兵庫県赤穂城から東京高輪「泉岳寺」へ。
忠臣蔵は、 人形浄瑠璃(文楽)・歌舞伎の演目のひとつ。
また歌舞伎や演劇・映画の分野で、赤穂浪士の復仇事件 元禄赤穂事件に題材をとった創作作品。
(説)堀部安兵衛高田馬場の仇討も十八人斬どころか相手は僅かに五人、味方は四人。
討入り山鹿流の陣太鼓も、銅鑼であったと云う。
上野介が斬られたのは松の廊下ではなく大廊下。
豪酒家といわれる赤垣源蔵は全然酒を飲みません。
本所松坂町などという名の町は討入りの頃には無い。
一行が勢揃いした「楠屋というそば屋」はなく、勢揃いしたのは、「堀部安兵衛」の私宅。
討入りの正確な日は元禄十五年十二月十五日午前四時で、雪等は降らず月夜と云う。
地下鉄浅草線「泉岳寺駅」老舗そば屋さん。
汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として,,,,,,,,.。
久し振りの新橋駅下車。駅前広場は、「こいち祭」でテントで覆われていた。
「烏森神社」祭神、倉稲魂命(稲荷神)・天鈿女命・瓊々杵尊を祀る。
940年、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与え
その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げ、秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建したのが始まりという。
「烏森」の名は、昔、この地が江戸湾の砂浜で、「枯州」とも「空州」とも呼ばれていたとか、砂浜の松林に、烏が多く集まって巣が多かった。
飲食街の雑居ビルの中に「烏森神社」
「忠臣蔵」
元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)
播磨赤穂藩主の「浅野長矩(内匠頭)」が、「高家旗本・吉良義央(上野介)」に対して江戸城殿中において刃傷に及ぶも失敗し、
殿中抜刀の罪で即日切腹・赤穂藩改易となったが、浅野の遺臣である「大石良雄(内蔵助)」以下、「赤穂浪士47名(四十七士)」が
翌元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜に吉良屋敷に討ち入り、主君が討ち漏らした吉良義央を討った事件である。
「田村 建顕」 1656年ー1708年、改名ー宗永→建顕 ・別名ー千勝、内膳、修理 。
官位ー従五位下、右京大夫、因幡守 、主君ー徳川家綱→綱吉 。藩ー陸奥岩沼藩第2代藩主→陸奥一関藩初代藩主
父ー田村宗良・母ー貞岩院(山口重如の娘)、妻ー正室・松平近栄の娘・繁姫
「風さそふ花よりもなほ 我は春の名残を如何にとやせん」
元禄14年(1701年)3月14日、 赤穂藩主 浅野内匠頭長矩が江戸城殿中「松之大廊下」 に於いて高家 吉良上野介義央に対し刃傷に及んだ後、
陸奥 一ノ関領主 田村右京大夫 (三万石)に預けられ、 即夜、幕命により切腹をした。介錯人 磯田源太夫 享年35歳であった。
浅野内匠頭終焉之地
「松之大廊下の刃傷」江戸城本丸跡
3月14日、勅使、院使が江戸城に登城して将軍徳川綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上するという奉答の儀が江戸城本丸御殿白書院にて執り行われる予定になっていた。
同日巳の刻(午前9時過ぎ)、江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)において「吉良義央」と留守居番
梶川頼照が居合わせた所へ、突然、「浅野長矩」が「吉良義央」に対して背後から小刀にて叫び声をあげながら斬りかかった。
吉良は背後から背中を斬られ、「これはなんと」と振り向いたところを額を2回切りつけられ、気を失ってうつ伏せに倒れた。
梶川頼照がすぐさま浅野を取り押さえ、居合わせた品川伊氏(豊前守)、畠山義寧(下総守)ら他の高家衆が吉良を蘇鉄の間に運んだ。
「徳川綱吉」犬公方 1646-1709 五代将軍(家光の4男)
4代兄家綱に子が無く、35歳で将軍就任、「生類憐みの令」を、自身戌年天下の悪法と云われた。綱吉もまた世継ぎに恵まれず甥の家宣を養子に。
地下鉄浅草線・泉岳寺、 泉岳寺正面 寺の前に、四十七士の碑
1710年東海道の江戸に出入する人々を調べる為に作られた「高輪大木戸跡」先の交差点、角にビルの「高輪稲荷神社」。
正面に赤穂浪士四十七士・浅野家の菩提寺「泉岳寺」である。
「泉岳寺」
1612年徳川家康が創建し開府六ヶ寺の一つで、曹洞宗江戸三ヶ寺の一つに数えられている名刹。
「中門」
