伊豆半島の西付け根、東部中心都市・中世沼津郷、政治・経済地域、駿河湾北東部を抱き込、沼津町・楊原村・片浜・金岡・大岡・静南・愛鷹・大平
内浦・西浦ー北に「愛鷹山」「狩野川で二分」、先土器・縄文土器の遺跡が多く、弥生土器時代は水稲耕作がい営まれている。
鎌倉時代から東海道の要衝、戦国時代には武将らの争奪の舞台ー「武田勝頼」は、狩野川河口に「三枚橋城」を築城、江戸時代に、水野藩が支配下とし
城下町・宿場町として発展し、「沼津市」は、静岡県東部の中心、大政奉還後 1867年、「沼津兵学校」が開設、近代都市の基礎が築かれた。
「長浜」は、戦国時代の古文書に出てくる地名で、長い浜に面した土地から付けられたと云う。
「長浜城跡」は、重須と長浜の境にあり海に張り出した小山の城。戦国時代、豪族大川氏の居城。
また、「重須」は、長浜に続く集落で湾内の入り江に面していることから「面洲」・この土地にとって重要な洲を意味し重洲と称し、「重須」と記され、「北条水軍」の根拠地で船大将「梶原氏の陣所」と云う。
田久留輪や城下の地名が残っているいるとも云う。
1580年、武田水軍が重須港に鉄砲を放ち、千本浜の沖合で北条と武田の水軍が海戦となり、両者とも勝負つかず引き上げたとある。
「梶原景宗」- もとは紀伊の海賊と言われ、北条氏康が、自軍の水軍を強化するために招いた。北条水軍は領国への海上侵犯や小田原城への攻撃を
防ぐことを役割としており、2度にわたる安房・里見水軍の襲撃を阻止した。また、武田水軍とも駿河湾で海戦を交えたといわれる。
長浜城、伊豆国君沢郡長浜(静岡県沼津市内浦重須)にある。戦国時代の海賊城の遺構を多く残している。
「北条氏直」 1562-91 5代目城主ー小田原城主ー北条100年王国の幕引ー
北条氏政の長男、本能寺の変後、上野国にいた「織田信長重臣・滝川一益」を撃破して信濃国へ攻め入る。小県・佐久郡占領する。
甲斐の国をめぐり徳川家康と争うが講和している。家康の娘「督姫」を娶る。「名胡桃城」を攻撃した為、豊臣秀吉の怒りを買い征伐され降伏する。
妻と別れる時にお守りを渡し北条早雲が小田原城を奪った際の、武運を祈って食べた勝栗の半分を錦袋に納めた物、代々伝わる秘蔵の品だったと云う。
ー一族から世に出る者があれば渡してほしいー頼んだと云う。氏直は、復活をあきらめていなかったと云う。
秀吉から1万石を賜り大坂で30歳で没している。
駿河湾奥部の内浦湾に面したこの城は、室町時代から北条氏に仕えていた大川氏が居城としていた。
その後武田氏が狩野川沿いに三枚橋城(のちの沼津城と同地)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が1579年、頃、北条水軍の基地として改修し、
武田水軍との幾多の戦いの際の発進基地ともなった。
1580年(天正8年)には千本浜沖で、後に駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦も起こっている。
1590年(天正18年)、豊臣水軍の侵攻の際は土侍が敗走、一戦も交えず陥落した。築城時期、終焉時期の明確な記録は不明である。
国の史跡に指定、
市教育委員会による発掘調査・史跡整備が行われ、史跡公園。
城址の各所に解説版が設置されている。
総面積は、15476㎡・城郭の中で最も高い場所の「第一曲輪」は標高約33m。
海側からの攻撃を想定しておらず、敵の銃撃をよける「土塁」は陸側にしかないのが大きな特徴と云う。
全国的にもこの形の城はあまりないとも云われている。
1550年代の戦国武将の勢力図は、関東や伊豆を北条氏、駿河は今川氏、甲斐が武田氏。3氏に囲まれた「緩衝地帯」が
