syuの日記・気まま旅

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伊豆天城 狩野城跡

2015-08-12 | 気まま旅

「伊豆半島」
三島ー沼津ー伊豆長岡ー戸田ー土肥ー賀茂ー西伊豆ー松崎ー南伊豆 駿河湾で、ー下田ー河津ー熱川ー伊東ー熱海ー湯河原に、相模湾で、
中央に韮崎ー大仁ー修善寺ー天城ー河津 狩野川が、

680年では、駿河国に田方、賀茂2郡を割いて1国、律令制では、田方・賀茂・那賀の3郡で国府を三島市鷹部屋、後に長谷に移ったとある。
古来罪人配流の地、源頼朝・日蓮が流された平安時代、駿河守「藤原維景」は、「狩野氏」名乗って、子孫は、伊東・宇佐美・河津氏として栄えて行く。
「伊豆介」として赴任した「平 時方」は、北条・韮山の土着、その子孫が「北条時政」らで「蛭ヶ小島」に流罪の「源頼朝」を擁して鎌倉幕府
の樹立に貢献した。時政の娘が「政子」頼朝亡き後「尼将軍」と称されている。
室町時代に「足利政知」は、田方郡堀越・韮崎町に居を構え、関東支配をめぐって下総の「古河公方」と対立した。
足利政知没後「伊勢新九郎・北条早雲」は、堀越公方を攻め、「韮山」を拠点に伊豆を支配していく。
北条早雲は、小田原に進出して戦国大名「北条氏」の礎を築いた。
近世に入り、伊豆は天領・幕府領となり、三島代官ー韮山代官「江川氏」が支配した。
1792年、ロシア遣日使節「ラクスマン」が根室来航し海防問題が持ち上がり、伊豆は、江戸防備の重要地となり、老中「松平定信」は、「下田」を
開港場となった。韮山に「反射路」が築かれた。
戸田に「洋式帆船」が建造・1868年の明治元年韮山県が置かれ、1876年静岡県に合併、、、。

「狩野城跡」
平安末期の1100年頃、「狩野氏」によって築かれた城の跡。
標高190mの城域には,鎌倉時代に発達した二重堀を備え,本郭・西郭・南郭・中郭・東郭・出丸に区分、中世山城の遺構が,重要な史跡
    

「狩野氏」
平安時代後期の11世紀半ばから室町時代後期の15世紀まで約400年にわたり、狩野地区の領主。
北条早雲が伊豆に攻め込んだときには敵対、後に狩野城を開城して降伏、小田原に移って後北条氏の家臣団の中枢で活躍した。
狩野城は、狩野川と柿木川合流点の南側の丘陵地に、急峻な斜面に囲まれ、深い空堀が各郭を区切るように設け、二重堀。
残っている地名から、戦のない平常時には城内でなく、西側の平坦地に住んでいたものと推測される。
近くには、「法泉寺」の、しだれ桜は天然記念物で、3月下旬には桜まつりも開催、花見客が訪れる。

    

祖・狩野維景が駿河守を退任し,初め,市内日向に館を構えたが,その子「狩野維職」が伊豆押領史を務め、軍事上の必要もあり要害の地を選んで
この地に移ったと云う。
最初の城主は二代維職が三代維次。維景から五代の孫茂光は,その子親光と共に源頼朝に従い,1180年、石橋山の合戦に敗北自刀したが,
子孫は鎌倉,室町両幕府に伊豆を代表する武将として仕えた。
1493年、からの「北条早雲・伊豆侵攻の折,城主狩野道一は足利方に付き戦い,敗れて開城したと云う。
その後一族は小田原に移り,後北条氏の重臣として重職を歴任している。
 
