syuの日記・気まま旅

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山中湖から三嶋大社

2015-08-05 | 気まま旅

山梨県南都留郡山中湖村にある淡水「山中湖」

富士五湖のひとつで最大の面積を持つ。
湖面の標高は富士五湖の中では最も高い位置にあり、日本全体でも第3位。逆に水深は富士五湖の中で最も浅い 13.3m。
(世界文化遺産・富士箱根伊豆国立公園に指定)

富士北麓に点在する富士五湖の中ではもっとも南東に位置し、南都留郡山中湖村の中央に位置。
山中湖は相模川の源流である。「桂川」呼ばれている。
山中湖は富士五湖で唯一 天然の流出河川を持った湖でもあり、湖面の形は北を上にして見ると鯨の形に似ている。

                  雨上がりの朝の湖畔


「東富士演習場」
富士山東麓の御殿場市、小山町、裾野 市にまたがる陸上自衛隊の演習場。
面積は8,809ha(88.09km²)で本州の演習場では 最大と云う。このうちの畑岡地区は富士総合火力演習場。

「富士総合火力演習」
「そうかえん」ー 陸上自衛隊が行う演習の一つ、静岡県御殿場市の東富士演習場で実施。
一般公開の演習は、陸上自衛隊が行うイベントの中で最も人気があり、戦車やヘリコプター、様々な火砲などによる実弾射撃を間近に。

次回・平成27年度富士総合火力演習ー 平成27年8月23日(日) 10:00~12:00



「須走」-静岡県小山町ー
県北東、もと、駿東郡須走村・酒匂川支流の佐野川の上流に位置する。富士登山東口の拠点として栄えた。現在自衛隊富士学校・東富士演習場



「国道138号」
総延長ー73.2 km・制定年ー1953年指定・起点、山梨県富士吉田市ー御殿場市ー終点、神奈川県小田原市



「鎌倉往還」
江戸ー甲府間の旅程はほぼ2泊3日と云われている。
江戸との諸商品の移出入は同時に江戸文化流入の道でもあった。
甲州街道と東海道との脇往還として駿(静岡県)豆(静岡県)相(神奈川県)3州と結ばれる鎌倉往還は
御坂峠から富士北麓を籠坂峠越えで東海道沼津宿に通ずるが,郡内領と密接なつながりをもち,次に駿河と結ぶ中道往還は右左口峠を越え
精進,本栖の湖畔を経て富士西麓から東海道吉原宿に達した。
富士川舟運に並行して,甲州街道韮崎宿へ結ばれる駿信往還その他がある。

  

「富士登山道・本宮須走 浅間神社」
平安の桓武天皇の時代、802年、
富士山東脚が噴火、当時の国司・郡司(朝廷の役人)は、恐れおののく住人のために鎮火の祈願を行うべく、富士山東面・須走の地に斎場を設け、鎮火祭を斎行したと云う。すると、噴火が収まったと云う。
平城天皇の時代・807年、鎮火祭跡地・現在の御社殿の地に神をお祀りしたことが、創建と伝えられる。

平安時代、弘法大師(空海・真言宗)が当社にて修行を行い、富士登山をしたという伝承も存在したことから、かつて中世期頃までは弘法寺浅間宮と称されていたとも云う。
室町時代ー江戸時代には、一般庶民による富士山登拝信仰・富士講や修験道者の信仰を集め、須走口登山道・須走の宿場町とともに栄え賑わった。
この頃より、須走口登山道の9合目・迎久須志之神社、6合目・胎内神社、5合目・古御岳神社、4合目・御室浅間神社、2合目・雲霧神社は当社の神主により祭祀が行われていた。
明治時代、政府による国家神道の方針の下、全国神社は国家の管理下におかれ、県社(静岡県が管理する神社)の社格が授けられた。
大正時代ー昭和時代初頭は富士講による登山参拝者が最も増えた時期であり、講社により建立・寄進されたものが残っている。

現在、富士山本宮浅間大社(富士宮市・富士宮口)、北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市・富士吉田口)等と共に、富士山登山道の麓に鎮座する神社として、崇敬を集め、平成19年には御鎮座1200年の佳節を迎えている。
(富士山とともに世界文化遺産に登録)
  

静岡県東部、伊豆半島の基部、東に境川・西に黄瀬川の扇状地上に市街地が広がり、古代には、「伊豆国府」」が置かれた。
地方行政中心地でもある。鎌倉時代に「三嶋大社」の門前町・江戸時代には下田街道の分岐点の宿場町として発展し、箱根越えの拠点である。
「富士箱根伊豆国立公園」玄関口。

「伊豆国一之宮・三嶋大社」
三島駅から南約1kmの町の中「大宮町」に鎮座。三島明神とも称している。
祭神ー大山祇命・事代主命で、創建は不明であるが平安時代初期には文献などに登場している。
源頼朝・北条政子の鎌倉時代は、武家に信仰され保護を受けている。
江戸時代530石を領有した。

          社家の「河合家」は、三島暦を発行・国宝政子奉納した絵手箱など多数。
    

「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者 鎌倉幕府初代将軍、源義朝嫡男・母は、熱田大宮司藤原季範の娘、平清盛継母「池禅尼」
平家盛と生き写しだったので命乞いをして伊豆へ流された。

「北条政子」 1156-1225 頼朝の妻、尼将軍と云われた女性政治家 2男2女を生む 父ー北条時政 弟ー義時
次男ー頼朝の次男 実朝を将軍とし、後見役として幕政に、義時を二代執権にして実権を握る。

               二人が腰かけた石
  

「蛭ヶ小島」 静岡県伊豆の国市の地名。源頼朝の流刑地として知られる。当時は、海に浮かぶ島であったと云う。
しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されるのみで、「蛭ヶ島」というのは後世の記述であり、真偽のほどは不明と云う。
発掘調査では弥生・古墳時代の遺構・遺物のみで、平安時代末期の遺構は確認されていない。
「吾妻鏡」では頼朝の流刑地について「蛭島」とのみ記している。
蛭ヶ島公園として整備されている場所は、江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、これを記念する
碑が1790年に建てられたと云う。

         「蛭島碑記」国市指定有形文化財・公園内には頼朝・政子夫妻の像が作られている。


蛭ヶ小島という名前から狩野川の中州というイメージで小説などに描かれることが多いが、狩野川はやや離れており、地質調査の結果から当時も付近を大きな河川が流れるということはないことが分かっている。
平安時代の蛭ヶ島一帯は水田で、水田の多い湿地帯のなかに島状にある微高地であると考えられる。

    

公園内に建つ茅葺きの建物は、江戸時代中期の農家の建物「上野家住宅」を移築したもので、静岡県の有形文化財に指定されており、内部には民具や農具などを展示して、歴史民俗資料館となっている。
  

次回は、韮山反射炉へ