syuの日記・気まま旅

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土浦城 (亀城)

2013-06-28 | 気まま旅
「土浦」と云えば、1936年阿見町の、飛行予科練習生の「霞ヶ浦海軍航空隊」が置かれた所で、軍都、予科練の町である。

                若鷲の歌「予科練の歌」  昭和18年 (少国民の憧れであった)
           1、若い血潮ちしおの 予科練よかれんの 七つボタンは 桜に錨いかり
             今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦かすみがうらにゃ でかい希望きぼうの 雲が湧わく

           2、燃もえる元気げんきな 予科練よかれんの 腕うではくろがね 心は火玉ひだま
             さっと巣立すだてば 荒海越あらうみこえて 行くぞ敵陣てきじん なぐり込み

          
茨城県中心、近代的土浦駅前


1590年、土浦は、菅谷氏の支配を離れ、結城に本拠をもつ結城秀康の所領となり、土浦城には代官が置かれた。
秀康が1601年に越前転封後、領主は松平信一・西尾忠永・朽木植綱と代ったが、1669年、「土屋数直」が土浦城主となった。
その後一時大河内松平氏の支配があったが、それ以外は明治維新まで約200年間土屋氏の支配が続く。

城下の整備が本格的に開始されたのは松平氏の時からで、水戸街道を城下に取り込みその沿道に田宿町・中城町・本町・中町・田町・横町などを造成し、櫻川に銭亀橋、堀川に簀子橋旧櫻川に櫻川橋の3橋が架橋され、武家屋敷として勝軍木郭・西郭が造られた。
1716~36年、の土浦城郭図によると、城下の武家屋敷と町家とは水堀によって明確に区画されている。
土浦は、水戸街道・霞ヶ浦・桜川などを通じて商業が盛んで、1836年の町奉行より伺有之承届に「中城町分駒市 三月十一日より十五日迄」「東崎町分大市 十月廿一より廿五日迄」とあるように、駒市・大市が開かれていた。

県南部、霞ケ浦土浦入りに面する市


「琴平神社」は、江戸時代神社境内に「沼尻墨僊」1775~1858年、開いた寺子屋があった。
墨僊は号で、名を一貞、常治と称し、土浦藩士の太田留蔵・広瀬克斎に師事し、沼尻修平に筆法を学んだ。
多芸多才で天文学・地理学に業績をあげ、物理学・土木技術に通じ、漢詩・書道・絵画にもすぐれていたという。

1803年、寺子屋ははじめ「時習斎」と称したが、のちに「天章堂」と名を改め、 墨僊は温厚・誠実な人柄で、指定を懇切丁寧に教えた。
そのため遠近から墨僊を慕って入門するものが多く、県南地方最大の寺子屋となった。
墨僊の没後、寺子屋は子の墨潭、のち中條氏と改姓、1871年まで続いた。

戦国時代から城下町と水運、水戸街道宿場町
    

市名は、桜川の三角州が土で出来た浦であるからと云う。北部に工業団地、南部に住宅地、県南の中心都市である。
レンコン生産は、全国一を占め、霞ケ浦のワカサギ加工佃煮も知られている。
現在、筑波研究学園都市の玄関口として発展を続けている。

レンコン生産全国一、ワカサギの佃煮で知られている
    

「土浦城・亀城公園」

平安時代、938~47年に「平将門」が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かではない。室町時代から安土桃山時代に入り、文献上
確かなのは室町時代、1429~1441年に常陸守護、「八田知家」の後裔、豪族の小田氏に属する「若泉三郎」が築いたのが初め。
1516年に小田氏の部将「菅谷勝貞」が「若泉五郎右衛門」を滅ぼし、その家臣 「菅谷某または信太範貞」が城に入った。
後、菅谷氏が(勝貞、政貞、範政)の三代にわたって土浦城を守った。
戦国時代に佐竹氏は、常陸に勢力を広げると、佐竹によって本拠の小田城を追われた「小田守治」が入城。

