日光をとりあげて2週間ほど間があきましたが、続きを掲載します。ちょっと時期外れの感がありますがお許しください。

宿の庭、朝日に輝く氷柱、前日とはうって変わって好天気である。

朝一で雪の残る(3月中旬)日光市を抜け、今市へ。今市は、江戸時代日光街道の宿場町であり、日光例幣使街道・会津西街道が分岐する交通の要衝として栄えた町。
県内屈指の木材集散地で、建具、木彫品、木炭と線香などあるが、線香は、杉葉と豊かな水車動力との組み合わせで適しており代表的地場産業になっている。
「杉並木」
日光へ通じる道には御成街道、会津西街道、例幣使街道の3つの街道があり、これが現在の今市市でひとつになり、 日光街道となって日光に達している。
日光杉並木はこの3つの街道に植えられた。
日光から宇都宮へ向かう「例幣使街道(現121号線)と会津に向かう西街道沿いに、約延長37km、一万五千本、樹齢300年、最高50mを超える
杉が並んでいる。

日光街道から1時間ほど走り、大谷観音へ。
「大谷石」水分を吸収しやすく凍結に弱いが、火熱に強く、1000℃以上でも安定である。ほかの石材に比べて軟らかく、採掘や加工が容易である。
露天掘り、坑道掘りで切り石として採石され、土木・建築用に広く利用されている。耐火用として倉庫や石蔵に用いられるほか、土台や石塀にも用いられる。
アメリカの建築家F・L・ライトは、旧帝国ホテルの建築に用いた。
「大谷」宇都宮市、県中央、市西部。石切り場、石材商、石造りの家屋が並んでいる。採石場跡地の一部が陥没し埋め立てられた。
「大谷平和公園」

大谷観音は身丈26.93m(88尺8寸8分)の高さで、第2次世界大戦による戦没者の霊を弔い、世界平和を祈念するために大谷観音の御前立として彫刻された。
昭和23年9月より大谷石の採掘場であった壁面を利用して南側の岩肌に刻んだ。完成は昭和29年12月。昭和31年には日光輪王寺門跡菅原大僧正により開眼供養が行われた。
それ以降はこの場所は「大谷公園」と呼ばれ、整備された。公園には他に「親子かえる」、かえるの後姿に見える物、採石場跡の生々しい壁面が丸出しで見える。



巨大な石臼のような奇岩「スルス岩」、「天狗の投石」や「慰霊塔」がある。石像、採石場跡、奇岩等コンパクトにまとめられた公園。








「大谷寺」周辺には、縄文時代の人の生活の痕跡が認められる(大谷岩陰遺跡)、また810年に空海が千手観音を刻んでこの寺を開いたとの伝承が残ることなどから、
千手観音が造立された平安時代中期に、周辺住民等の信仰の地となっていたものと推定されている。
平安末期には現代に残される主要な磨崖仏の造立が完了し、鎌倉時代初期には鎌倉幕府によって坂東三十三箇所の一に定められたものと推定されている。
鎌倉時代に入ると、大谷寺は宇都宮社の神職で鎌倉幕府の有力御家人でもあった下野宇都宮氏の保護の下で隆盛したと見られ、1965年の大谷寺発掘調査において、
鎌倉時代の懸仏、1363年奉納の経石、1551年と書かれた銅椀などが出土している。しかし豊臣秀吉により下野宇都宮氏が改易されると、一時は衰退を余儀なくされた。
江戸時代に入って、奥平忠昌が宇都宮城第29代城主に再封された後の1615年 - 1624年、慈眼大師天海の弟子であった伝海が藩主忠昌の援助を得て堂宇を再建した。
天海僧正は天文年間に宇都宮城下の粉河寺で修行した経歴を有しており、徳川幕府が擁立された後、徳川家康と代々の将軍家の援助により上野寛永寺を建立したほか、
日光山貫主として堂宇再建を行っている。



大谷寺は、山号 天開山、 天台宗、本尊 石造千手観音菩薩立像、開基 不詳 、別称 大谷観音、札所等 坂東三十三箇所十九番札所。
文化財 石造千手観音菩薩立像、同釈迦三尊像、同薬師三尊像、同阿弥陀三尊像(国の特別史跡及び重要文化財)、
銅鐘(県指定有形文化財)、銅製灯篭、銅製鰐口(市指定有形文化財)


次回は大谷多気山不動尊へ。