JR常磐線牛久駅下車、つくば市若栗の「つくば牡丹園」へ向かう。牛久は、茨城県南部、牛久沼の東に接している。
牛久の名は、泥深く牛をも飲み込む「牛食沼」から「牛久沼」となったと聞く、江戸時代は、城中が牛久藩「山口氏」1万石の城下町で、
水戸街道の宿駅として発展、我が国葡萄醸造の発祥地でもある。
牛久駅からつくばエクスプレス「みどりの駅」行で20分に牡丹園はある。
牛久と筑波の中間に「つくば牡丹園」が
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円内は、すり鉢状の池の眺望が美しい、敷地には550種のp牡丹を始め200種の芍薬を植栽されている。
ツツジ、サツキ、アジサイ、シャガなどが組みあわせられ四季の庭として楽しめる。
牡丹は、遣唐使により中国から渡来され、江戸に入り鑑賞用として広まっている。鉢植えでも楽しめ、身近な花になっている。
野菜、果実農園と牡丹の葉で作ったお茶も飲める(有料)
人間の顔ぐらいある大きな牡丹の花
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立てばシャクヤク座ればボタン…。という文句がある。日本でも昔から美しい花の代表の一つ、中国でもボタンは「百花の王」と呼ばれている日本には平安時代に伝えられたといわれている栽培の歴史の古い落葉性の花木です。
草丈は大きくてもせいぜい2mほどで、花は大きく、重たそうにたくさんの花ビラをつける。
花色は白、赤、紫色、黄色などなかなか豊富。品種として正式に名前の付いているものも星の数ほどあるという。
平日で、園内は2~3組でのんびり鑑賞できた。
花職人の園長は、オリジナル堆肥を開発し販売していた。花の病気を治すカギは土、堆肥をいろいろブレンドして、花・野菜に良い堆肥が出来たという。(4kg、525円)
入園料は、800円
濃い緑の園内に牡丹畑が
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武将の「栗林義長」は、女化原の狐の子孫、と云われた、栗林下総守義長。
歴史上の実在の人物で、室町時代末(戦国時代)、つくば市南部・伊奈町・牛久市を本拠に活躍していたとされる。
伝説によると、栗林下総守義長は戦国時代の岡見氏の重臣で、「関東の孔明」といわれた知略家で知られている。
栗林義長の詳細は不明ですが、「女化原の狐の子孫」であるという「伝承」が残されている。
城跡の小高い裾野を牡丹園に
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「若栗城 つくば市若栗」城は、旧茎崎町の北西端辺り、興南橋を渡ってすぐ右手に見える、比高10mほどの台地の先端部にあった。
「つくば牡丹園」の北側の台地。
この台地は南西に向かって突き出した舌状のもので、先端部がかなり細くなっており、稲荷社が残っている。
連郭式に3郭が並び、1郭と2郭との間には、幅10mほどの広い堀がある。この堀の北西側に、櫓台のような独立した高まりがある。
この堀は深さ2mほどで、幅のある割にはさして深くない。埋められたのだろう。
2郭は、広大な3郭と続いている。
3郭と、台地基部との間には食い違いの土塁が残っており、ここが虎口であったと思われるのだが、空堀などは残っていない。
土塁だけではいかにも守りが貧弱である。
ここも埋められてしまったのだろうか。この部分も含めて、全体に大分改変されている気がする。
郭内は山林化しており、耕地整理が行われたという感じでもない。なぜ、遺構がこのようになってしまっているのか、謎という。
若栗城は「東国闘戦見聞私記」等でおなじみの「栗林義長」の居城といわれている。
[岡見系図」に「栗林吉(ママ)長は若栗城を居城とした」といったことが載っている。栗林義長の城としては、全体に小ぶりで守りも貧弱な気がする。栗林義長の城であるなら、小さすぎる。
城跡は、雑木林に、
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城は、平将門の叔父良正の居城があったところで、水守の営所と呼ばれていた。
その後城の動向がどうであったか明らかではないが、現在残る土塁や堀の遺構から考えると、少なくとも室町時代くらいまでは用いられていたのではないかと推測。
比高20mほどの台地が城址で、周囲の田は堀の跡で、主郭部分の北側と南側に大きな土塁、古墳を利用したような土塁である。
特に北側の桜塚と呼ばれる土塁は物見台のような形態となっている。
手入れされず、周囲はすっかり雑草に覆われているが、現在、牡丹園で、美しい花の庭になっている。
濠跡を池にしたのか?
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これで、水戸街道は終わります。
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