泉岳寺には三門と言って三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみ。
中門は、1836年に35世大龐梅庭和尚代に再建されたもの。
「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈による書です。
山門は天保年間に当寺34世大道貞均和尚によって建立され、二階には釈迦三尊及び十六羅漢が安置され、一階中央天井には我が国彫金の名匠、関義則の龍蟠が嵌め込まれていると云う。
浅野家上屋敷裏門であった「門楼」 泉岳寺中門
元禄15年12月14日吉良邸討ち入り、吉良義央の首級を挙げて主君の復讐を遂げ翌15日「泉岳寺」に引揚げ主君の墓前にその報告を成し遂げた。
幕府は、義士一党を細川家などに分ち預け、幕命を待った。判定は、元禄16年2月4日一党切腹を命が。
「泉岳寺」曹洞宗の寺院。
曹洞宗の本山は二つ、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、と横浜鶴見の総持寺。
1612年に門庵宗関和尚ー(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院。
1641年の「寛永の大火」によって焼失。
現在の高輪の地に移転、将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、
高輪に移転した「泉岳寺」は、現代に。
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のもので古い。
創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つ。
本殿 「額」
主な「四十七士義士の墓」は、大石内蔵助良雄、国家老、1500石(譜代)、討ち入りの指導者。享年45。
辞世は「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」。
大石主税良金、部屋住み。大石良雄の長男。討ち入りのときは裏門の大将をつとめる。最年少の同志。享年16。
辞世は「あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉」。
原惣右衛門元辰、足軽頭、300石(新参)、早くから江戸の急進派に同調していた。享年56。
辞世は「君がため思もつもる白雪を散らすは今朝の嶺の松風」。
片岡源五右衛門高房、側用人・児小姓頭、350石(譜代)、忠臣蔵では浅野長矩切腹の際に最後の対面、仇討ちを強硬に主張し独自の行動をとっていた。享年37。
堀部弥兵衛金丸、前江戸留守居、前300石、隠居料20石(譜代)、同志のうち最年長者。享年77。
辞世は「雪はれて思ひを遂るあしたかな」。
堀部安兵衛武庸、馬廻、200石、越後国新発田藩出身、旧姓中山、父の代に新発田藩を放逐となり浪人していたが、高田馬場の決闘での活躍により、堀部金丸の婿養子となり、赤穂浅野家の家臣となる。仇討ち急進派の中心人物。討ち入りでは大太刀を持って大いに奮戦したと伝わる。享年34。
辞世は「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば」。
吉田忠左衛門兼亮、足軽頭・郡奉行、200石役料50石(譜代)、浪士の中では大石内蔵助に次ぐ人物として、これを補佐、享年64。
辞世は「かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道」。
・吉田沢右衛門兼貞、部屋住み。蔵奉行吉田兼亮の長男。享年29。
・近松勘六行重、馬廻、250石(譜代)。討ち入りの際に負傷する。享年34。
・間瀬久太夫正明、大目付、200石役料50石(二代)。享年63。
・間瀬孫九郎正辰、部屋住み。間瀬正明の長男。享年23。
・赤埴源蔵重賢、馬廻、200石(譜代)。忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。
・潮田又之丞高教、郡奉行、絵図奉行、200石(譜代)。享年35。
辞世は「武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を」。
・富森助右衛門正因、馬廻・使番、200石(二代)。享年34。
辞世は「先立し人もありけりけふの日をつひの旅路の思ひ出にして」。
・不破数右衛門正種、元馬廻・浜奉行、元100石(譜代)、浪人していたが懇願して義盟に加わる。討ち入りでは最もめざましい働き、享年34等。