現在の沼津市のあたりだった。
駿河を手中にした武田氏が狩野川沿い に三枚橋城(沼津城)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が 1579に、
「駿河湾海戦」
武田氏の沼津三枚橋城と北条氏の沼津長浜城が整備された翌年、駿河湾内で海戦が行われた。
北条・武田両氏水軍は、天正8年の1580年、ついに両者の間に駿河湾を舞台に大規模な海戦が。
3月15日のまだ夜が明けきらない頃、武田方の軍船5艘による奇襲から戦いは始まり、鉄砲が飛び交う激戦を繰り広げた。
戦いは日没をむかえても決着はつかず、引き分けに終わったと云う。
北条方には「安宅」と呼ばれる50丁櫓の大型軍船があり、武田方は大分苦戦、4月25日に武田勝頼が武田水軍の小浜景隆・向井兵庫助に対して
「伊豆沿岸の郷村を数か所撃破したうえに、敵船を奪った」ことを称えている。
翌年3月29日に起こった沼津市久料(伊豆久龍津)での海戦においても武田水軍が「敵船3艘を乗り沈め、凶徒数十人を討ち捕えた」との記述があることから、3月の開戦後しばらくは武田水軍が優勢だったと思える。
織田・徳川連合軍が武田攻略作戦を進めると、これに呼応した北条軍も河東地域一帯から武田軍を追いやることに成功しているが。
武田軍は、この後盛り返すことはできず、滅亡へと進んでいく。
天正18年の1590年、
豊臣秀吉の小田原攻めに際し、長浜城は再び緊張状態におかれ、北条方水軍は、初めは豊臣水軍の来襲に備え下田城に集結しますが、評定の結果
籠城策と決まったため、小田原の川岸と油壷に移動、北条水軍の去った後の長浜城、在地土豪、大川兵庫が城将として籠城したと云う。
長浜城では大した戦闘はなく、韮山開城とともに廃城になったものと考えられている。
次回は、東海道、原町・吉原宿方面へ。
内浦・西浦ー北に「愛鷹山」「狩野川で二分」、先土器・縄文土器の遺跡が多く、弥生土器時代は水稲耕作がい営まれている。
鎌倉時代から東海道の要衝、戦国時代には武将らの争奪の舞台ー「武田勝頼」は、狩野川河口に「三枚橋城」を築城、江戸時代に、水野藩が支配下とし
城下町・宿場町として発展し、「沼津市」は、静岡県東部の中心、大政奉還後 1867年、「沼津兵学校」が開設、近代都市の基礎が築かれた。
「長浜」は、戦国時代の古文書に出てくる地名で、長い浜に面した土地から付けられたと云う。
「長浜城跡」は、重須と長浜の境にあり海に張り出した小山の城。戦国時代、豪族大川氏の居城。
また、「重須」は、長浜に続く集落で湾内の入り江に面していることから「面洲」・この土地にとって重要な洲を意味し重洲と称し、「重須」と記され、「北条水軍」の根拠地で船大将「梶原氏の陣所」と云う。
田久留輪や城下の地名が残っているいるとも云う。
1580年、武田水軍が重須港に鉄砲を放ち、千本浜の沖合で北条と武田の水軍が海戦となり、両者とも勝負つかず引き上げたとある。
「梶原景宗」- もとは紀伊の海賊と言われ、北条氏康が、自軍の水軍を強化するために招いた。北条水軍は領国への海上侵犯や小田原城への攻撃を
防ぐことを役割としており、2度にわたる安房・里見水軍の襲撃を阻止した。また、武田水軍とも駿河湾で海戦を交えたといわれる。
長浜城、伊豆国君沢郡長浜(静岡県沼津市内浦重須)にある。戦国時代の海賊城の遺構を多く残している。
「北条氏直」 1562-91 5代目城主ー小田原城主ー北条100年王国の幕引ー
北条氏政の長男、本能寺の変後、上野国にいた「織田信長重臣・滝川一益」を撃破して信濃国へ攻め入る。小県・佐久郡占領する。
