syuの日記・気まま旅

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駿河湾 沼津

2015-08-20 | 気まま旅
「県道17号」
沼津土肥線は沼津市口野のR414交点を起点に、伊豆半島北東部を海岸沿いに走り、土肥町(現 伊豆市土肥)のR136交点に至る54.1kmの主要地方道です。(土肥ー戸田村)


県道17号線を沼津から西伊豆方面に海沿いに走ると、その途中にいくつかの富士山が見られる展望台があります。
その一つ、静岡県沼津市井田にある「煌めきの丘」に立ち寄りました。
この「煌めきの丘」からは井田集落や明神池、駿河湾、そして天気の良い日には正面に富士山が見られるはずなのですが、今回の旅行探検で訪れたときは富士山全体があつい雲で覆われており見ることができませんでした(残念)
しかし、2月~3月頃にしか見ることができない菜の花畑の「井田」の文字を見ることができました。

ちなみに今回は行きませんでしたが、この「煌めきの丘」から少し下ったところにある「明神池」には徒歩10分ほどで行けるそうです。
次回の旅行探検で行った際には「明神池」や「松江古墳群(すんごうこふんぐん)」、駿河湾に面した海岸線まで行ってきたいと思います。



起点である沼津市・口野放水路交差点から伊豆半島西海岸沿いを進み、三津、西浦、大瀬崎、戸田を経て伊豆市に入り終点の土肥中浜で国道136号に接続します。駿河湾を眺めながらのドライブコースではありますが道幅の狭くカーブが多い区間が点在するので快適とまではいきません。沼津から土肥へのアクセスには国道136号



伊豆半島最南端の石廊崎と御前崎を結ぶ線に囲まれた海域が駿河湾で、その最深部は2,500メートルに達し、日本の湾の中では一番深い湾です。
駿河湾は、湾の間口も奥行きも約60km、表面積は約2,300平方kmです。
その水深の特徴は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境に位置し、1,000メートルより深くに海底峡谷が湾口から湾奥部まで南北に連なっています。
湾内には約1,000種の魚類が生息しているといわれています。(日本の魚類は淡水魚を含め約2,300種)イワシ、アジ、サバをはじめ、サクラエビ、メダイ、ムツ、ヒラメ、ソコダラ類、ボタンエビ、アカザエビ、クルマエビ、イセエビ、タカアシガニ等が生息しています。
また、珍しい深海魚が生息していることでも有名です。

日本の深い湾トップ3

1位 駿河湾 2,500m 静岡県

2位 相模湾 1,500m 神奈川県

3位 富山湾 900m 富山県

資料、出典:東海大学出版会日本海洋学会沿岸海洋研究部会編、「駿河湾のなぞ」(星野通平編)
資料協力:沼津市、富士市


雄大な富士山を眺めながら、駿河湾を渡る高速カーフェリー。清水港と西伊豆土肥港をわずか65分で結んでおり、ちょっとした船旅気分も味わえる。特別室もある豪華なフェリーは横揺れ防止装置を備え、快適な乗り心地。広いデッキでは頬にあたる潮風も気持ちいい。

ヘダ号は、戸田村に感謝し命名された日露合同で造船された西洋式帆船の船名。

沼津市の戸田地区 写真は2010年のもの
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)の安政東海地震によって伊豆半島は津波の被害にあった。この時、ロシアの海軍中将であるエフィム・プチャーチンは日本との国交樹立交渉のため、フリゲート「ディアナ号」(2000トン級)にて来日し、下田に停泊していた。津波によりディアナ号は直撃を何度も受け、半日もの間激しく湾内を旋回した後、沈没は免れたが、大破した。

ディアナ号は破損した船体を修復すべく、幕府の許しを得て、戸田村へ向かったが、航行中に強風と大波にあい1855年1月15日(安政元年11月27日)に田子の浦沖で座礁し、1855年1月19日(安政元年12月2日)に沈没する。幸いにプチャーチンと乗組員は、大地震の被災者でもある地元の人々の協力により救助され、宮島村(静岡県富士市)に上陸する。 プチャーチン使節団の応接掛であった川路聖謨も、ただちに救難対策を講じた。この時、ロシア人一行は、自身のおかれた状況も顧みず、献身的に救助してくれた地元の人々に対し大いに感謝したと伝わっている。

日露和親条約締結後、プチャーチンは帰国ための船の建造を幕府に願い出る。その申し出は許可され、戸田村・牛ケ洞にて帆船の建造が始まる。日本人は官民合同で300人と、ロシア人500人の計800人に上り、日本史上初ともいえる日露合同の造船が行われた。

日本人とロシア人の言葉の壁や、西洋式の帆船であるための資材の調達や専門技術者の不在など、数々の問題はあったが、日露双方が一丸になって取り組み、着工から3ヶ月という短期間で、2本のマストを備えた小さな帆船が竣工する。プチャーチンは、村民への感謝をこめてこれを「ヘダ号」と名付けた。「ヘダ号」は無事、ロシアのニコライエフスクまで航行し、プチャーチンたちは3年ぶりに祖国に帰還した。

1856年(安政3年)9月に日露友好のシンボルとなった「ヘダ号」は日本に返還されるが、戊辰戦争の局面の箱館戦争で官軍に対し使用されたのを最後に、その記録は途絶えており、行く末の詳細は、わかっていない。

戸田村では、ヘダ号の同型船である君沢形の量産が行われ、日本の造船技術の発展に大きく寄与した。



梶原 景宗(かじわら かげむね、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将。後北条氏の家臣。備前守。
紀伊国の出身であったが、水軍の指揮に長けたことを北条氏康に見込まれて、その家臣となり伊豆水軍を率いた。里見氏や武田氏との戦いでは、水軍を率いて活躍したと言われている。しかし『北条記』では「海賊」と記されている。『北条五代記』では、「船大将の頭」と記されている。また、近年では伊勢湾沿岸と関東地方を結ぶ交易商人としての側面が指摘されている(北条家臣安藤良整と共に多くの商業関連の文書に連署している事からも窺える)。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で水軍を率いるも本多重次の配下であった向井正綱率いる徳川水軍に敗れた。北条氏直とともに高野山に赴き、氏直の死後は紀伊に土着したという。 文書上、最後に動向が確認できるのは天正19年(1591年)に北条氏直が景宗から贈呈された鯖50匹に対する返礼。

北条氏康から景宗宛ての書状で「海上警備の為に現地(伊豆海域)に残ってほしい」とするものや、里見水軍との戦いに際しては「紀伊衆が活躍し~」などと記述が残っており、北条氏の直臣という立場ではなく、前述の交易商人としての行動や、「傭兵」のような形で属し、立場としては客将のような形であったと思われる。(ゆえに北条氏の滅亡後は本拠の紀伊へ戻っている)