・寺坂吉右衛門信行は、吉田兼亮の足軽、3両2分2人扶持。足軽では唯一の参加者。討ち入り後に一行から立ち退いている。討ち入り時は38歳。事件後に幾つかの家に仕えた後、江戸で没。享年83。
中門裏 境内の松 澤木興道老師像
大石内蔵助吉雄銅像 大石主税9名は、この梅樹下で切腹。
赤穂浪士討ち入りのニュース、
ある商人は手紙に「江戸中の手柄」と書き記している。また、こんな落首が現れた。
「たのもしや 内匠の家に 内蔵ありて 武士の鑑を 取り出しにけり」、頼もしいことではないか。内匠の家(浅野内匠頭)に内蔵(大石内蔵助)があって、武士の鑑を取り出してきた。
このように、討ち入り直後は幕府、庶民共に討ち入りを忠義の行動と褒め称える声が圧倒的に多かったようだ。
堀部妙海尼の鉢植え梅が、、、、。
「柳沢吉保」 1658-1714 甲府藩主、徳川綱吉館林藩主からの小姓として仕え、綱吉将軍就任するとともに幕臣に登用された。
綱吉と同じ「戌年」、幕閣後は、駒込「六義園」で隠居。
田村邸内の血染の梅、血染の石
「吉良義央」 1641-1702 足利一族の名門吉良家で生まれ、高家、幕府の典礼を掌っていた。三河国吉良では、善政・名君で領民から税は、搾り取らずで必要なかったと云う。赤穂浪士襲撃を受け、吉良家断絶処分となる。
首洗井戸跡碑
「林信篤・鳳岡」1645ー 1732、江戸時代前期・中期の儒学者。
特に元禄時代の将軍・徳川綱吉 のもと江戸幕府の文治政治の推進に功績があったひとりである。
浅野長矩の墓と奥方の墓
義士墓入口の門
大石内蔵助の墓石
・松平家預けー10人、大石主税・堀部安兵衛・中村勘助・他
・細川家預けー17人、富森助右衛門・近松勘六・堀部弥兵衛・他
・水野家預け―9人、神崎兵五郎・三村次郎左ヱ門・他
・毛利家預けー10人、村松喜兵衛・杉野十平次・他
四十七義士の墓参拝する
「義士祭(冬)」は、 毎年12月14日。墓前供養 浅野長矩公之墓所 等、
「義士祭(春)」は、 毎年4月1日~7日 義士追善供養(本堂)等、 泉岳寺所蔵の寺宝を公開あり、本堂に入れるのは、義士祭(春)の時のみ。大石内蔵助の守り本尊でもある摩利支天(秘仏)や幕末の三舟・良寛和尚・藤田東湖などの書、お経文で描かれている蓮舟観音図などが観られという。
住職の筆「義」 赤穂義士記念館(有料) 本堂横にある鐘楼
「京浜国道」は、1885年(明治18年)の国道指定により、国道15号の前身。
明治時代、指定。明治の1号国道は、日本橋から横浜港に至る国道。
日本橋から神奈川までの区間は現在でも残っている旧東海道と同じであり、神奈川から先は万里橋を渡り、初代横浜駅前から、現在の国道133号を経て横浜港までの道路と同じ。この1号国道は、通称「京濱國道」と呼ばれ、
義士たちは、新橋からここか高輪、浅野家菩提寺「泉岳寺」に入った。
国道15号泉岳寺近辺
「江戸時代」豊臣氏滅亡し、戦国の乱世終焉し、天下泰平の時代が続く、政治は、老中・大老が中心とする幕閣であった。
家光の時代は、武家諸法度・参勤交代・鎖国・キリシタン弾圧など集団指導体制が機能していく、特に元禄文化は、浄瑠璃の近松門左衛門、
浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉など、今までは、貴族・武士が新興町人層が中心であった。
突然勃発した「赤穂事件」は、江戸住民を驚かせた。一説では、泰平に慣れた武士を「覚醒」させる効果を幕府は求めたと云う。
儒学者の見解
赤穂浪士の沙汰については、学者もそれぞれの意見を述べている。
赤穂浪士助命を唱えたのが聖堂学問所を取り仕切る大学頭・林信篤。
学問好きの綱吉は、将軍宣下を受けた翌月には林を招いて議論をし、その後、林家の私塾を湯島聖堂に移築して林を大学頭に任命。
旗本や御家人に朱子学を講義させたという経緯がある。
「昔から主君の仇はとるというのが人の道の大原則である。今、赤穂浪士に厳罰を加えれば、天下に笑われることはもちろん、忠義の道が廃れることは間違いない。」となる。林は赤穂浪士を忠義の士とし、助命を唱えた。
一方、綱吉の側用人・柳沢吉保のお抱え学者である 荻生徂徠 古学派は、林の意見とは対立。
「そもそも浅野が吉良を殺そうとしたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではない、吉良は浅野の仇ではなく、浅野は、殿中にも関わらず刃傷に及んだが打果せずに罰せられました。浪士たちは浅野の邪志を継いだ者であり、義士ではありません。」
と、赤穂浪士は「義士」とは言えないとしている。
次回は、長野県。
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