syuの日記・気まま旅

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東海道15.~17番吉原・蒲原・由比宿

2015-08-28 | 気まま旅

東海道五十三次吉原宿


広重の「左富士」、松並木を行く馬の背から進んでいく前方を見ると、「富士山」は左にある。東海道で唯一の左富士と云うが、相模川の位置
も左と云う。広重は、吉原を選んでいる。これは、ここで北西に曲がっている。
街道脇に「左富士神社」があると云う。

田子の浦の今は、田子江川、潤井川、小潤井川、和田川、沼川が流入し、港の周辺は、古くから製紙の町として発展。
日本製紙・王子製紙・三島製紙などの製紙工場が多く、倉庫(埠頭倉庫)、運輸業、食品加工工場も集中。
南側には石油埠頭があり、油槽所も多い、西側には、旭化成の工場、東側寄りには貯木場となっている。
港を作る前は砂浜海岸であり、湾になっていることで、定期的に浚渫工事が行われている。
田子の浦港に入港する外航船(外国貨物を運ぶ船舶)は、主に紙の原料となるチップや コーンスターチの原料となるトウモロコシなどの
バルカーがあり、これらはパナマックス級であることが多いが、このクラスの船に貨物が満載の状態や潮の干満を考慮しないと船底を擦ってしまい、接岸できなかったりする。
田子の浦湾


富士市から


「富士川」は、
町の西方であるが、昔は、原宿の浮島ヶ原にかけて一面が富士川の河原で、大雨等で流域が大きく変わっていった。


吉原宿は、津波で2度壊滅的な被害を受け、その度に宿場の位置が内陸部に移動。


            田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」 山部赤人(万葉集)。
    

      公園展望台から                  園内の神社で参拝
    

 「富士川の戦い」
治承4年秋の夜、武田信義の部隊が平家軍の背後に回るために渡河を開始、この時、富士川の川面で静かに眠っていた水鳥の大群がこの物音に驚き、
一斉に飛び上がった。この時の水鳥の羽音がすさまじく、これを源氏軍の夜襲と勘違いした平家軍は大混乱に陥ったという。
武器も持たずに逃げ回る者、杭につないだ馬にまたがり、ぐるぐる走り回る者、等々、散々な混乱ぶりだったと「平家物語」や「源平盛衰記」で、
実際にこのような混乱ぶりがあったのかどうかは定かではない。この混乱ぶりには、軍記物の特徴である誇張がかなり含まれていると思える。
士気も振るわず兵力でも劣勢に立たされていた平家軍が、源氏軍の襲来とともに、戦いらしい戦いもせずに潰走したことは確かと云う。
平惟盛が京に逃げ戻った時には、7万騎の兵力が僅か10騎になっていたという。

「平維盛」 1157-84 平清盛の嫡孫、重盛の長男、後白河法皇「五十の賀」で「青海波」を舞い、桜梅少将と呼ばれていた。
平家の総大将として「富士川の戦い」で潰走。「墨俣川の戦い」で勝利するが、倶利伽羅峠で木曾義仲軍に大敗する。
妻子を京都に残して高野山に出家する。都の空を望み妻子が恋しく那智の滝に打たれたと「平家物語」は、伝えている。

和田川          富士川の戦いの「平家越え橋」 


「平家越え橋」は、
平氏が敗走したのは富士市の新橋町辺りとされる。付近にはかつて「平家越」という小字があり、和田川にかかる平家越え橋の東詰めには「平家越えの碑」が建つ。
現在の富士川は市西端を流れており、碑とは6kmほど離れているが、これは江戸期の治水事業で川筋が西へ移ったため。
往時はもっと東を流れ、幾筋もの支流を形成していた。市内には地名に「島」とつく地域が多いが、これらは砂州・中州だったことに由来している。
吉原宿に近い。

平家越えの碑                   吉原宿跡


「源氏、頼朝」は、安房国平北郡猟島に。同地で先発していた三浦一族らと合流地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。
頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求め、
千葉常胤は、直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが「結城浜の戦い」、房総半島に大きな勢力を有する
上総広常の向背には不安があった。
頼朝は、300騎を率いて安房国を出立。下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。
武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっている。
頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、
何らの抵抗を受けることな、源氏累代の本拠地鎌倉に入った。

この辺りは、安藤廣重も東海道五十三次の「吉原 左富士」として描いた景勝地だったという。
治承年の10月、源平両軍が対峙した古戦場と伝わっているが、現在は、和田川の薄汚れた川が流れているだけの埃っぽい工場地帯であった。もっとも富士川合戦とは名ばかりで、実際には古戦場と呼ぶほどの大規模な衝突は起きていなかったという人もいる。