甲斐の国をめぐり徳川家康と争うが講和している。家康の娘「督姫」を娶る。「名胡桃城」を攻撃した為、豊臣秀吉の怒りを買い征伐され降伏する。
妻と別れる時にお守りを渡し北条早雲が小田原城を奪った際の、武運を祈って食べた勝栗の半分を錦袋に納めた物、代々伝わる秘蔵の品だったと云う。
ー一族から世に出る者があれば渡してほしいー頼んだと云う。氏直は、復活をあきらめていなかったと云う。
秀吉から1万石を賜り大坂で30歳で没している。
駿河湾奥部の内浦湾に面したこの城は、室町時代から北条氏に仕えていた大川氏が居城としていた。
その後武田氏が狩野川沿いに三枚橋城(のちの沼津城と同地)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が1579年、頃、北条水軍の基地として改修し、
武田水軍との幾多の戦いの際の発進基地ともなった。
1580年(天正8年)には千本浜沖で、後に駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦も起こっている。
1590年(天正18年)、豊臣水軍の侵攻の際は土侍が敗走、一戦も交えず陥落した。築城時期、終焉時期の明確な記録は不明である。
国の史跡に指定、
市教育委員会による発掘調査・史跡整備が行われ、史跡公園。
城址の各所に解説版が設置されている。
総面積は、15476㎡・城郭の中で最も高い場所の「第一曲輪」は標高約33m。
海側からの攻撃を想定しておらず、敵の銃撃をよける「土塁」は陸側にしかないのが大きな特徴と云う。
全国的にもこの形の城はあまりないとも云われている。
1550年代の戦国武将の勢力図は、関東や伊豆を北条氏、駿河は今川氏、甲斐が武田氏。3氏に囲まれた「緩衝地帯」が
現在の沼津市のあたりだった。
駿河を手中にした武田氏が狩野川沿い に三枚橋城(沼津城)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が 1579に、
「駿河湾海戦」
武田氏の沼津三枚橋城と北条氏の沼津長浜城が整備された翌年、駿河湾内で海戦が行われた。
北条・武田両氏水軍は、天正8年の1580年、ついに両者の間に駿河湾を舞台に大規模な海戦が。
3月15日のまだ夜が明けきらない頃、武田方の軍船5艘による奇襲から戦いは始まり、鉄砲が飛び交う激戦を繰り広げた。
戦いは日没をむかえても決着はつかず、引き分けに終わったと云う。
北条方には「安宅」と呼ばれる50丁櫓の大型軍船があり、武田方は大分苦戦、4月25日に武田勝頼が武田水軍の小浜景隆・向井兵庫助に対して
「伊豆沿岸の郷村を数か所撃破したうえに、敵船を奪った」ことを称えている。
翌年3月29日に起こった沼津市久料(伊豆久龍津)での海戦においても武田水軍が「敵船3艘を乗り沈め、凶徒数十人を討ち捕えた」との記述があることから、3月の開戦後しばらくは武田水軍が優勢だったと思える。
織田・徳川連合軍が武田攻略作戦を進めると、これに呼応した北条軍も河東地域一帯から武田軍を追いやることに成功しているが。
武田軍は、この後盛り返すことはできず、滅亡へと進んでいく。
天正18年の1590年、
豊臣秀吉の小田原攻めに際し、長浜城は再び緊張状態におかれ、北条方水軍は、初めは豊臣水軍の来襲に備え下田城に集結しますが、評定の結果
籠城策と決まったため、小田原の川岸と油壷に移動、北条水軍の去った後の長浜城、在地土豪、大川兵庫が城将として籠城したと云う。
長浜城では大した戦闘はなく、韮山開城とともに廃城になったものと考えられている。
次回は、東海道、原町・吉原宿方面へ。