999年、関東の駅百選に選ばれた。ホームの有効長は85m(約6両分)。
「極楽寺」は、1561年成立の『極楽寺縁起』によれば、当寺はもと深沢(現・鎌倉市西部)にあった念仏系の寺院、開山は1259年、
北条重時が当時地獄谷と呼ばれていた現在地に移したものであるという。
ここに極楽寺が建てられたのは、現実には死骸が遺棄されたり、行き場を失った者たちが集まったりする「地獄」いう場所になっていたためとの指摘がある。
北条重時は、北条義時(鎌倉幕府2代執権)の三男で、北条泰時(3代執権)の弟にあたる。
重時は六波羅探題として17年間にわたり京都の最高責任者を務めた後に鎌倉に戻り、1247年から鎌倉幕府の5代執権北条時頼を補佐した。
1256年には剃髪して仏門に入り、観覚と号している。1261年に重時が没した後は、その子の北条長時(鎌倉幕府6代執権)北条業時が父の遺志を継いで、
極楽寺の伽藍を整備したという。
極楽寺駅 駅前 神の橋
寺に残る室町時代の極楽寺絵図と最近の発掘等をみると、中世の仁王門発掘の際、90cmぐらいある塑像の金剛力士像の足の部分が出てきたという。
裏の稲村ヶ崎小学校の敷地に方丈などの中心部が、まわりの谷々には法華寺尼寺など百を超える極楽寺の末寺が展開して後述する円覚寺の門前と、
極楽寺の門前にも多くの町屋が並び、一大門前町を形成していたと推測される。
極楽寺山門 庭園
次回は長谷寺方面へ。
4/1に行く計画を立てていました。
その日が忍性上人の命日で、その日だけ
お墓が公開されるからです。
かなり多くの参拝客がありました。
鎌倉は以前にも取り上げていますが、何度行っても趣ある所ですね。
京都もそうですが、やはり歴史ある所は嬉しいです。
matsubara様にはいつも多彩なブログで楽しませていただいています。