                   浮㠀ヶ原、富士沼での源平の戦いが


吉原宿からー「蒲原宿・由井宿」
                      東海道蒲原宿


15番目の「蒲原の宿」は、由比と同じ細長く、今でも格子戸が並ぶ町並み、
「蒲原宿」は、山、川、海に囲まれ、今は、静岡市清水区蒲原。駿河湾で最も奥深い海岸沿いに広がる東西約6.4kmの細長い町並み。
東海道五十三次の時代から、交通の要所として栄えた歴史のある地域で、温暖な気候や豊かな海に恵まれて柑橘類、桜えびなど特産品で知られている。

「蒲原城」
山城、築城時期は、 南北朝期。築城ー 蒲原氏、その後、佐竹氏、北条氏等。遺構ー 曲輪、土塁、堀切、石積 等がある。歴史は、
鎌倉期に「入江清定」の三男、清実が蒲原荘に居住し蒲原氏を名乗り、築城は南北朝期と推定されている。
1582年の織田信長・徳川家康の甲斐・駿河への侵攻の際、蒲原城は、朝比奈駿河守信置が守備していたが徳川軍の攻撃により落城した。
城は、東海道の難所、由比ガ浜と薩捶峠を眼下に控え、「海道一の堅城」と呼ばれている。
城山」と称される山は周囲と比べて飛びぬけて高い山、というわけではない。南側は急な崖、他の三方も深い谷に守られた堅固な要害。
甲相駿三国同盟が信玄の駿河侵攻によって破られた後、駿東一帯は武田氏と北条氏による激しい抗争が続き、そんな中でも、北条の長老格であった、「幻庵長綱の子」ふたりが討ち死にしたこの蒲原城の攻防戦は最も激しかった戦いのひとつという。

             蒲原宿から見える  蒲原山城跡の山  善福寺           


蒲原城跡の約650m東に標高約164mの御殿山山頂に、「狼煙場」と呼ばれてい 所がある。
蒲原城の東側は北方から山が張り出している、 そのため、「狼煙場」は、敵の動向を監視する目的で築かれ、蒲原城の外曲輪の働きを。

   宿場と山城跡                        御殿山向かいの山に狼煙場が     


「薩った峠の戦い」
戦いは、南北朝時代の1351年、薩った峠にて、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦。
「観応の擾乱」により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂している。
直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年、直義は、「桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信 濃を経て鎌倉へ至る。
尊氏は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、「仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進した」
直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進。両軍は、東海道の難所である駿河国薩った峠で合戦となった。
この合戦に勝利した尊氏勢は、その後、相模国早川尻(小田原市)などの戦いでも直義勢を破り1352年、直義は尊氏に降伏している。
浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月に急死、病死とされているが、「太平記」は、尊氏による毒殺であると記している。

「甲相駿三国同盟」は、1554年に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつ。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもので、締結時に3者が会合した
という伝説から「善徳寺の会盟」とも呼ばれている。

武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し1568年には同盟を破棄し、駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。
武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。武田軍は京都を目指した。

海側の下道と、ここ中道の薩った峠      昔の石塔          合戦案内板            
    

薩った峠は、真の宿本陣、西沢一里塚跡、~興津川一里塚跡の国道一号線バイバスを「下道」といい、東海道本線の山よりを「中道」その上の山道一部通行不能「上道」で、旧東海道は、「中道」をさすようだ。「薩った峠の合戦」は、狭い道でどのようにして戦ったのか想像出来ない。

東海道旧道          鰻の寝床の街並みが             中道から下道の水路
    

さった峠の名は、海から引き上げられた「地蔵菩薩・薩った」を祀ったことからという。
広重が描いた富士の絵は、中道からと思える。
東海道五十三次でもここだけが、今でも感じ取れるという。この道以外は、波打ち際の危険な「下道」を抜けたという。「親不知、子知らず」の道と呼んでいると云う。

狭い旧道の中道                 興津川・広重はこの辺から
  

                東海道五十三次「由井宿」


「由比宿」は、16番目の宿場。
小さな宿場町、海と山に挟まれた鰻の寝床が連なる農漁村だが、本陣、脇本陣が一軒ずつ有って密集し、昔は賑わいを見せていたのであろう。

「弥次喜多道中」で茶屋の女性達の呼び込みに辟易したのはどの辺であったのか。
宿場の西に由比川が流れ、水量が増すと「歩行渡り」で、越えなくてはならなかったという。
「踏み込めば 草臥足も治れるかや 三里たけなる由比川の水」と当時の狂言である。

