syuの日記・気まま旅

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殿ヶ谷庭園 春の七草 秋の七草

2019-03-10 | 季節だより
「武蔵国」は、古代から使われ旧国名ー埼玉・都・神奈川(川崎、横浜の一部)の地域で、関八州の一つ「武州」とも云う。
牟邪志(むさし)・胸刺・知々夫の3国に分かれていた。
律令制下で「武蔵国」に統一され、国府と国分寺(現在の府中国分寺)に置かれた。
川越・熊谷付近の8世紀頃は、大規模な条里制が敷かれ「荘園」が成立、後管理者の中に、「武蔵7党・坂東八平」の武士団が結成された。
源頼朝のもとに結集した武士社会が中心になってい「鎌倉時代」に。
鎌倉道が開け、南北朝時代に足利尊氏の室町時代と上杉氏の支配下になる・・・・・。
国分寺市は、都の中央部・武蔵野台地南西で、「武蔵国分寺」から地名に。多摩川段丘武蔵野と一部立川面に立地し、国分寺崖線「ハケ・崖」が東西に
走っている。「湧き水」の多い所。歴史は古く、先土器・縄文時代の土器、遺跡が点在している。
江戸時代に入り、新田開発が進んだ、明治22年に「甲武鉄道・中央本線」が開通・中央本線の8年後には、「西武国分寺線」が川越に、昭和30年後は、
東京の別荘地から~ベッドタウンの都市化に。
「武蔵国分寺跡」は、駅から南西約1.2km 西元町にある。
741年聖武天皇のより建立ー東西900m・南北550mと推定・諸寺中最大と云われている。1333年新田義貞軍鎌倉攻めで焼失されている。

                        現在の国分寺駅改札付近


「江口定條」高知県出身。現一橋大学卒、同校教諭に就任・三菱合資会社専務理事、監事等を経て1920年同社総理事。
1925年社団法人如水会初代理事長・満州事変のあった1931年に南満州鉄道の副総裁に就任し、民政党系で、軍部に批判的な立場をとっており、翌年政友会の犬養内閣に罷免される。
当時総裁だった内田康哉はこの罷免に抗議し辞表提出。1932年、勅選の貴族院議員となる。
第二次世界大戦中の1945年、母校、現一橋大学、学部の建物に軍需省の部局が入居してきた際には、キャンパスが軍に占拠されることを恐れた学生の意を受け、ひょうたん池付近の学生集会所を「如水寮」と名付け、学生がキャンパス内に留まることができるようにした。
同施設では本間要一郎(横浜国立大学名誉教授)や蓼沼謙一(第8代一橋大学学長)ら学生のほか、大学附属東亜経済研究所所員の小島清や小山路男も生活したと云う。
父は、土佐士族江口千條で、江口昌條陸軍少将は弟。法制局長官を務めた次田大三郎や、満州医科大学教授を務めた平山達、キリンビール社長を務めた
時国益夫、テニス選手の鳥羽貞三は娘婿。孫にコントラバス奏者の江口朝彦など。
都国分寺市にある「都指定名勝の殿ヶ谷戸庭園」は、江口家の別邸として建てられた庭園。

「岩崎彦彌太」1895ー1967 71歳没。
三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員・三菱合資会社元社長・岩崎久弥の長男。

江口氏から岩崎家「国分寺の家」として別荘に、彦彌太は、昭和9年和洋折衷の木造主屋に立て替えている。
芝生地と武蔵野崖線下方の湧水で「回遊式庭園、次郎弁天池」とアカマツ・紅葉・竹林・クマ笹などの和洋庭園に、昭和49年都が買収し、整備され
有料庭園に指定開園された。
               平成23年「殿ヶ谷戸庭園・随宜園」として名勝に指定した。


                  昔、この辺り国分寺村殿ヶ谷戸と云う地名と云う。


     秋の七草 萩・尾花(薄)・葛・撫子・女郎花・藤袴・桔梗(万葉集は、朝顔が、朝顔は桔梗のこと)








福寿ー幸福で長生き。
「福寿草」はキンポウゲ科の多年草、シベリアにも分布、正月用の鉢植えにも、花は黄色で多数の花弁がある。有毒あり、



「山上憶良」 奈良前期の官人、歌人・遣唐少録として中国へ。大伴旅人と親交、万葉集に多くの歌を残している。



















「春の七草」セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベ・ホトケノザ(ダビラコ)・スズナ(カブ)・スズシロ(ダイコン)。

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