日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

浅草寺(1)由緒と雷門

2012-05-25 | 仏閣
今年二回目の浅草寺の拝観です。



今回は境内に隅々までまわってみました。

浅草寺縁起(由来)
 
 時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。
 大化元年(645)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法(でんぼう)の掟は厳守されている。
 広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)さま(794~864、浅草寺中興開山・比叡山天台座主3世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。
 鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所と定められてからは、堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、「浅草観音」の名称で全国的にあらゆる階層の人達に親しまれ、年間約3000万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。(浅草寺HPより)


浅草寺の総門である雷門、最初の門は平公雅(たいらのきんまさ)によって42年(天慶5)に建てられました。



浅草寺といえばこの雷門がシンボルになっていますね。

さて、この大きな提灯の下はどうなっているかというと



こんな彫刻が施されています。

今まで気づかなかった~(^_^;)

龍は雨を降らして建物を火事から救うとして昔から龍神として崇められ、お寺や神社には龍の彫刻が奉納されているそうです。

雷門

天慶5年(942)平公雅(たいらのきんまさ)によって創建され、その初めは駒形付近にあった。鎌倉時代以降現在地に移築された際、風神・雷神が初めて奉安されたといわれる。
 当初は、伽藍守護のために、風水害または火災からの除難を目的としてこの二神がまつられたもので、一種の護法善神(ごほうぜんしん)と見るべきものであったが、さらには、風雨順時の天下泰平、五穀豊穣の祈願もこめられるようになったものと推測される。
 現在の門は、慶応元年(1865)12月12日の田原町大火で炎上した門に替わり、昭和35年(1960)、95年ぶりに松下電器創始者松下幸之助氏のご寄進により、復興再建され、浅草寺の総門として威容を誇っている。また、浅草の顔としても全国的に有名。(浅草寺HPより


提灯の下をくぐる時、頭上を見上げながら通ってみてください!

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鉄造菩薩頭

2012-05-21 | 仏閣
水天宮をぶらぶらしていて偶然通りかかった大観音寺。

こちらに珍しいものがあるそうです。






鉄造菩薩頭

所在地 中央区日本橋人形町1-18-9(大観音寺)

この菩薩頭は鋳鉄製で、総高一七〇センチメートル、面幅五四センチメートル。頭頂部のみは後に補修され鋳銅製。頭上には高さ五三センチメートルの高髻(こうけい)があり、後補の鋳銅製蓮華座に乗っています。
この像は、もと鎌倉の新清水寺にあった観音像でしたが、鎌倉時代の火災で崩れてしまいました。江戸時代に頭部が鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出され、明治初年の神仏分離の令に際し鎌倉から移され、明治九年(一八七六)大観音寺に安置されています。以後、本尊として今日に至りました。毎月十七日に開帳され、信仰を集めています。
中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品で、昭和四十七年四月、都指定有形文化財に指定されています。
平成八年三月
中央区教育委員会



実際拝観された方の話によると、かなり大きな菩薩頭が観音さまの後ろに見えるそうです。

毎月17日のみご開帳ということなので、いつか機会があったら拝観してみたいものです。

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三渓園(10)旧東慶寺仏殿・旧燈明寺三重塔・本堂・淡墨桜

2012-05-16 | 建築物
旧東慶寺仏殿(重要文化財)江戸時代初期





鎌倉の東慶寺にあった仏殿で1907年(明治40年)に移築されました。

旧燈明寺三重塔(重要文化財)1457年(康正3年)建築



園内のほぼ全域から見ることができる三重塔は、1914年(大正3年)に移築されました。

旧燈明寺本堂(重要文化財)室町時代建築



三重塔と同じ京都燈明寺にあった建物です。



淡墨桜





散りぎわに淡い墨色を帯びることから淡墨桜といわれる。
国指定天然記念物ある岐阜県根尾村淡墨桜の種子から育てた苗木を植樹した。
継体天皇のお手植えともいわれる。



ちょうど淡墨桜と三重塔がよくマッチしています。









ここから出口までもう少しです。

三渓園の記事はこれで終わりです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

(案内板、三渓園HP参照)

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三渓園(9)旧矢箆原家住宅

2012-05-15 | 建築物
旧矢箆原家住宅(重要文化財)1750年頃(宝暦年間)





岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にあった合掌造の民家で、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、1960年(昭和35年)に移築されました。
内部には古い民具の展示があり、見学できます。



岩瀬(矢箆原)佐助は、飛騨三長者のひとりで、飛騨地方の民謡に「宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ」 (普通の農民は3人の真似ができない)と歌われるほどでした。



紅梅が見頃でした。



(案内板、三渓園HP参照)

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三渓園(8)春草廬・横笛庵

2012-05-14 | 建築物
春草廬(重要文化財)桃山時代建築





三畳台目の小間茶室は、織田有楽斎の作品と伝えられています。
茶室内に九つの窓があることから、かつて"九窓亭"と呼ばれていました。

初音茶屋





横笛庵






 
建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と呼ばれていますが、横笛の像は、戦争の際に失われてしまいました。
横笛は、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。 横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、縁結びの像」として知られていました。





(案内板、三渓園HP参照)

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