syuの日記・気まま旅

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塩尻から贄川関所 奈良井宿

2014-10-19 | 気まま旅
長野県塩尻市は、県中央部で松本盆地南端に位置。西に奈良井川・東に田川が流れ、日本海と太平洋からの「塩」運搬路の終着地である。
古くから関東、中京、の交通の要地であった。国府の松本に通じた「東山道」がある。
塩尻・本山・洗馬は、中山道の宿場駅、洗馬で分かれ北国西ー善光寺ー街道沿いに「郷原宿」があったと云う。
塩尻の産業は、大正末期に昭和電工が進出から、北広丘工業地帯が広がり、住宅地化と北奈良井川扇状台地の桔梗ヶ原で、葡萄・ワインの産地。

「平出遺跡」は、葡萄畑の桔梗ヶ原平出にある。(1952年史跡に指定)

               縄文時代・平安初期の集落が


「平出一里塚」
慶長9年(1604年)中仙道の両側に一里毎に塚が築かれました。(一里は約4 キロメートル)市内には、東山一里塚、平出一里塚などが現存しています。 東山一里塚 塩尻峠を越えて塩尻側へ下る最初の一里塚で現在は一基だけ雑木林の中にある。
平出一里塚は、遺跡の入り口付近に。

江戸日本橋を 基点として、36町を1里(約4km)として、1里ごとに道の両側に一里塚を築いた。
    

「平出の一里塚」は江戸から55里目の一里塚、中山道で唯一両方 の塚が残っているところ。(両方の一里塚には松が植えられている)


                  塩尻桔梗ヶ原の田園風景


                1949年昭和22年から発掘調査を始めた。
    

                 東西1km、南北300mに住居跡が点在
  

               縄文中期の竪穴住居47と古墳~平安期竪穴住居128が
高床倉庫・竈・土器・水瓶・鉄製鎌・炭化した穀類、、、、2万点出土し博物館で展示されている

                    奈良中期の瓦塔が発見されたと云う 


「贄川関所」
中山道の人と物の往来を監視するために置かれた贄川口留番所で、女改め、白木改めなどの役割を担った。明治はじめに取り壊されたが、多くの文献をもとに昭和51年に復元。実際の場所は鉄道敷地内になる。中山道の交通に関わる資料などを展示

木曽路は贄川宿から,
中世は木曽氏の北の要衝。この宿場の入口にあるのが贄川関所。
豊臣秀吉の時代、木曽材木の監視のため、南の妻籠番所とともに設置され、関ヶ原の戦いの後、木曽福島関所が設定されると、その副関として、“出女”を改めるようになり、木曽谷の領地は天領地・尾張領地へと変遷がありましたが、北の口留として、領内の貴重な木曽檜を使って造った曲物や漆器、木材の密移出など当時の統制物資の取り締まりにも目を光らせ、尾張藩の“北の番所”とも呼ばれた。
       
    

「奈良井」長野県楢川村・県中西部、
江戸時代は、奈良井千軒と称されたほど栄えた「中山道の大宿場」、現在面影を残した家屋が88軒ある。

    

二階の屋根との間に小屋根が突きだした独特の民家が軒侶連ねる。

「奈良井宿高札場」
高札場は、江戸時代、幕府が定めた法律などを人々に周知徹底させる目的で、掟、条目、禁制などを板に書き掲げていた場所である。
宿場町の高札場には、とくに宿継ぎの駄賃を定めた高札なども掲げられ、宿場間の距離を測る基点ともなっていたと云う。
奈良井宿の高札場は、京方の入り口にあたるこの場所におかれ、明治のはじめごろまで使われていたが、その後街道の廃止にともない撤廃された。
    

旧中山道沿いの街並みは、重要伝統建造物群保存地区に選定されている。
「鎮神社」疫病流行を鎮めるために下総香取神社から主神をまねいて祭祀をはじめたとされている。
    

現在でも江戸後期の家が残っている。
木曽路11宿の江戸側から2番目で、11宿の中では最も標高が高い。難所の鳥居峠を 控え、多くの旅人で栄えた宿場町は「奈良井千軒」
江戸寄りから下町、中町 、上町に分かれ、中町と上町の間に鍵の手がある。

「中村邸(市指定有形文化財)」天保の豪商・櫛屋中村利兵衛の屋敷。
間口が狭く奥に深い出梁造りで奈良井の宿場街道の典型的なお屋敷。天保8年の奈良井宿大火直後に建てられ、資料館として一般公開。
    

「水場」
奈良井宿の町並みを特徴づけている水場は生活に欠かせない生活用水の確保や、火災が発生した場合に連なる家々への延焼を防ぐために、
山からの豊富な沢水や湧き水を利用して設けられた。
中山道を歩く多くの旅人が難所鳥居峠を越えるために水場で喉を潤し、現在奈良井には六箇所の水場が整備、それぞれに水場組合を作り、維持管理を行っていると云う。



脇本陣上級旅籠「徳利屋郷土館」・「上問屋資料館」・「歴史民俗資料館」などがある。
第二次世界大戦がはじまり、食糧不足に,蚕の餌である桑をこいで麦をつくるようになった。(桑をこくのに奨励金がだされたと云う)
農家にとって、もっとも大きな現金収入であった養蚕はこうして壊減していった。戦後、一時復活するが、昭和20年代後半には、ほとんどおこなわれなくなったと云う。資料館より。



街道に沿って京都側から、上町、中町、下町の三町に分かれている。昔は、中町に本陣、脇本陣、問屋などが配置されていたと云う。
現在は、本陣跡は駐車場のようで、その片隅に「本陣跡」の看板が掲げられている。


「大宝寺」 キリシタン禁制時代のマリア地蔵がある。
臨済宗妙心寺派 広伝山.およそ400年前の天正10年に建立された寺で、江戸時代に現在の本堂が建てられ寺名を「広寺山 大宝寺」。
信州・木曽霊場・七福神めぐりの寺で、知恵と寿命を与える神−寿老人の霊場寺としても有名。

境内には、キリシタン禁制の江戸時代に抱かれた子供も、膝も頭部も破壊され、わずかに胸の十字架だけが残っている有名なマリア地蔵尊がある。
裏庭は享保年間につくられた嵯峨流の庭園。毎年6月頃に咲くツツジと、秋の紅葉は見事。



国道19号線が街並みの東側を通る。
水の奈良井宿に一軒だけ酒屋がある。「杉の森」平野酒造店は、歴史を刻む建物と共に、酒屋として100年近く営業を続けていると云う。

現在の平野酒造店の煙突から煙は、出ていないようだ。


次回は、木曽福島へ。

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