goo blog サービス終了のお知らせ 

syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

下野薬師寺跡 日光街道

2012-04-25 | 気まま旅
日光・奥州街道最大の宿場宇都宮を後にし、日光街道を上っていった。東北新幹線を挟んでバイバスと旧道4号線に別れ旧道を行く、夕顔の種から作られる、
かんぴょうの雀宮宿、将軍家の日光参拝の休憩の石橋宿と進めた。

日光街道は五街道のひとつで、江戸から日光までの約140kmを結ぶ街道である。幕府の公道としては、日光道中と言った。
日光には、東照大権現と崇められた徳川家康の墓があり、歴代将軍や諸大名の社参の道として整備され、江戸から宇都宮までは東北へ向かう奥州街道と
重複しているため、参勤交代の大名の通行も多かった。

1843年に発行された紀行文によれば室町時代、足利義満が将軍の時代、将軍と将軍が争うことが多くこの地方でも小山と宇都宮の合戦が発生し戦争の中心地であった。
「茂原合戦」ともいわれ、地蔵院とゆうお寺がその戦争で焼かれた多くの人々が亡くなり村人達は戦死者の散乱した刀の鞘を拾い集めてお寺の焼後に埋め
小さなお堂を造り石仏の地蔵様を安置しとある。
明治・大正・昭和の初めには地蔵尊入口両面には桜の並木があり安産地蔵様として親しまれ、お祭には露天商がたち並び手づくりの舞台で演劇や踊りで
大勢の参拝客で賑わいっている。


雀宮宿に入る少し手前の国道右側に石碑が1本立っている。「茂原正観音道」と刻まれている。下野三十三観音霊場の二十番札所へ行く道標でもある。

  

「石橋宿の開運寺」
日光のお成道、休憩寺であった。
第15宿となる石橋宿。宿名は池上明神前に架けられていた石橋に由来するという。今となってはその明神や石橋がどこにあったのかもわからない。
本陣・脇本陣・問屋・名主の宿役人はいずれも伊沢家が務め、現在も伊澤茶舗や伊沢写真館等、伊沢姓の家が多いと聞く。
伊沢家は宇都宮氏一族の多功城主多功氏に仕える家柄だったが、戦国時代末期に宇都宮氏が没落すると石橋の地に土着したという。

1843年当時の記録によると、石橋宿は町並み南北5町28間(約596m)、人口414人、家数79軒、本陣1、脇本陣1、旅籠30軒という宿場規模で、
北条雄之助代官所の支配下にある幕府領であった。石橋は、干瓢の産地である。

      

石橋山の扁額を山門に掲げる開運寺。徳川将軍日光社参の際、休息場として境内に御殿所が設けられたという。境内に見事な松の古木がある。

  

「下野市 愛宕神社」
国道4号線沿いに鎮座。拝殿の手前には石碑があった、境内、社や神輿倉が並んでいる。

  

愛宕神社参拝し、国道352号線を右折する。

  


「史跡 下野薬師寺跡」は、7世紀末、この地方をおさめていた豪族、下毛野朝臣古麻呂によって創建されたと考えられている。
古麻呂は、天武天皇・持統天皇らに仕え、また藤原不比等からの信任も厚く、大宝律令制定の重要なメンバーで、古麻呂の、下野薬師寺の重要度を高め、
709年に、式部卿正四位下という、現在でいえば国務大臣級という高い地位で亡くなっている。
その翌年、710年に、都は藤原京から奈良の平城京へと移り、律令国家の制定とともに、国を仏教の力で治める「鎮護国家」の確立が推し進められ、
都はもちろんのこと、地方でも寺院が整備されていった。下野薬師寺も、下毛野朝臣古麻呂の功労から国によって整備され、東国における仏教施策の一翼を担う、
重要な寺院として位置づけられる。
薬師寺は、9世紀中頃に大火災に見舞われ、伽藍の中心部が焼失してしまい、国家仏教の衰退とともに、天台宗など新興宗派が興り、比叡山などに戒壇を置き、
それぞれが独自に戒を授けるようになった。
廃寺となりかけた下野薬師寺を、鎌倉時代に慈猛上人が復興。14世紀南北朝時代には、足利尊氏が、戦死者を弔うために、全国に安国寺の建立を発願し、
下野薬師寺が、安国寺と改称されたといわれている。
戦国動乱の時代、1570年に下野薬師寺は、小田原北条氏と結城多賀谷氏との戦いの中で焼け落ちたと伝えている。記録も失われた。
 

  

藤原不比等 659-720 鎌足の子 奈良時代、養老律令推進者、持統天皇(女帝)の信頼を受け太政大臣・正一位に。

    

次回は栃木市へ。