戦国時代が終わると、土浦は、「結城秀康」のものになり、小田氏はその家臣になった。
代わって「多賀谷村広」が城代を務める。
1601年に秀康が越前国に転封になると、藤井松平氏の「松平信一」が土浦城に入った。
信一と子の信吉が、現在の城のおよその形を作ったと考えられている。
(1986年の発掘調査、戦国時代に本丸で大きな火災があったことが判明)

1429年小田氏家臣「若泉三郎」が築城


「小田守治」は、1557-1610、戦国時代の武将。常陸小田氏の一族。小田氏治の嫡男。通称・彦太郎。長男ではないが、兄友治が庶子の為に、守治が家督を継いだ。
豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、所領を没収された。その後、妹が結城秀康の側室になっていた縁からこれに仕えた。
関ヶ原の戦いの後、秀康が越前への転封となると、これに従ったという。

小田氏治(常陸の不死鳥)、小田氏15代最後の当主で宇都宮氏の一門、30年常陸の防衛に努め、最期は、越前浅羽で69歳没
扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方・連合軍(8万)と埼玉河越城の北条綱成軍、小田原北条氏康軍が夜襲攻撃(日本三大夜襲)で
北条の勝利し関東を決定的とした。小田氏は、上杉・足利軍と共に敗れている。


土浦駅北約1Km、中央にある城跡
  

昔は、五重の濠、土浦城は水城
    

江戸時代になると、1617年に「松平信吉」が上野国の高崎に転じ、土浦には「西尾忠永」が入った。
忠永の子忠照は、1620年から7年かけて西櫓と東櫓を作らせ、1622年には本丸の正門を櫓門に改めた。
これにより本丸は水堀と柵つきの土塁、三つの櫓で守られるようになった。
1649年に「西尾忠照」は、駿河国の田中に移った。かわって「朽木稙綱」が城主となり、1656年に櫓門を現在ある形の太鼓櫓門に改築。
658年に、英庫と焔硝倉を建造した。

1669年に「土屋数直」が入った。
土屋氏は元来武田氏の家臣で、武田氏の滅亡後家康に仕え、数直の代に大名になった。
松平信興の時代と以後江戸時代を通じて土浦城の主は「土屋氏」であった。
1682年から1687年の5年間、松平信興が城主で、信興は、兵庫口と不破口を作り、門を建てた。
また、本丸の霞門を改築し、翌年にかけて水戸口の虎口を改良して二重丸馬出虎口としたと云う。

霞ケ浦に近く水には恵まれていたのであろう
    


小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、小田氏治は小田城を逃れてここ土浦城に 入った。
手這坂の戦いで真壁 軍に大敗して勢力を失う。1570年頃。1590年の豊臣秀吉による小田原城の後北条氏征伐の際に土浦城は菅谷範 政が拠っていたが徳川家康の家臣本多忠勝に接収され、家康の次男で秀吉に養われた 結城秀康の領地となる。

    

廃藩置県の1873年、太政官符令第84号で土浦城は廃止。
本丸御殿は新治県の県庁、後に新治郡の郡役所として使われ、本丸の他の建造物もほとんど残されたが、土塁上の塀は取り壊され、二の丸以下の建物は外丸御殿を除き取り壊され、堀が埋められた。
1884年(明治17年)に火災で本丸御殿が失われ、このとき損傷した本丸東櫓と鐘楼が撤去。
1899年(明治32年)に本丸と二の丸南側が亀城公園となる。

櫓門と堀 城門を瓦葺き母屋造平層に
    

平地にあるので、土浦の街を天守閣から一望は出来ない
    

土浦・つくばの銘酒(平成5~6年時)土浦、細野文(水郷娘)。つくば、安井酒造(住の江、剣正宗)。稲葉一衛(男女川、神仙)
浦里酒造(福笑)。





次回は、つくば牡丹園へ。

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