室町時代中頃から絵師として栄えた。狩野派の初代狩野正信は,維景から十六代の孫。
  

「狩野派」は、 親・兄弟などの血族関係を中心とした画家の集団で,江戸時代末期までの およそ400年もの長期間 日本の画壇に君臨し、特異な画家の系列である。
室町幕府の御用絵師となった「狩野正信」を祖として,元信・永徳・山楽・探幽・・・など名前を挙げきれないほどの多くの名人を輩出している。
この狩野家が 狩野城と どのような関係があったかについては,必ずしも明確な説明はない。

  

「一級河川 狩野川」 延長ー46km。
川流域は、火山地帯であり、箱根山・愛鷹山・富士山・天城山・達磨山などの第四紀火山や、新第三紀に形成された火山性地層からなる静浦山地などに囲まれ、流域の多くが脆弱な火山岩及び火山噴出物で地質が構成、大雨などで崩壊しやすいことも洪水の要因であると云う。
名称の由来は、日本書紀によるもので、「応神天皇」5年の274年、「伊豆の国」で船を造り、その名を「枯野」と称したとある。
それが軽野からカヌに変わったという説。伊豆市の湯ヶ島地区の松ヶ瀬には、軽野の造船儀礼と深く関わっていた神社である「軽野神社」が残る。

「宝蔵院」
延暦19年の800年、「弘法大師空海」が開いたのが始まりと伝えられている。
境内にある「いの字石」は空海が宝蔵院の山門前で発見され、法力によって「い」の字を刻んだと伝わるもので古くから無病息災に御利益があると信じられている。
後、1598年、佛山長壽禅師が改めて開山、永平寺(福井県永平寺町)の末寺となっている。
現在の山門は、1659年、に再建、単層切妻、銅板葺(元茅葺)、間口3m、奥行3.1m、彫刻は2代目甚五郎が彫ったものと伝えられ、
(伊豆市指定文化財に指定) 

    
弘法大師の創建と伝わる寺で、その後曹洞宗に改宗。本堂左手に弘法大師の命石といわれる霊石 ”いの字石" が残っている。

1659年、再建の山門に、「狩野元信」の下絵で左甚五郎作と伝えられる竹に虎の彫刻がみられると云う、
甚五郎作の篇額で表が船原山、裏が牡丹も残されている。

                        宝蔵院
    

「土肥温泉・日蓮宗 清雲寺」
小田原北条氏時代の土肥城主富永山城守の菩提寺。
天保三年建立の現今本堂に日蓮聖人一代記を掲額、畳一帖大の杉板(90枚)に岩絵具・貝粉などで描かれている貴重な文化財。日蓮聖人の生涯を描いた板絵額があるお寺として知られている。この90枚の絵を描いたのは浮世絵師の「歌川国秀」氏で、歌川氏が51歳の時に完成させた絵だと云われ、
明治23年、日蓮宗門篤志家の賛助により奉納された。
板絵は90枚にも及び、板の上に和紙を盛り上げて立体感を出すなどの手法を凝らし、肉筆彩色画で、大型の額の中でも傑出した作品と云う。
建物は、大工の神様として語りつがれる「酒井多次郎 藤原政房」。

(一運斉国秀画伯 作品 明治二十三年掲額)
現在では、その板絵が観光の名所、壮大な寺院内には、位牌堂(富永山城守御位牌・檀家各位の御位牌をお守りし山城守の開運を授かり無病息災を祈る)・七面堂(七十七段の石段を上りつめたところに御堂があり七面天女・鬼子母神女性の守護神・大蓮院(三十番神)

                 日蓮宗ー清雲寺
    

「日蓮聖人一代記 90枚を掲額 浮世絵師 歌川国秀 作」ー市有形文化財ー(本堂内)

日蓮大聖人の一生を知ることができる。


「七面大明神」
七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神。
七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになったと云う。
山梨県南巨摩郡早川町にある標高1982mの七面山山頂にある寺「敬慎院」に祀られている神で、吉祥天とも弁財天ともいわれる。
伝説によると、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、1297年、九月十九日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われている。
七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られている。
その姿は役の小角の姿である。日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰があったと云う。

                          七面大明神
  

次回は、土肥金山・丸山城跡へ。

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