JR東海道本線「由井駅」                   駅前商店街
    

「地持院」は、山号を北田山、臨済宗妙心寺派に属し、往古地持院山の麓か西山寺にあったという。
1573~91年 開山暗室和尚により、現在地に移転再興された。

爾来隣接の豊積神社の別当寺として神仏事を行って、明治初年の神仏分離策により、現在の寺形になった。
本尊は地蔵菩薩「市指定文化財」、他に江戸時代日照りに苦しむ農民を救ったと言われている伝説の「代かき地蔵」や「六地蔵」「わらべ地蔵」「のっぺらぼう地蔵」、
寺領ヌクイから掘り出された「掘り出し地蔵」等がある。
お地蔵さまの寺とも呼ばれ、本堂は大正10年、客殿庫裏は平成7年の建立し、開山暗室和尚より鮎川博道和尚で27代目と云う。

地持寺                               楼門
    

境内は、約二千坪に本堂・堂・客殿・書院・庫裡・山門・鐘楼等諸堂が配置され、飾る四十四面の襖絵・彼岸庭になっている。
心にやすらぎを与える禅寺らしい寺。本堂(大正10年建立)、客殿(平成7年建立)、彼岸庭より見た客殿。
書院(平成7年建立)、鐘楼(昭和34年建立)、住職手造の山門・塀と所々の彫刻もある。

寺の隣には、「駿河國廬原郡 豊積神社・旧郷社」がある。御祭神ー木花之佐久夜比賣命、旧由比町の鎮座。
鳥居をくぐると、茂った木々で境内は暗い、境内に、二基の鳥居、大イチョウの木がある。
神事の、「太鼓祭りは有名」境内には、太鼓の彫刻もあった。正面の社殿の後方には、垣に囲まれて、流造の本殿がある。参拝。

神社鳥居               拝殿                  地持寺   本堂
    

浅間神を祀る神社であり、往古は、豊積之浅間大明神と称していたという、豊積の社号に関しては豊受姫ではなく、木花之佐久夜比賣命の別名・豊吾田姫の豊と父神である大山祇神の祇から取られたという説もある。

坂上田村麿が東征の戦勝報告に当社に立寄り、ここで、宴を催したことから、太鼓祭りが起ったという。境内社の数も多い。

神社本殿                            緑に囲まれた境内
  

「経塚山、妙栄寺」は、1854年、日満上人が境内に大乗妙典を書写した経石数百個が埋没しているのを知り、土地の有志と石塔と草堂を建立。
これを経塚山妙栄寺と称し自ら開山となった寺。
当初は三間四面の辻堂にして、無檀無禄であった。明治23年、望月与平が堂宇を修繕してついに題目修行の道場とした。
18世一妙院日久と一浄院日豊法尼の心願によって現本堂が建立され、20世真亮院日恩に至って境内地の整備された。

                           本堂
   

「由比本陣」(大名が宿泊する施設)は、本陣一軒と脇本陣一軒、旅篭屋が三十二軒あり、相当な賑わいを見せていたと伝えられている。
弥次さん喜多さんで知られる「東海道中膝栗毛」の文中でも往時の賑わいぶりを伝えている。
由比町には、今も当時の面影を残す所が多く、町ではこの本陣屋敷を整備し、江戸時代の生活文化を知る貴重な体験ゾーンとして町民をはじめ訪れる人々が
江戸文化に触れることのできるよう由比本陣公園として開放。
                                 資料展示場
    

表門、石垣、木塀など、本陣は普通に見られる本陣とは少し異なっていて、街道に家屋を直面させないで塀などで遮蔽した。
「遮蔽型本陣」といわれる形式を特徴としている。表門、石垣、木塀や馬の水呑場などは、当時の佇まいを彷彿させる物。
「本陣記念館(御幸亭)」明治天皇がご小休された離れ屋敷。
茶室、水屋などを備えた伝統的な和風建築、出来るだけ当時のままを復元されている。
記念館前にある庭園は「松榧園」といい、その由来は家康公お手植えの松、馬つなぎの榧があることから山岡鉄舟が命名したもの。
記念館北側の庭は、小堀遠州作といわれており、当時の石組みなどを修復しながら再整備された。

                     本陣 庭園
    

「楠木正雪」は、慶安4年・1651年に、「由井正雪の乱・慶安の変」を起こし駿府にて自害。享年47。正雪の首塚が「菩提樹院」に存在する。
慶安の変 は、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を
集めて幕府転覆を計画した事件。しかし仲間の裏切りによる密告によって、事前に発覚したため、正雪は駿府の宿にて町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。
事件は、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換することになったきっかけの一つ、とも言われている。

東海道幕末の風雲児、正雪は、駿府まで逃げて自刃したが、遺髪を託し「正雪紺屋」の浦に埋められているという。
明治に掘り出されかけたが、災いが起きたため中止されている。

明治天皇休息処碑                 本陣前の紺屋
    

これで伊豆・沼津・東海道原宿ー由井宿は終わります。次回は、山梨県、大菩薩峠方面へ。